台風の目

無残な雨に降られつづけて一週間。ようやく取材旅行が終わった。
最終日の夕刻、タクシーの後部座席に疲れた体をあずけていると、アラブ系の運転手が「アー、ルガルド、ラバ!(ほら、あそこを見て!)」と、いきなり奇怪な声をあげる。火事か事件か犯罪かと思い彼が指さすほうを見あげると、トロカデロ広場の向こうに、先刻まで雲霧に溺れていた太陽が、ちらりと顔を覗かせている。ほんの一刻、白銀色の冬の陽射しがパリを透明に照らしだす。運転手が思わず声をあげるのも納得なほど、一週間ぶりに見る太陽は美しい。バカみたいに重い戦闘服をまとっていた自分の心が、瞬時にやわらいでいくのがわかる。

日本であれ、ヨーロッパであれ、どこであれ。取材をしつづけていると、いけないとは分かっていても、知らぬ間に心が戦闘態勢に染まっていく。なるべくニュートラルに柔和に、普段と変わらぬ自分で取材対象者に会いに行くよう試みてはいるものの、気づくとなにか余計な戦闘服を自分が着込んでいたりする。いけない。ちなみにどこに行っても思うことは、たいがい取材対象者本人はとても「普通」だということ。そしてむしろ、彼らをとりまくマネージャーやアシスタントやプレスといった関係者が、普通の人を普通じゃなくあえてまつりあげているということ。

今回の旅で、特にそれを感じたのが女優ジュリエット・ビノシュのアシスタントのローラン君。まだ20代半ばだと思わしき彼は、この仕事について1年ほどしかたたないのだが、まるで歩くコンピューターのごとく、1分1秒も無駄にすることなく、弾丸スピードの英語を駆使して、てきぱきと仕事をこなしていく。バジェットはいくらだ、取材時間は何分必要だ、ビノシュのこの本とこの絵とこの映画は見たか。そんなに矢継早に質問しなくてもさ、と逆に笑けてきてしまうほど息つく間もなく質問攻めにしてくる。彼自身、自分の若さをなめられないよう、あえてそうした「ザ・プロフェッショナルな態度」を過剰に装っている事情があるとはいえ。その事情を差っ引いても、彼の態度は高圧的にとられかねない。そして実際、この態度に威圧されてビノシュに会うまえに萎縮してしまう人たちもいるのだろう。

けれど実際に大女優に会うと、彼女自身はやっぱり、びっくりするほど普通の人。いや、これじゃ言葉があまりに足りない。あえて言語化するなら普通じゃない芯の強さを持つからこそ、逆に、誰の前でも普通でいられるしなやかさな人だった。優雅な飼い猫を膝のうえにのせ、純絹のように滑らかな声音でこちらの質問に丁寧に答えてくる。

台風の目はいつだって、静かで孤独で穏やかだ。おそらく人間もこれと同じで、凛々しく孤独に闘う人間のまわりには無風状態の静けさが漂う。ただ彼/彼女が一歩移動するたびに、まわりが過剰に「台風情報」を騒ぎたてるのだ。その過剰報道に煽られていては、その人、そのもの、真実の姿は見えてこない。そうならないためにも、私自身も強く地に足をつけ生きていく必要がある。

(December 6, 2008)



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