幸せアレルギー

「地球上でいちばん大切な人を、自分以外に探すことができたの」

三十九歳のアンジーは、軽やかにこう口にした。
イタリア、スペイン、アメリカ、シンガポール、ニッポン。
この世にあるのかもわからない<理想の愛>を見つけるために、彼女は世界中を旅してきた。陽気な彼女のかたわらにはいつもふわりと男性が寄りそってくる。けれど彼女の心には、ぽっかりと大きな穴。ローズ・ド・ニュイ(夜の薔薇)の香水に溺れたイタリア人との甘美な愛も、バルで夜な夜な歓談に酔いしれたスパニアードとの陽気な愛も、東西の哲学議論にあけくれたシンガポール人との刺激的な知性愛も、どれもこれも、季節が二度巡るころには終わりを告げていた。彼女がいつも欲したのは、特大の無償の愛。求めて求めて求めて、世界の街を旅しつづけた。

けれどある冬、地元に帰郷し、彼女は不可知な愛に出逢う。「ファックスロールよりも長い理想の男性リスト」には八割方チェックがつかない相手なのに、なぜか、心がはなれない。ある意見を言えば、彼は違う見解をかえす。以前ならそれにいちいち腹を立てていた。けれどいまは視点が二つあることが逆に喜びを倍加させる。独りでいると会話が濁らないけれど、二人でいると会話が止まらない。そこでアンジーは一昨年の大晦日の晩、ガレージで車のエンジンを止めるとともに、理想の男性リストを破り捨てる。そして彼の胸に飛び込む。気づけば初夏の緑が輝くころには、しゃちほこばった条件リストの存在などきれいさっぱり忘れていた。ああ、私は本当に彼を愛しているんだ。間歇泉が吹き出すように、エネルギーが心奥から解放される。以来、彼女の毎日は、発見と驚きと喜びの連続。彼女は言う。

「ようやく私は気づいたの。愛は二人で作りだすものだって」

けど天の邪鬼な私は「そんな愛のクリシェには騙されないぞ」と、すぐさまこれに呼応しない。「もしそれが本当なら、あなたは今すごくハッピーね」と偏屈な疑問を投げ返す。

すると彼女はうぶな少女のような笑顔でうなずき、一拍おいて、現代女性ならではの愛の混乱に充ちた言葉を加えてくる。「でもハッピーすぎて怖いのよ」。なんたる贅沢。心のなかの小鬼がつぶやく。だが、どうやら彼女は嘘なくハッピーを恐れているらしい。だからいまの彼との生活が万事うまくまわりはじめてから、幸せになるほど不安に駆られ、喜びが多いほど心配に襲われ、結果、四肢の皮膚が日々荒れどおしだという。ほらね。そう言って空色のセーターの袖をまくると、熟しきった苺のような湿疹がそこらじゅうに浮き出ている。

「私は幸せアレルギーなの」。アンジーは妙なことを言う。

彼女が実際のところなんのアレルギーかはわからない。でも彼女自身は自分の体が、断固、幸せに拒絶反応を示していると信じている。いったいこの世の男女の愛は、どれだけ複雑になればすむのだろう。

男がいる女がいる。
互いが互いのことを大切に思う。
ただ好き、見ていたい、理解したい、助けたい。
その気持ちを臆面もなくさらけだし、相互に素のままの相手をいちど受けいれ、より豊かな愛を育む営為に向きあっていけば、関係性はふくらんでいくのではないか。私はそんな素朴な卵のような愛が、この世からまだ絶滅していないと祈りたい。

私は幸せアレルギー。
愛の現代病をアンジーから告白された夜。私は自宅に帰り、枕に頭をうずめ「いったい愛ってなんなのさ」と、ぼやきながら疲れた眠りをむさぼった。

(January 9, 2009)



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