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落語社会学
立川談春さんの落語会に足をはこんだ。めったに落語は聴きに行かないのだが、今回はご本人に取材した関係で、即日完売だという独演会に、幸運にもご招待いただいた。銀座のブロッサムホールは二階まで鈴なりの満席。客層も世間一般の寄席のイメージとは異なる、老若男女いりまじった構成。ミュージカルやバレエなどの公演に比べるとむしろ客のバランスがとれている。客電があえて落とされた会場で落語に興ずるという体験は初めてだが、それだけ観客も集中して闇のなか噺家に耳を傾けていた。
談春さんは咽頭ポリープの術後だとは思えない覇気にみちた口跡。口先よりも想いが前につんのめるような衝動的なしゃべりが印象的。まるで「ここにいる客全員を、今晩、俺のものにしてさらって帰ってやる」と腹の底で吠えているような骨っ節で、のほほんとしたイメージの落語とは相反する、怒りにも似たプラズマ波動を終始放射している。おのずとこちらも理屈というより、節まわしや勢いでぐいぐい引き込まれていく。
しかしここで書きたいのは、失礼ながら談春さんの芸とはまったく関係のない話。あえて端的に語るなら、落語とは非常に日本的なものを扱う芸能なのだなと改めて感じたということ。何をいまさらと思われるかもしれないが。これは別に八五郎や殿様や長屋の大屋さんといった、一昔前の登場人物が描かれるから云々という表層的事象について言いたいわけではない。ただここで描かれる精神がゆるぎなく"現代"日本的なのだ。
当日は『妾馬』という世間からある種ドロップアウトした我が道を行く主人公が、殿様の世継ぎを産んだ器量良しの妹に会いにてんやわんやの登城を果たすという噺が披露された。だがこの噺のスジがどうにもこうにも、最後まで私には納得がいかない。なぜなら「結婚しない、嫁ももらわない、俺はそれでいいんだ」と清々しくゴーイング・マイウェイに生きるように見える主人公の男が、いきなり終盤になってコロッと「俺はこんなだから親孝行のひとつもできないんだ」と世間的な価値観に寝返って自分を否定的にかえりみるのだ。この噺のなかで唯一、世間よりも自分の価値観を強く信じて自由に生きるように思える主人公だったのに。最後の最後で、ものすごく平凡な価値観の、ものすごく平凡にいいことを言って終わる。で、これに客は感動の涙を流す。けれど私には正直、ちょっぴり残念な結末に思えた。至極バイアスのかかった乱暴なまとめ方をするなら、とても自分の想いに純粋な個人主義的な生き方が、世間一般に善しとされる最大公約数的な生き方に呑み込まれ「めでたしめでたし」と終わったように思えたのだ。
ここから論を飛躍逸脱させると、なぜ現代日本で落語が流行っているかが自分なりに見えてくる。いまは経済破綻だ、不況地獄だ、首切りだ、といろいろ足場が危うい世。すると人はおのずと「安定」に走る。こんな時代だから仕事があるだけでもいい、という言葉を昨年から何度耳にしたかわからないが、なんて保守的な自己肯定だろう、とそのたびに私は時代の影響を思わずにはいられなかった。いずれにしろ、人心の針はいま安定の方角にぐいと向いている。すると、良くも悪くも同調性の高い日本人はより互いに同調して生きるようになる。世間的にアベレージな道を行くことで、平均値な幸せだけはなんとか死守しようと努める。そしてその結果、ちっちゃな幸せとちっちゃな不幸せを、つつがなく、平凡に、温かな眼でつむぐ落語の世界に魅了されていく。どうだろう。まあ落語にもよりアウトローな演目はあるのだろうし。私は社会学者ではないのでこれは完全に勝手な憶測にすぎない。けれど今日幸せな笑いに満ちた会場に二時間身を置いてみて、肌身で、今の時代が落語的なる生き方を求めているように思えた。
(January 10, 2009)
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