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アートの真価実験
冬晴れの清々しさのなか大粒の雹がにわかに降る、という不気味な天候変異に見舞われた成人の日。えいやと重い腰をあげ都内某美術館を訪れる。傑作もあれば駄作もあり。正直、ピンキリのキリのほうは「美術館に飾ってある」というフレーミングがなければ、屑かごにポイッと捨てられてしまうのでは、誰もアートとして認識しないのでは、という眉唾な代物もあった。でもそんな作品の前でも鑑賞者はふむふむ感心している。こうした光景を目のあたりすると、いったい芸術の価値ってなんなんだろうと漠然と疑問がわいてくる。人はアートの何を見て、いったいふむふむ頷くのか。いったい何を根拠に美しさを評価するのか。いったい何を感じて心を震わせるのか。
この流れで今日ここで話したいのはワシントン・ポスト紙に掲載された記事。いろいろなサイトに情報が出まわっているので、既に聞き及んでいるかたも多いかもしれないが。この米国有力紙はジョシュア・ベルという今や飛ぶ鳥を落とす勢いの世界的バイオリニストの協力を得て、ある子供のイタズラのような実験に出る。実験ミッション=「芸術はコンテクスト抜きでも人に理解されるのか」。要は美術館に飾ってある、名のある芸術家である、批評家が新聞で誉めている、という外的要因をすべて取り払ったところでも、芸術の真価は同じように人に伝わるのか。という、そんな実験だ。
ある朝、ジョシュア・ベルは、くたくたジーンズにベースボールキャップという、いわばそこらのぱっとしないストリートフィドラーと変わらぬ装いで、ワシントンDCの地下鉄駅構内に立つ。時刻はラッシュアワー。官公庁が近いため、ブランドスーツに身を包んだ、エリートサラリーマンが足早に改札をくぐりぬけていく。改札手前のある一角で、おもむろに、何億という市場価値をもつストラディヴァリウスを取りだすベル。ほんの数秒の気まずいチューニングののち、一曲目、渾身のバッハのシャコンヌを駅構内に響かせる。果たしてどれだけの人が、あきらかに尋常レベルを越えた彼の演奏に歩を止めるのか。結果はーー、惨憺たるもの。43分の演奏中、たった7人が立ち止まり、27人が小銭を投げ入れ、あとの1070人は彼を黙殺し無表情に改札を通りぬけていった。
この結果を知るといったいどれだけの人が、事前情報ゼロ、知識ゼロ、外的要因ゼロの、フラットな環境のなかでも芸術そのものの美しさを「感じる」ことができるのだろう、と頭を悩ませてしまう。多くはまわりの意見に右にならえして、人がいいと言うものを考えなしに「いい」と思いこんでいるだけではないのか。あるいは学習した芸術史の文脈になんらかのかたちで則すかたちで「知識的にいってこれはいい」と数学の計算式を解くかのごとく論理的判断を下しているだけではないのか。ダンスや演劇を見まくる仕事をしている私でも、そうした「コンテクスト情報」に頼っていないと言いきる自信はまったくない。
アートと鑑賞者が素っ裸の状態でがちんこで向きあう。そこで頼れるのは、アーティストの力と鑑賞者の力のみ。その完全フェアファイトな闘場でも、真価を伝えることができるアートがどれだけあるだろう。あるいはその真価を受信することができる鑑賞者がどれだけいるだろう。あまりペシミストすぎる予想はしたくないけれど。正直いって共に数はそう多くない気がする。となると巷間をにぎわす芸術の真価って、いったいなんなんだろう?
The Washington Post http://www.washingtonpost.com/
(January 13, 2009)
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