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愛と不在とゴドー
愛は不在と深い仲にある。愛おしい相手が遠くにあるとき、愛はますます深度を増す。だがどれほどその深度が増しても、ぶつける相手がいない愛は、未完了な消耗を招き、その消耗が不安へ、不安が怖れへとつながっていく。そして不幸な場合、実物の愛する相手がようやく目の前にあらわれたとき、その相手を真正面から受け止められなくなってしまう。これは不安の自家薬籠中というやつで、第三者からみれば、目もあてられないだろうが当人は必死なのだ。
「ゴドーを待ちながら」というアイルランドの劇作家サミュエル・ベケットによる傑作芝居がある。これは名も知れぬ二人の男が、来るとも分からぬゴドー氏からの連絡を、ただただ2時間、待ちつづけるという芝居。私がこの作品を最初に知ったのは、もう10年も前のことになる。そのときは二人の待つ男を描くことの、なにがそんなに劇的なのか、なんて退屈な芝居なんだと生あくびを噛み殺したものだった。だが気づけば女三十路への歳月は一瞬にして流れ去り、私もそれなりに人生は前進ばかりじゃないという機微が解せるようになってきた。そしてそんな今になってようやく、この芝居の底意が自分なりにつかめるようになった。
待つ行為は、相手がいてはじめて成り立つもの。相手が必ずいつか現れる。そうした期待のもとに待つ行為は、辛さのなかにも希望がある。その希望が、不在の日常を照らしだす太陽となる。だがベケットはここで、その待つ相手が果たしているのかいないのか、来るのか来ないのかもわからぬ無限地獄に二人の男を突き落とす。
忘れさることも、歩きさることも、捨てさることも、彼らには選択することができない。ただ、待つ。ただ、待つ。こうなると日常のすべてが羅針盤を失っていく。待つ相手が自分の魂に不可欠な存在であればあるほど、羅針盤は強烈な磁力に狂わされ、今立つ足場さえも不確かなものにしてしまう。いったい、いま私はどこに生きているのだろう。泣きじゃくりたいような不安に襲われる。その不安に蓋をするために、ディディとゴゴは落葉のように掃き捨てられる冗語的な会話で時をうめていく。
日々の習練と忍耐が、なにごとを成すにも必要だ。「待つこと」とて同じ。習練と忍耐が成功への鍵となる。けれどこれらの地道な努力も歩むべき道筋が定まって、はじめて実を結ぶもの。方向感覚を失った努力は、いかなる果実もみのらすことなく、時を虚しく浪費させるばかり。浪費はいつしか倦怠へとつながり、そして魂が徐々にしなびていく。「待つ」という行為の震えるほどの残酷さ。その行為がどれだけ人の心を痛めつけ、消耗させ、無に貶めていくか。その経緯を真正面から描ききったベケットという作家に、いまの私は荘厳な末恐ろしさを覚える。
(March 23, 2009)
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