NYストーリー 2

時差惚けが尾を引く疲労感が体の底に溜まっていた。両脚が重く、背中が板きれのように固い。古びた背もたれのブルックリンの劇場で三時間に及ぶ芝居を見終え、夜の帳のなか、さあマンハッタンに戻らねばと考えたときには、女ひとり身の緊張感をたずさえ、地下鉄を乗り継ぎホテルに戻るのが、なかなか億劫になっていた。そこで劇場出口からマンハッタン四十七丁目まで直通で体を運んでくれる、安全できれいな直行バスに、やや値が張るものの乗り込むことに。乗車口で係員に7ドルのチケット代を支払い、バス中央部の二人並びの席にひとりゆったり身を預ける。ほっと一息。これで何も考えずホテルの近くまで行くつくことができる。つねに自分の半径数メートルにアンテナを張っていなければ、いつ足下をすくわれるかわからないニューヨークの生活では貴重な安全感だ。同じく芝居を見終えたばかりの、やや年配の男女も、心おきなく観劇仲間との会話に花を咲かせている。

だがこの街では危機は予告もなくやってくる。ブルックリンを出発し、順調にイーストヴィレッジを通り抜け、二十五丁目あたりまで到達したとき、突然、急ブレーキとともに「ゴツン」と何かに衝突する感覚があった。事故と呼べるほど大げさな音ではない。自転車がカーブを切り損ね、近くの電柱にぶつかってしまったほどの軽い衝撃。トラフィックマナーの荒いこの街のこと。あらかた前の車のバンカーにでも、軽くぶつかってしまったのだろう。そう事情を推察して、通路側から前方の運転手を見やる。と、スーパーボウルに出場するクオーターバックのようにアドレナリン全開の運転手が大声で暴言を叫びながらバスを荒々しく降りていく。

「あいつ絶対にカットイン野郎だぜ。ふざけんな、金なんて絶対にやらないぜ」

バスドライバーの文句から察するに、我々のバスはどうやら、この国の当たり屋に狙われてしまった模様。赤信号でバスが停車する直前に、意図的に前方にカットインし、俺の車を傷つけてくれてどうしてくれるんだ、といちゃもんをつけて金をまくしたてるのが目的らしい。その狙いがバスドライバーはよくよくわかっているからか、はなから相手に対して謝罪の言葉をいれやしない。開口一番「ふざけんな」。そして互いに口角泡を飛ばし、相手の鼻先で文句を叫びあう。こうなると、アベニューのど真ん中で、クラクションの絨毯爆撃を受けながらバスは立往生。日本人的にはそんな凶暴な当たり屋は夜の街中に放っておいて、バスをそそくさと発車させてしまえばいいのにと思うのだが、アメリカ人はどちらが悪いか白黒つくまで一歩も動かない。しまいには、バス内の乗客たちもドライバーの援護射撃を買って出て、一致団結バスチームとして、カットイン野郎を攻めはじめる。

だがそこは時間に追われた短気なニューヨーカーたち。五分十分と罵倒合戦がつづくころには、みな口々に文句をぼやきながら夜の闇に消えていく。それはコーヒーマシンが壊れたのなら、しょうがないから紅茶でいいわよ、と気の利かないダイナーで注文を即座に変えるのと同じぐらい日常的な行為。まるで事故などはなから存在しなかったかのように、キャブをつかまえ去っていく。おそらくこのカットイン野郎の話題など、雑音情報の多い彼らニューヨーカーの会話からは、数分後には消失していることだろう。

疲れた体を預けるため、あえてバスに乗車したにも関わらず、結果的には地下鉄以上の労力と金銭力を裂いてホテルに戻ることになった帰路。そりゃこの街の人々はタフにもなるわ。と、ホテルのベッドに倒れこみながら吐息が漏れてくる。しかし東京という名の無菌状態の街に慣れてしまっている身には、逆に、これがほどよい刺激にも思えてくる。自分は自分で生き抜いている。この街に一人でいると、否応なく、そんな奇妙な充実感がもたらされる。これは自宅の脱衣所と同じテンションで街を歩いても何も起こらぬ、摩擦レスな日本社会では持てない感覚。自衛という名の日々の戦いが、心に生の充足感をもたらすのだ。人と人が、車と車が衝突するたびに、やわに心を痛めていては生きのびていけないニューヨーク。ふてぶてしく折れない心が、不夜城の灯火をうけ、いたるところに屹立している。

(May 24, 2009)



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