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第三次突発性コウモリ症候群
それはあるとき突然、訪れる。昨日までは日常であると信じていた場所が、あるときふいに日常でなくなる。環境は変わっていない、そこで生きる人も変わらない。にも関わらず、その中央にたたずむ自分だけがふわふわと空間に浮遊している。そして浮遊感のただなかに「変だ」という違和感だけが言語化され、自分のなかにずんずん沈殿していく。
変だ、変だ、変だ。
なにがどう変なのか具体的にはさっぱりわからない。けれどその体感は圧倒的な絶対感であり、仮にたとえるなら、あのイソップ寓話の『卑怯なコウモリ』よろしく、鳥の一族にも獣の一族にもなじめないでいる孤独感に近い。こんな突発性コウモリ症候群に、わたしはオリンピック周期ぐらいの頻度で襲われる。そしてここ一年程おそらく、成人してから三度目の、重度突発性コウモリ症候群に罹っている。いや症候群、などというと誤解を招く。この言葉にはなにか、早いところ治療して元通りにならないと、このあとの人生をずっと神経衰弱の瀬戸際で生き続けなければならないぞ、という息苦しさがただよう。でもわたしにとってはむしろこの病は、健康の兆候。心が健全に機能しているからこそ、なんらかの意味で毎日が機械的すぎる退屈さに支配されると、心のアラームが警笛を鳴らし始めるのだ。
ただ二十代までの私は、このアラーム音が作動しても、それをなるべくミュートに近づけるべく必死に抑制してきた。変だ、と叫ぶ自分の心はひとときの衝動に過ぎない。名づけようもない焦燥のせいで、自分がいままで築いた人生を、投げ捨ててしまうなんて馬鹿げている。そう自分を大人顔に戒めていた。でも今回のコウモリ症はいつもとはちょっとばかし異なり、抑制ではなく肯定感が、自分から導き出されてくる。「感情にきちんと目を向けて、自分の行動を考えなさい」とある大切な人に言われたことも大きく作用している。またそれなりに歳を重ねたことで、心を欺いて何十年と生きつづることに、リアルな恐れを感じられるようになったことも影響している。
変だ、という警告音の裏にはひとつの事実がひそむ。それは自分のなかでの価値観が大きな地殻変動を起こしたということだ。そしてこうなると、それまでの日々の常識会話が、偏見の集積会話に聞こえてきてしまう。仕事相手とのおさだまりな挨拶のしかた、家族内での暗黙なる相づちの打ちかた、ある業界内での善とされる価値観への盲目さ。すべてのことに無数の「なぜ」の疑問符が浮かびあがる。「常識とは、十八歳までに蓄えられた偏見の集大成である」とアインシュタインは語った。つまりは幼少期に受ける、ゆるやかでたえまない家庭内洗脳が、常識とよばれるなにかにいつのまにか成り代わるのだ。が、あることをトリガーに脱洗脳がはじまると、それまでの自分の常識基盤がいかに偏見の寄せあつめであったかがまざまざと見えてくる。そしてこの澄みわたる眼を持てたときこそが、孤独でいておもしろい、一時的な世界からのコウモリ状態になったときなのだ。
常識が偏見だと暴かれ、いままでの自分のかたくなな阿呆さに愕然と気がつくと、いくつかの溜め息ののちに、気持ちがおのずと謙虚になる。わたしはいまこの謙虚さを大切に、自分の内から響く「変」にじっくりと耳を澄ましている。それが、いったい自分になにを伝えようとしている音なのか。心の警告と世界の歩調、ずれてしまったふたつの位相が、あたかもライヒの楽曲のように再同期するときまでーー辛抱強く待ってみたい。
(January 9, 2010)
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