エンデと望郷の想い

ミヒャエル・エンデの『遠い旅路の目的地』という短編小説を読んだ。
母の顔を知らず、父から愛されず、ただうなるほどの金と地位を与えられ、精神が生活から孤絶した状態で育ってしまう少年。表情に乏しく世のなににも動じない彼は、まるで薄い皮膜の向こう側で、全世界の傍観者になってしまったかのようだ。そんな彼があるとき「故郷」という言葉に出逢う。そしてすべからく人は故郷を語るとき、表情を和らげ頬をほてらせ興奮することに疑問を抱く。果たして人の心をあたたかな色あいに染めあげるこの「故郷」とはいったいなんなのか。彼の明晰な頭脳は単語の概念を理解することはできても、その概念をどうしても生理と結びつけることができない。そして少年は故郷と呼べるなにかを探すべく永く遠い旅路に出る。

エンデの小説はいつもこうして、ひとつのささやかな疑問からはじまる。彼自身のなかにもおそらく明解な答はない。ただ子供のように放逸な好奇心でもって「故郷とはなんだろう」と読者に問いかける。そして子供向けにつづられた平易な言葉でもって、油断のならないアバンギャルドな哲学を打ちだしてみせる。それこそ凡人がゆったり腰を落ちつかす平穏な既成概念を粉みじんに打ち砕くような、なかなかに危険な結末に達したりする。

この短編にしても読者は、文章に目を通すまえまでは「故郷とは故郷と呼べる土地のことだろう」と信じて疑わぬ無批判な常識をかまえているはずだ。辞書をひもといても「故郷=生まれ育った土地、ふるさと」と解説されている。だが作品を読み進め、エンデの疑問提起にのることにより、故郷という概念に対して根こぎ状態に陥るような思考を強いられることになる。果たして故郷とは本当に土地のことなのか、その土地と結びつけられた人のことなのか、あるいは土地も人も関係なくのちの人生で出逢う芸術や宗教も故郷になりうるのか。実際この小説の主人公は、最後まで人や土地に故郷と呼べるぬくもりを覚えることができず、一幅の絵に故郷を見る。

ときを同じくして唐詩選を精読していて、いかに望郷の念を詠み上げる歌が多いかに驚いた。いまどきのぞろっぺえな言葉でいうならホームシック。つまり故郷を恋しいと想う心は、恋愛や別離と同じように、歌にせずにはいられないほど烈しく詩人の心を揺さぶってきたのだ。けれどこのとき詩人たちが詠んだ「故郷」とはいったい何だったのか? ある一定の土地だったのか、ある独りの愛する人だったのか、あるいはすべてが想像上の美化された追憶にすぎなかったのか。

わたし自身は土地に望郷の念を抱いたことはない。東京に生まれ海外もふくめ幼少期に引っ越しを七回もしていては、どこを故郷と呼んでいいのかわかりゃしない。では家族は故郷ではないのかと問われると、それはイエスでもありノーでもある。やはりこの年齢になると、父と母が作りあげた家族は本質的には彼らふたりのものであり、自分はすこし余所者だ。もちろん大切な存在ではあるけれど海外に出てホームシックになることはない。さてそうなると、わたしの故郷はどこにあるのか。答えは「いまだみつからない」。そして二ヶ月前のブログにも書いたけれど「おそらく人にある」。エンデがつぶさに描写したように、ふとした瞬間に想い出すだけでふわりと笑顔を浮かべてしまう、その温かななにかこそが故郷と呼べるものになるはずだ。三月からすこし長く海外に出る。そうした異質な時間を持てばまた、故郷に対する考えも変わるかもしれない。

(January 24, 2010)



Please leave a comment.

Name

E-mail

Calendar
November 2011
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      


Recent Entries
美女と酒と芸術のクルージュ
東京演劇現在形ウェブサイト
11月5日発売『東京演劇現在形』
批評家・イン・レジデンシー
英語という機械へのチェンジ
五輪開催地域と芸術家村
地獄の週、楽園の週
ロンドナーの経済時間感覚
東京をニュートラルに旅立つ
「ふだん革命」の提言
告知:7月ロンドン移住
仕事十年のふりかえり
変で不思議なシンガポール
鳩山、オザケン、清原
閉塞感をドーナツで打破
大ピンチが生む純粋思考
「孤独都市」の震災被害
日本の日常が恋しい
パリでネット難民
頼り、地道、感情
ものすごい日常ブログ
大地震
東北・太平洋沿岸地震
非旅化した旅の良さ
ふにゃふにゃカミングアウト
公共劇場と三つのコスト(2)
公共劇場と三つのコスト (1)
ちくしょう、な初もの体験談
島根の美景に、酔えない
論・簡・速コスモポリタン脳
年越しブログ2010
現実認識の感受値と「才能」
時代と私とメタモルフォーゼ
世界は独話でまわっている
太陽的な意志に殉じる
言語のピュリティ
自分の理性は自分じゃない
保留時期
言葉は嘘つき、声帯は正直
沈黙 (2)
沈黙 (1)
バーチャル廃止宣言
美しい女の武士道
ロンドン版寅さん
自分法典とマサツ回避会話
夏の色の記憶
「生産性」とアートの定義
好奇心診断とアボリジニの知
三好十郎と八月に歩くこと
記者会見用の会話術
体内時計と脳内時計
会話欲と心のホメオスタシス
フランス特有の概念
美しい太陽と美しくない太腿
日常の喜び打率をあげる
蘇州と上海のパノラマ
上海、人海
「砂上の楼閣学習」を改める
Epidemic of Insomnia
やさしい私のロボ彼氏
地球に無智の「赤っ恥」
怠け者のススメ
思いきりセンチメンタル
Urgernt International Call
Kindle英語学習
パリ・メモランダム
花見の色彩
完全精度の人工物
混沌社会ビセートルと自由権
論理力の壁
ナンパ師と世界の救世主
英国観劇メモランダム
ブライトン・ブルー
「Behave」の文化
愉快なロンドン観察記
心の垢すり、再び海外へ
英国Twitter世代演劇
質問を投げるピッチャー
文体と身体のリレーション
仮想リクルーティング活動
平和なカフェと戦争
エンデと望郷の想い
雲南省と文学とマルジェラ
第三次突発性コウモリ症候群
活字を書きながら年越し
京都で呼吸しつつ想う
誕生日と男女共存論
思考と表現とシエンツァ
神谷美恵子と前進の日々
ーーーー
お金と人間の主従関係
NYとアートと七つの大罪
耳たぶと朝靄の孤独
基礎練習と検定試験
帰国、しきる
二年前のロンドン
遊び上手は仕事上手
いまどき大学生雑感
イニシュマン島の静寂 1
アラン諸島と精神美
文明からの隔離
不景気駄文
先史時台へのトリップ
ベルヴィーユと寿町
学習の花を咲かせる
男女の俗説を論証する
博多商人の街は健在
精神的な受動態からの脱出
家族と彼氏とプティタミ
集団失業ヒステリー
Avignon Report ナチェラ・ベラーザ / Le Cri
アヴィニヨン
自分でウェブマガジン
学生宣言
情報センサーを磨く
温泉バージン
難儀な三つ子の魂
フィレマトロジー
NYストーリー 3
NYストーリー 2
NYストーリー 1
豪州でベッタな街
南半球ヘ
ナザニーヌの集中力
UK, France, Netherlands
中学生の一人旅
めんどうくさいの罪
愛と不在とゴドー
男子弱体化と男性不妊症
エローレとエラーレ
デンマーク人の会話法
誇張表現と不器用さ
福岡のオアシス
フランスのメトロノーム生活
コペンハーゲンの人口美
心の手綱
車内アナウンスと自由意志
福岡で女論
信頼度数
官能的なローマの蓮
海外旅行の3Kと体験知
アートの真価実験
落語社会学
幸せアレルギー
昼/夜
2009年のはじめに
年の瀬の家族
無作法と無思慮
Festival d'Automne 2
Festival d'Automne 1
アイソレーションと脳劣化
光のアルペジオ
台風の目
ピュターン!
パリ・アゲイン
シャーデンフロイデ
スタンダールと日本人の幸福
個人主義礼讃のなぜ
アノスミアと感情
個人的な啓示
ちっちゃく大胆な告白者
結婚ミッション
レユニオン島とスルツェイ島
無意味さの意味
シュツットガルトの思索
パリの月と孤独
London-Paris-Stuttgart
結婚と色気
RENTのインタビュー
会話の優位感覚
スウェーデンと日本
スコトーマ
カウチ・サーフィン
座禅
レセプター
7月取材のブログ
男の性欲と行動力
死刑問題
恋する女の理性
ルグリと自己決断
マチュー・ガニオ 最終回
もうひとつのオリンピック
マチュー・ガニオ4
マチュー・ガニオ3
マチュー・ガニオ2
マチュー・ガニオ1
宮本亜門の人生
クイーン・ラニア
Kamikaze sperm
シュツットガルト
THE DIVER
アムステルダムの窓
雨雨雨
イギリスのインフレ
また渡欧
愛撫の効用
タロット占い
思考停止と差別
ダンスとアートとセックス
カウンセリング
デザイナーズ・セックストイ
究極の理解
帰国
パリ再臨
エトワール・ガラ 取材
MULTI-CULTURE
日本ーイタリア
9時半日没
はじめてづくし
あたりまえに感謝
バレエ取材ラッシュ
サビタと家族
記憶
アエラ
手を見る
コリア
幸福論
ありのまま
ベイビー・レイヴ
I'D DO ANYTHING
JOB AND WORK
ホームページ開設