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文体と身体のリレーション
人よりもいくぶん身体的な物書きなんだと思う。なにかについて「書いてください」といわれ「はいわかりました」と電話をきり、それでその足で喫茶店にむかって二時間足らずですらすらと書きあげるということは、私の場合ない。ではなにをするのかというと、まずはプレパレーションをする。それは物書きがよくする下調べ、という意味でのプレパレーションとは別もので、そうではなく、その文章を呼吸するためのプレパレーション。体中の細胞がその文章を呼吸するようになるまで、肉体の準備を整えるのだ。
アラン島の自然美について書いてくれと言われれば、苔むすように悠然とした時が流れるヴィクトル・ユゴーの小説を読み、シューベルトの子守歌に静かにひたる。下北沢の若手作家によるアングラ芝居について書いてくれと言われれば、漫画喫茶におもむいて普段はあまり手にしないギャグ漫画なんかをぱらぱらとめくって、ついでに松屋で牛丼を食べてみたりする。要はアラン島であれアングラ芝居であれ、その地に棲息している人たちが吸うのと同じ空気を呼吸する。そうして体の状態を変えることで、文体もおのずと変わっていく。それはいささか非生産的で儀式じみた馬鹿げた行為に思えるかもしれないし、ともに生活をする家族や友人には七面倒くさいことかもしれない。そして自分でもたまに変身の飛距離に眩暈を覚えることがある。上方の大御所歌舞伎役者から、ドイツのアカデミックな演出家を経て、フランスのコンテンポラリーダンサーに飛んだときには、日替わりで改宗しているようで辛かった。(それに彼らは宗教と同じぐらい自分の芸術観こそ絶対だと思っていた)。けどやっぱりその肉体準備行為は、私にはとても大切なことのように思える。もちろんすべての文章に同等の労力を費やせるわけじゃない。でも大切ななにかを届けたいときには体から頑張る。長距離走者には長距離走者の、短距離走者には短距離走者の、それぞれに適した体があるように。ある種の文章を書く物書きにも、それに適した体があるように思える。
それで最近は、食事に気を使ったり、ヨガをしたり走ったり、挙げ句には断食道場に行こうという計画までもたげてきたり。とにかくなるべく体をニュートラルな状態に保つように心がけている。それはつねに家を整理整頓して清潔に保つ行為と似ている。ホテルの一室に独り夜中にぽつんと座りこんでいると、聖書は聖書、バスローブはバスローブ、剃刀は剃刀の、あるべき場所にすべてが置いてあり、そのまったく誤差のない秩序のなかで、いつも以上に生産的に思考がまとまっていくことがある。そんなときにふと思う。体にしろ環境にしろニュートラルであることとはつまり、思考のフットワークが軽いということなのだと。作家がホテルに缶詰にされるのも納得がいくってもんだ。
先日、箱根に住む心理療法士の友人に会いにいった。彼女の家は、家というにはあまりになんというか除菌されすぎていた。真っ白で大判のテーブルに、向きを整えて置かれた同じ型のペンが数本と、その横に置かれた匿名的なリングノートと、文具に除けものにされたようにひとりぽつんと置かれたクリーム色のマグカップ。机の横の本棚には、専門書全集が巻数の昇順にならべられ、文庫本でさえもその背の色によりあるべき場所に配置されていた。「乱れたものがあるとクライアントに影響が出るのよ」。彼女はその部屋でたまにクライアントとの診療セッションも行うのだが、室内の乱れが不安定なかれらの心を乱してしまうのだという。そしてそのノイズ障害によって、プリサイスな診療結果を得ることが難しくなるのだ。そのときのわたしは「ふーん」と適当な相づちを打ち話を終えてしまったが、のちのち体と文章のソマティックな相互作用について考えるにつけ、彼女の言葉が不思議な温度でふたたび染みわたってきた。そろそろ新たな文章プロジェクトもはじめることだし、もうすこし、身体と文体の関係性について考えてみようと思う。
(February 13, 2010)
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