愉快なロンドン観察記

タイラゲテヤロカ。機内で隣の中年女性が実にとうとつに話しかけてきた。タイラゲテヤロカ。タイラゲテヤロカ。まるでラマやアルパカを放し飼いにして生計をたてる(ことをしていそうな)、遙かアンデス地方の古代の呪文をつぶやくかのように、彼女はゆるやかな笑みを目にうかべて同じ言葉を魔術的につづける。タイラゲテヤロカ、タイラゲテヤロカ。半月状に歪む彼女の目が、私のまえにいすわる食べ残しのトレーにそそがれていることに気づき、ようやく呪文が解読される。
「たいらげて、やろうか」
どこぞで覚えたその日本語を、彼女は、病にぐずる我が子に聴かす母親の子守歌のようにやわらかにくりかえしてくる。たいらげてやろかあ。ただ「はい」と答えれば赤の他人に残飯処理を頼むことになるし、「いいえ」と答えれば彼女のまったく邪気のない親切心をふみにじることになる。風貌から察するに、彼女はどこか南米系の土地の人だろう。もしかすると彼女の故郷では、残りものは災いのもと、みたいな教えがあるのかもしれない。でもここは近代的なエールフランスの機内なのだ。私は「はい」とも「いいえ」とも口にすることができずに混乱の極みで言葉を失っていた。

と、その女性は一瞬の沈黙ののち「ヨカ」と一言つぶやいたかと思うと、素手でわたしの前にあるアルミニウム皿をひっつかみ、吉野屋の牛丼をかっくらうかのごとく残飯を一気にたいらげた。そして吸引作業が終了すると「オイシネ」と優雅に微笑み、中世の宮廷婦人にでも給仕するかのように丁寧に皿をかえしてきた。あまりのことに、私は言葉を失いつづけている。やはり「ありがとう」と答えるのも「すみません」と答えるのも、なにか間違っているように思える。こんな非常事態、ならず異常事態に、返すべき道徳的回答を私は今までの人生で培ってきてはいないのだ。

長い十三時間のフライトを終えて、ようやくロンドンに到着。翌日オペラハウスに向かい仕事の用向きのバレエを観劇する。ときおり襲来する時差ぼけの睡魔と格闘しながらも三幕物のゴージャスな舞を堪能し、夜11時、賑わいを見せるピカデリー・サーカスから地下鉄に乗りこむ。週末金曜日の夜だ。車内の扉近くには、これから踊りにくりだそうという服装のティーネージャーの集団がむらがっていた。外は霜の降りそうな零下の気温だというのに、女の子たちはタンクトップにミニスカート。しかも素足だ。またどうおおめにみても「美」の基準値をはるかに超えて「歌舞伎」の域に入りつつある極彩色の厚化粧が夜の蛍光灯に浮いている。薄着に浮かれた彼女たちを横目を、上から下まで黒づくめでむくむくのダウン姿の私は、紛々たる白粉の香りをくぐり抜けて空いたシートに腰掛ける。ふう、とようやく一息。だがふと前席をみあげると、そこにまたじつに「ロンドン、夜、金曜日」な酔っぱらいが座っていた。

アーミージャケットに黄土色に変色しかかったブルージーンズ。80キロはくだらないだぶついた巨漢で、水揚げされたばかりのワカメのような髪の下で、夏祭りの屋台で売られるアンパンマン風船のように顔を赤くふくらませている。両膝のあいだには、2リットル大の水のペットボトル。うつらうつらと半睡状態の意識の波間をただよう彼は、たまにウプッと口をすぼめなにかを吐き出しそうになり、私も含め半径1メートル四方の人間を一瞬おびやかしたかと思うと、2秒だけ真顔に覚醒してボトルの水をごくりと飲む。見れば、額にはまるで蛭に血を吸われかたようなマヌケな跡が。こくりこくりと前に垂れつづける頭を自力で支えることができない彼はどうやら、ときおりその栓の開いた手持ちのペットボトルの口を額にあてがい、暫定的な安定ポジションを保っているらしい。こくりこくり、うぷっ、水をぐびり、おでこで栓。そのくりかえし。いつ目の前でその男が逆噴射するかもしれない恐怖におびえながらも、あまりにおもしろすぎるルーティーンから目を離すことができない。こいつ失恋したのかな、いやいやこの風貌で恋人なんてありえねぇよ、だな、と隣の男子学生二人組がこの酔っぱらいをネタにひとしきりもりあがっている。その会話には「俺らのほうが、何倍かいけてる」という男子特有の優越感がまざる。でも、そいつらもしたたか酔っているうえに女っ気がまわりにないわけだし。たまに、ちらちらと例の薄着の女の子たちに意味ありげな視線を送っていた。

さて、いまはイースト・ロンドンのカフェに座りながらこの文章を書いている。隣のラブラブカップルは、なにかの手違いで息継ぎができなくなってしまい窒息死寸前の曲芸人のように、喘ぎ、もだえ、長時間キスをつづけている。なにかの極限パフォーマンスなんだろうかーー。しかしまあ異国に来ると、ただごとでない人間によくでくわす。べつに蝋人形館などに金を払って赴かなくとも、おもしろい見世物はいっぱいある。

(March 8, 2010)



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