さらば、わが愛 覇王別姫


2008年3月9日
東京 シアターコクーン

自分を愛せない人間と、自分しか愛せない人間が出逢ったとき。
そこにはどんな悲恋が生まれるのか。
1937年の日中戦争勃発にはじまる30余年にわたる中国近現代史を縦軸に、烈風のような歴史絵巻を展開する『さらばわが愛 覇王別姫』において、演出家・蜷川幸雄は、その物語の宇宙的な壮大さに呑まれことなく、生々しく痛ましい「愛」という名の個人感情に内視鏡をあて私的人間ドラマを浮き彫りにしてきた。

93年に映画化され、その年のカンヌ国際映画祭のパルムドールを受賞した本作。主役である京劇の女形俳優・程蝶衣を、鬼気迫る熱量で演じ抜いた故レスリー・チャンの凄絶な名演を記憶に残す人も多いはずだ。そんな傑作映画を、岸田理生が生前したためた詩的脚本を下地に蜷川が世界初音楽劇化。レスリーが扮した悲しき女形役者には東山紀之を抜擢。彼が生涯を賭けて愛する段小樓には遠藤憲一を選んだ。

東山が扮する蝶衣は、幼くして娼婦である母に捨てられた記憶を「燃やし捨てる」ことで生にしがみついている。己の暗き出生の象徴である母の衣服を鉢で燃やし、それにより生じた欠落感を「外部からの愛」でなんとか埋めようとして生きるのだ。小樓に求める性を越えた愛、世相から逃避するように埋没する芸事への愛、小四という幼き青年(中村友也が好演)に期待する母としての愛。だが蝶衣はかつて子供としての愛を得ることに敗れたのと同様に、恋人としても、母としても、また役者としても、愛するものに完膚無きまでに裏切られつづける。なぜこれほどまでに蝶衣は悲劇を招きつづけるのか。蜷川は幕切れにおいて子役の蝶衣が「母の衣を燃やす」冒頭の行為を繰り返し見せることで、彼の人生の最大の悲劇は自分の根源を自分自身で愛せなかったことだと鋭く説き明かす。つまり己の真実の出生を認めずに生きようとしてしまったがゆえに、彼は繰り返し繰り返しおなじ過ちに巻き込まれてしまうのだ。
醜い過去の真実を心の奥底に封印し、端麗な芸事の世界で生きることを、不可抗力的に選ぶ蝶衣。また根にある孤独を消化するのではなく、他の代替物で埋めようとするがゆえに、数限りない悲運に巻き込まれていってしまう蝶衣。そんな主人公の純粋で不器用な生き様を、東山が、やや硬さが残るものの澄明な美声で伝えきる。冷静で完璧であるがゆえに哀しさが増す、東山ならではの蝶衣がそこにはいた。

蝶衣が抱える自己無価値感とは裏腹に、相手方の段小樓はいたく凡人的な意味で自分自身を愛する。まっすぐで健全で現在的で、愛おしいほど近視眼的。まさに男性特有の衝動にとても素直に生きている。だから彼は妻の菊仙(木村佳乃)にまつわる予想だにしない悲劇に正面衝突したときに、はじめて、自分の生を俯瞰的に眺める悲劇の眼を授かってしまう。その眼は恐ろしいことに、彼が老人となり椅子のうえで息絶える瞬間まで保たれ続ける。遠藤憲一は久々の舞台上で、やや居心地が悪そうに見える。日を重ねれば、東山や木村との心の交流がより密に見えてくるか。

蝶衣と小樓の出逢いは大いなる悲劇だ。互いが互いを求めるのは事実なのだが、その希求力の強度や距離感があまりにも異なる。無論、人はひとりでは生きられない。だがそれと同様にその孤独は、たったひとりの愛では完全には埋められない。その哀しき人間の矛盾を蜷川は透徹した視線でつむぎだす。

劇場入口から足を踏み入れたとたん、目を霞ませるスモークと橙色の照明が観客の五感を瞬時に酔わす。美術家の中越司は客席に数十個の紅丸提灯が吊るし、観客を京劇の絢爛たる劇場空間へ招き入れる。また宮川彬良の音楽はシンプルでありながら情緒にあふれ、郷愁的な感情を呼び覚ます。前田文子の彩る極彩色の衣装は、それ自体が雄弁な物語性をたたえるほど美しい。実に蜷川的な色彩美にあふれた舞台だ。

蝶衣、小樓、菊仙。ほぼこの三角関係が2時間休憩なしのドラマの核を担う。あまりに混沌と壮絶な世界観をたった3人の役者に託すため、物語の冒頭、役者たちの感情が興に乗るまでは全体的にややスタティックで平板な印象が拭えない。だが歴史の大波と彼らの運命が合流しはじめるラストの半時間、観客は嗚咽のような感情に襲われる。人を愛するとは、自分を愛するとは、一体なんなのか。そんな不滅の問いが、巡り巡る音楽とともに観劇後も脳裏に焼きつく。




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