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バーム・イン・ギリヤド
2008年4月4日
東京 新宿シアターモリエール
ビリビリと肌に響くような莫大なエネルギーの放電!
演出家ロバート・アラン・アッカーマンが30人の若手役者たちと組み生み出した舞台『バーム・イン・ギリヤド』は、その高難度な題材にも関わらず、観客の頭脳ではなく身体感覚をずどんと直撃。体内のアドレナリン指数を数時間のあいだに一気に上昇させ、客席を興奮の坩堝に巻き込んでみせた。本当にランフォード・ウィルソンという劇作家はこれを40年以上前に執筆したのだろうか。本当に現在の東京を目撃して、ここに生きる若者たちの心をじかにわしづかみにしてアテ書きしたのではないのだろうか。そんなバカげた疑問が否応なく湧いてきてしまうほど、この芝居では、今まさにパックリと開かれドクドクと血が滲むようなリアルで無惨な心の傷口があらわに描かれていた。
ジャンキー、売人、娼婦、男娼、ギャング、ポン引き、浮浪者、アル中。まるできちがい病院のような狂騒を示すNYアッパーウエストのダイナーに、極彩色の夜蛾のごとき色とりどりな人々が集まってくる。「ボーン・イン・ザ・USA」のオープニング曲に乗せて口々に何かを叫びながら、舞台に登場する彼ら。その騒々しさは、道を歩いているだけで様々な騒音が耳に飛び込んでくる新宿の猥雑さと無理なくリンクする。
ただ新宿の街とこの芝居が圧倒的に異なるのは、この舞台上で見せられることは「完璧に制御されたカオス」だということ。演出家アッカーマンはミュートとボリュームのつまみを、これ以上なく緻密にコントロールし、同時多発的に発せられる役者たちのセリフのどれが観客の耳に届けられるべきか、天才的コンダクターのように計算しつくす。そしてふと気づいたときには観客の心の内には、孤独、拒絶、無価値観、依存心、といった大都市特有の社会病ともいえる痛ましさが蓄積されているのだ。
またここに登場する人物たちは、誰も彼もが「真実」を見ずに日々の虚無的な「現実」に逃避している。ドラッグやアルコールやセックスといった刹那的な刺激が、彼らのとりあえずの避難場所。しかも彼らの心身感覚はすでに完全に麻痺しており、常人レベルをとうに越えた過剰な刺激物を摂取することでしか、心の安寧が得られなくなっている。そしてこれは情報過多な毎日に溺れ、食やファッションといった刹那的な欲望にがっつき、真に大切な何かを見失って心が虚しく病んでいく現在の東京の若者像とも重なる。ヤク中の震えのさなかにうわ言のように「仲間が欲しい」とつぶやくフィック(チョウソンハ)も、愛情に飢えているがゆえにウリをやめられない寂しいアン(中川安奈)も、なにかプラクティカルな希望があるわけでもないのに世界を楽観視しようとする甘えたジョー(パク・ソヒ)も、新宿シアターモリエールの外に一歩足を踏み出せば、そこらじゅうに同じような若者が無数に溢れている。
クリスチャニティとの関連性や、メタ演劇的な構図、「HOTEL」と書かれたネオンのOとTが抜け落ちて「HEL(地獄)」と光るシンボリックな看板など、深読みしようと思えばいくらでもこの作品は奥深くまで入り込んでいくことができる。だが言うまでもなく本当に大事なことは、そうした批評家的な読みをこと細かにすることにはない。真に瞠目すべき点は、この芝居が観客のリアルな感情をもののみごとに発火させる「ライブ性」を携えているということ。「真実を見ろ!」「変化しろ!」「問題に蓋をしても何も進まない!」。演出家アッカーマンは舞台上からこれでもかこれでもかと観客にそうした挑発的感情を畳みかけつづける。そしてこうした言葉の絨毯爆撃は、観るものの感性の触覚が絶望的なまでに麻痺しきっていないかぎり、確実に着実に心を射抜く。
終幕近く、この舞台に登場する人物たちは一瞬「真実」に目を向けようとする。だがすぐにまた恐れをなして、目を背け耳を塞ぎ、声を張り上げて絶叫しはじめる。よって劇中の人物たちには、バーム・イン・ギリヤド=救いの香油はいっさい与えられることがない。だがもしこの芝居を目撃した観客が明日からでも「変化」を受け入れることが可能ならばーー、少なからず我々はこのクレイジーな芝居から救済を得ることができるはずだ。
日々の現実にフラストレーションを抱え虚しく生きる日本の若者たちよ。合コンで一時的な疲れを癒すよりも、ルイ・ヴィトンの鞄に刹那的に酔いしれるよりも、この新宿の小さな劇場に足を運び、まっとうに恐ろしい真実と向きあおう。その視野のむこうにしか、本当の救いはない。
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