2011年を振り返る

2011年が終わろうとしています。今年を振り返ってまず素直に思うことは、なんだかとても時間感覚が妙な一年だったなということです。

長い長い道のりを歩いて別地点に達したような線分的な時間感覚がある一方で、ひとつの巨大なブラックホールのなかにすっぽり飲まれ出られなくなってしまったような点的な時間も感じられる。この感覚を自分なりに言語化するならば、まちがいなく後者の点的時間は三月の震災以後、つねにおなじ不安水脈が自分のなかに流れていた感覚からくる「どうにも抜け出せない感」です。その地下水を自力で途絶えさせることはどうにもできなくて、その冷たい水にいつも足首まで浸かりながら、大学院に通いはじめたり、ロンドンで新生活をはじめたり、英語記事を書きはじめたり、初めての本を出版したり、といろいろ線分的な時を刻む出来事を経験してきました。だから今年は、この避けられない体感から自分がどんどん変わっていった、いや、変えられていった一年で、結果的にまずなにより「思考と行動の順序」が変わってしまいました。

今までは自分単独の思考というブロックの積み重ねで行動というオブジェが作られていったのですが、今年は、社会や環境という巨大隕石からくらった影響にとにかく自分なりに精一杯リアクトするかたちで行動が決められ、その行動の大胆さに自分でも驚きながら個人思考が作り変えられていった年でした。で、結果的にこれは、とても学びの多い経験でした。なぜなら「思考と行為の逆転現象」によって、自分や他者のことをよりクリアに理解することができたからです。

思考と行動の関係性を考えるに、、、熟慮するまでもなく人がとってしまう「行動」というのは、実はあさはかな行為として軽視すべきものではなくて、その人の本質をとてもクリアにあらわしてしまう人の「コア」みたいなものの発露です。どんなに思考という衣で綺麗に着飾っていても、どんなに言語という剣を持ち立派に振る舞っていても、そんなものがこれっぽっちも役立たなくなったとき、素っ裸の人間の「核」としての行動があらわれてくる。果たして身ぐる剥がれたときに、人はどんな行動に出るのか。もっと簡単にいえば、ピンチのときにどうでるか。それが今年三月の言葉では言い表しようもない不幸な大惨事によって、良くも悪くも明快に見えてきました。

また、社会や環境というものから大打撃を喰らったがために、「自分と国家の関係性」というものに対しても見方がかなり変わったように思います。いままでは自分が育った国家というものは無条件に守るべきものであり、貢献すべきものであり、慈しむべきものであるという感覚がありました。けれど今回の震災以後、政治への不信感、東電への不信感、さらに根が深いおおきな不信感などがどんどんふくらんでいき、結果的にこの「日本」という国家に対して自分はいままでどおり「従順に仕えるべきなのか」という素朴な疑問が湧いてきました。もっと大きな枠で、つまり国家という枠を取っ払ったうえで、世界をつかんでいくべきなんじゃないか。そうしないと、いいように利用されて餌食にされて暮らしていくことになるんじゃないか。そんなのまっぴらごめんだぜ、と思い苦手だった国際政治や世界経済の勉強をはじめるようになりました。そういうマクロなビジョンから物事を掴んでいかないことには、日本という国との接し方がなりたたない世界になってきてるからです。

総括するなら、今年は二つのバランス感覚が激変した一年でした。ひとつは思考と行動の、もうひとつは自分と国家の、バランス感覚が完全に変わった。そんななかで副次的に、自分の生き方や、身のまわりの人間関係に対しての腹のくくり方も変わっていったという感じです。個人なんてちっぽけなものです。社会や世界が変われば、それに対応してサバイブしていくしかありません。でもそんな変化の大波のなかでも、なんとかただ単に流れに呑まれパッシブ(受動的)に生きるだけじゃなくて、自分で流れを読みとってアクティブ(能動的)に活路を拓いていきたい。もっといえば、そういうちっぽけでも意志のある個人が増えていったら、もしかしたら波さえも動かせるんじゃないか……、期待はしないけど希望は持ちたいと願う年の瀬です。

今年一年、みなさん本当にお世話になりました。人は人に助けられて生きてるんだなと深く実感できた一年でした。

(December 31, 2011)

Posted by iwaki : 20:15 | Comments (0)


美女と酒と芸術のクルージュ

先週、ルーマニアのクジュールという町を訪問して「Temps d'Image」というフェスティバルを視察してきました。このフェスはドイツ、カナダ、ポルトガル、ハンガリーなどでも同名のフェスが開催されていて、母体はフランス。で、そのルーマニア支部を訪れてきたという感じです。フェスティバルのディレクターはほぼ私と同年齢の女性で、若くてイキの良いルーマニアの若手作家を世界に向けて紹介したい!という、パイオニア精神に非常に共感しました。特徴として面白かったのは、日本でいうならテン年代と言われる、80年代生まれの若手作家たちが今になって1989年のチャウシェスク政権崩壊の事実を語りはじめているということ。自分が生まればかりの頃の革命史なんて日本人だったらおそらく気にしないで生きていきそうですが、彼らにとってはそれは「過去」の過ぎ去った問題ではなく「現実」として取り組むべき問題。今のぼくらが語らなければ未来は元の木阿弥になってしまう、という危機感とパワーを感じてその真摯さに心を打たれました。

なかでもデヴィッド・シュワルツという演出家の『Heated Heads』という一人芝居がすばらしかった。これは革命直後の1990年 6月13日から15日に行われた30人の民間人・公人へのインタビューをもとに作られたドキュメンタリー演劇で、銀行員から、パンクロッカーから、詩人から、大学教授から、革命後権力の座についたイオン・イリエスク大統領まで、全員を20代半ばの役者ひとりが演じきります。その素晴らしい演技の精度とともに真実の「声」が蘇ってきて、私はルーマニアの歴史のことに詳しくは知らないですが、隠されていたからこそ民衆の心に深く傷跡を残している政治の暴力のデカさに怖気を覚えました。と同時に、政府が隠した真実がいつ明かされるのか、、、という点で日本のいまと同調してしまい、我が国の未来を予見するようで末恐ろしくもなりました。

さてさて、演劇のことはさておいて、さらに面白かったのがルーマニア・クルージュの町です。とにかくこの町は「カオス」に満ちているのです。まずクルージュ空港への着陸時の飛行機内からカオスで、誰も彼もが飛行機が止まるか止まらないかってことも待たずに、席を立って我先にと出口に向かおうとする。こんな事態、私は飛行機にはわりといっぱい乗るほうですが初めて出くわしました。私の考えではこれは貧しかった共産主義時代の名残じゃないかと思う。人のことを気にして優雅に譲ったりしていたら、ここじゃサバイブしていけないんじゃないか、と思います。ただその人たちが自己中で嫌な奴らかというと全然そんなことはなくて、むしろあけすけに好き嫌いを言い、ウマが合うとなったらわりとオープンに語ってくれるので、非常にさっぱりとしていて気持ちがいい。

特に酒を飲むとそのあけすけさに拍車がかかって、自虐ネタをいっぱい言い始める。ほとんどが自分たちを貶めるようなブラックジョークでとっても根暗なんだけど、その根暗さが半端じゃないぶん、逆に笑えてきてしまう。だって「俺の父ちゃんは政府の秘密警察として雇われていたらしくてさぁ、最近その秘密資料がみつかっちゃって、もー、どーしよーって感じなんだよ。ヤバイだろーこれ。抹殺したいよ。父ちゃん頼むよって感じだよ」とか悩み相談されてもさ、暗くなるっていうよりも、むしろその悩みのスケールのでかさに笑いたくなってくるのです。しかもアルコール度数80%の酒をかっくらったりしてる人たちですから(一口なめたけど、舌が焼けるかと思った……)、どこまでホントなのかも怪しかったりする。

大酒飲みの理由としてルーマニア人が利用するエクスキューズは、外気温はマイナス10度とかで極寒だから寒いし「体温めなきゃ」ってことらしいですが、私からすると単純に酒を飲むのが好きなだけだと思います。ちなみに、仲間と酒を飲むのが好きで好きでしょうがなくて、芝居を見るのも好きで好きでしょうがなくて、それで自分んちのリビングルームを劇場にしちゃったというお茶目でチャーミングな男性にも出会いました。自分の家で酒が飲めて、しかも自分の好きな芝居まで見れる、しかも自分で作れちゃう! 出かけるより手間暇かからなくっていいじゃんということらしいですが、、、変にこの男性に芝居創作の才能があったらしく、いまではフェスティバルのフリンジ企画の一部にも組み込まれているほど。「場内30席とかだからさ、いつも満員御礼だよ! いつでも来てね!」と誘われちゃいました。今度、ルーマニアに行ったおりにはぜひ遊びに行こうと思います。

週末だけでなく、月火水木金土日と毎晩朝4時半とかまで遊び呆ける若者たちがいる学生街のクルージュ。ナイスバディなセクシー美女がそこらじゅうをほっつきあるいていて、女の私でも目を奪われてしまう美女の町クルージュ。是非今度は寒くない夏場に仕事とは別に訪れて、全力で遊んで来ようと思います。美しく整備された観光地でなく、カオスな場所を訪れたい物好きなツーリストにもかなりお薦めです。

(November 26, 2011)

Posted by iwaki : 07:10 | Comments (0)


東京演劇現在形ウェブサイト

『東京演劇現在形:八人の新進作家たちとの対話』のウェブサイトを出版元で立ち上げました。このページからAmazonにいって書籍を購入することも可能です。

Hublet Publishing http://hubletpublishing.com/

(November 17, 2011)

Posted by iwaki : 20:14 | Comments (0)


11月5日発売『東京演劇現在形』

TTT_cover.jpg

拙著『東京演劇現在形:八人の新進作家たちとの対話 』
がまず11月5日にAmazon.co.jpで発売され、翌6日に書店の店頭に並びます。

本書は東京現代演劇シーンで活躍する主に30代の作家たちを、日本で初めて、和英両言語で紹介するインタビュー集です。各インタビューは導入となる短い作家論に始まり、作家の生い立ち、キーコンセプト、主要作品などを網羅します。不安定で不透明で複雑極まる「東京」という大都市に生きる作家たちは、自分たちの強いられた奇形な生を嘆くことはせず、独自の思考法で現実を肯定。ネガティブなラベルを貼られがちなロスジェネ世代の彼らから、その予想外に軽やかでいて肯定的マニフェストが読み取れてきます。

紹介する演劇作家たち:
高山明(Port B)、松井周(サンプル)、岡田利規(チェルフィッチュ)
岩井秀人(ハイバイ)、前川知大(イキウメ)、三浦大輔(ポツドール)
タニノクロウ(庭劇団ペニノ)、前田司郎(五反田団)

なお本書は日本で発売後、11月末からロンドンのCalder Bookshopをはじめ
欧州のインディペンデント系アートブックショップでの販売を予定しています。
こちらも書店が決定次第、発表します。

日本での主な取扱書店は:リブロ池袋本店、リブロ渋谷店、NADiff a/p/a/r/t(青山店)、NADiff contemporary(東京都現代美術館店)、gallery 5(東京オペラシティ内)、Contrepoint(水戸芸術館内)、NADiff 愛知(愛知芸術文化センター内)、下北沢ビビビ、吉祥寺 百年、BOOKAAT(神奈川芸術劇場内)などです。


Tokyo Theatre Today out on November 5th

On November 5, Kyoko Iwaki's latest book Tokyo Theatre Today: Conversations with Eight Emerging Theatre Artists will be published first in Tokyo. Followed by UK book launch on November 30.

The eight playwrights and directors featured in this collection of interviews are the leading Tokyo contemporary theatre practitioners, who are now all being frequently invited to international theatre festivals. Here they discuss their backgrounds, core conceptual ideas, rehearsal techniques, and key works, in conversation with a journalist with over ten years’ experience covering the Japanese performing arts scene. Fully bilingual in English and Japanese, this is the first book published in years to introduce the Japanese contemporary theatre scene to the foreign readers. It is an essential text for understanding Tokyo’s emerging theatre talent as well as important recent cultural trends in Japan.

Interviews with: Akira Takayama (Port B), Shu Matsui (Sample), Toshiki Okada (chelfitsch), Hideto Iwai (Hi-bye), Tomohiro Maekawa (Ikiume), Daisuke Miura (potudo-ru), Kuro Tanino (Niwa Gekidan Penino), Shiro Maeda (Gotanndadan)

The book is also available on Amazon.co.jp. It is set to be sold in other European countries' independent bookstores from December.


(October 28, 2011)

Posted by iwaki : 01:23 | Comments (0)


批評家・イン・レジデンシー

東京に一週間だけ来ています。いま東京の池袋近辺で開催されている「フェスティバル/トーキョー」という国際演劇祭の「批評家・イン・レジデンシー」というプログラムに参加するためです。「それなに?」と思っている方はおそらく私だけじゃないと思うので少し説明しますと、これはアジア各国から批評家やジャーナリストを10名ほど招いてフェスティバルの演目を観て、自由に、各国メディアで記事を書いてもらうというプログラムです。私はこれは、うまく成功すれば、三つの意味でとても効果的なプロジェクトになるんじゃないかと考えています。

まず第一に言えることは、モダニズム的な「批評の絶対性」はもうずいぶんまえに崩れてるんだよー、ということを広く知らしめることができるってことです。そんなのもうとっくに知ってるわっ、とここでツッコミを入れたくなる人はおそらく一部の知識人だけです。日本ではまだ批評家は「権力者!」みたいな感じが体感として残ってます。オーソリティー感がむんむんしてます。だけど批評家が絶対権力をふるってよかった時期はもうアブストラクトアート全盛のころの米国で終わりました。特に現代のようにソーシャルメディアが繁栄したメディア社会では、インターテクスチュアル(相互編集的)に人びとが意見を交わしあい新たな可能性を考えるための「起爆剤」「問いかけ」「リード線」のひとつになることが批評家の役割になっているように思えます。

まただからこそ、英国The Guardian紙の有名批評家などは、みなブログやツイッターを会社命令としてやらされているのです。そうしてインタラクティブに個別の読者と対話しないことには、いまは批評家なんて象牙の塔で小難しいことをひとりでぶつやいてる理想論者として思われてしまいます。オキュパイ運動やアラブの春に観られるように、いま行動を伴わないインテリは、つまり腰の重さは、全然クールじゃないんです。いまは批評家にも機動力が求められてるんです。だから、こうしていろいろな国のクリティックの、おそらくまったく異なる意見が混じり合い、それが客の目に触れることは非常にいいことだと思います。「あっ、批評家っていっても千差万別なのね」と客がその絶対性の不在にあっさり気付くと思うからです。別の言葉で繰り返すなら、現代の批評家の役割は、絶対的な意見を「バイブル」的に押しつけることにはないのです。観劇体験の「生産性」を高めるためアートと客の「媒介者」的な役割として謙虚に作用することにある、と私は思うのです。

第二に狙える効用は、批評的な目で作品を観る「エージェント」のような存在を客席のそこここに置くことで、観劇(前)後の思考性が促進されるのではということです。今日も観劇後に人と話していて色々勝手にびっくりしていたのですが、ある人は「批評すること」と「けなすこと」を完全に同義語だと考えていました。これは私個人の意見と違うので、ちょっと5秒ほど呆気にとられてしまいました。それでは、いやいやともごもご説明しようと務めながらも、結局うまくそこでは言語化することができませんでした。ああ、もう。だからここで改めてきちんと文字に起こすなら、批評と罵倒は、私の考えではまったく同義語ではありません。むしろ前者は観劇の「理解を促進」し、後者は観劇の「理解を遮断」する、という意味では反意語だと思っています。批評的にものを観ることは、イジワルになることじゃありません。熱意を持って批評的にアナライズすることは、その芸術への心からの敬意がなければできないことです。

そして最後にして最重要の効用は、シンプルですが、世界中の目利きに日本のコンテンポラリー・シアター・シーンをよりよく理解してもらえるということです。これは、もちろん「いい演目が揃っていれば」という条件つきの効用になりますけどね……、でも本当に本当に知ってほしい良質な才能がいたら絶対にやるべきことです。私もこれには今後少しでも貢献するために、いろいろ知恵をしぼってたずさわっていければと考えています。

はい、これが12時間フライトののち、朝5時に空港に到着し、夜11時まで観劇やら入稿やらの仕事に追われて、くったくたになったときに書いたちょっとグダグダなブログです。でもまあ忘れないうちにいろいろ書いておきます。私は批評家でなくジャーナリストだから、「意見を作る」ことと同時に「意見を伝える」ことが重要な役割のひとつとしてあるので。うん、ちゃんと仕事をこなしておこうと思います。これがなにか、皆さんの考えのトリガーになればとっても嬉しいです。異論反論あったら、是非ツイッターでつぶやいてください。それでは、おやすみなさい。

(October 22, 2011)

Posted by iwaki : 23:21 | Comments (0)


英語という機械へのチェンジ

二月ほどブログをお休みしていました。自覚的に休んでいたわけではありません。脳内に書きたいことは山のようにあったのですが、どうやら思考が追いつかない速度で行動が進むときには言葉が後手後手になってしまうようです。より平たく語るなら、自分が物語の主人公であるときには作家として物語を書くことができない。この二月は、いままで以上に全力でアクションの日々だったのです。だから体が倒れるまで走るのがモットー、というより否めない自分の生き方なのですが、この期間で体から二度ストップがかかりました。一度目は低体温症、二度目は食中毒です。休めっていってんだろこら、と体が怒りまくっていることを身をもって納得させられました。

もうひとつブログから離れていた理由は、言語の問題です。ここ90日ほど、ほぼ完全に英語だけで暮らしていました。リーディング、リスニング、ライティング、スピーキング、すべて母国語ばなれです。しかもそれが私にとっては、幸いなことにさほど苦ではなかった。むしろ武器としての英語の強度があがることにより、思考半径(読める文献や会える人など)と行動半径(学会や参加イベントなど)が広がることに至上の喜びを覚え、おそらく、一週間に三冊のペースで本を貪り読んでいたように思います。主に、思想書と芸術書です。

さらに、個人的プロジェクトのため英文ライティングも同時期に進めていたため、この二月で128ページほど英文を書き上げました。英語スピーチも、二度こなしました。もはや、独り言も英語になるほど脳内はイングリッシュです。(抽象的な思考はまだまだ日本語ですが、夢はたまに英語です)なのでキーセンテンスがあり、結論があり、その理由を簡潔に述べるという、ロジック思考でいまはほとんどの活字に対しての意識が注がれています。

そうなると、少なからず以前の自分の言葉への「対しかた」に疑問が出てきます。内容と同程度に装飾や彩りや音階で書き綴っていた以前の日本語文章が、なんだか子供じみた「気取り」に思えてきてしまったのです。それで少し日本語から離れて、というか離れざるを得ない脳内状態となり、言語回路をしこしこリフォームしていたわけです。

このリフォームがいまはようやく完了しかかっていて、現時点でプロ仕様の文章を求められると、二月まえの自分とはあきらかに違う「デバイス」を使って文章を書くようになっています。語彙が増えたとか、言い回しがうまくなったとか、そういう小手先のレベルではなく、文章という機械をまるごと取り替えた感じ。三十にして新たな執筆言語を手に入れたことに、文章を書かない人間にはどうでもいいことかもしれませんが……、個人的にいいようのない喜びと興奮を覚えていたりします。

最後に、余談ですが、このあいだ久々に日本人の方たちと話したら、これが非常に奇妙かつ新鮮な体験で驚きました。毎日触れていたはずの日本語会話の「同調」や「空気読み」や「女性としての自己規制」の感覚が、自分の体内からかなりの度合い除去されていて、他者の文化として客体化して接していることに驚いたのです。子供時代に米語圏で過ごしたせいもあるのかもしれませんが、あんまり懐かしいものとして蘇ってくる感覚の言語ではなかった。簡単にいえば、日本語に対して少し外国語感覚になっている自分がいました。

さて、今月末から本格的に学術研究が始まるわけですが、果たして私の日本語感覚はどう変質していくのか。日本語が自分から抜け落ちることはまずありえませんが、モノリンガル思考がバイリンガル思考になると、思考の幅はどう広がるのか、内容はどう変わるのか。「言語の限界が、思考の限界」という哲学者の言葉を、じゃあもっと広く思考したいなら言語を増やせばいいんじゃーん、とか生意気にぼやきながら、言語と思考の限界を打破する日々を楽しもうと思います。

(September 19, 2011)

Posted by iwaki : 08:06 | Comments (0)


五輪開催地域と芸術家村

今日は「Hackney WickED」という地元で始められてまだ4年目、という若くて勢いのあるインディペンデントなアートフェスを覗いて来ました。嬉しくも本日のロンドンは、今夏最高の晴天。同居人の劇場デイレクターに「アートの質はそんなに高くないけど、そこで暮らしてる人たちの日常が変てこだから見ておいで」と言われ、朝からの原稿執筆にほとほと疲れたころ、半袖ワンピを着こみサングラスをかけ「夏だぜ!」と心で叫びながら、電車で四つさきの「Hackney Wick」駅まで出かけていきました。

下車してすぐさま思ったのは、偉いアーティーな人種ばかりがたむろしているねということ。もっと簡潔にいえば、ペンキまみれのきたねえ兄ちゃんがいっぱいいるねってこと。それもそのはず、下車してすぐさま「楽しんでってねー」と言われフェスティバル関係者と思わしき防御服姿(なぜ?)の兄ちゃんに渡された地図を見ると徒歩15分圏内に26ものアートスタジオが所狭しと軒を並べている。かつては灰色の工場街・倉庫街だった古びた建物をアーティストたちがのっとって、ばんばんスタジオにリノベーションしているのだ。聞くところによると数年前までは、本当になんにもない野っぱら地域だったという。ただ土地があり、川があり、広くて美しい空があり、アーティストの住まいにはぴったりな空間があったため貧乏芸術家がどこからともなく民族大移動をしてきたのだ。

さて、覗いてまわったギャラリーは同居人が言うように確かにさほどクオリティは高くなかった。ただこの「ハックニー芸術家村」で暮らしている人たち、行われている出来事は、本当にクレイジーでおもしろかった。まず目撃しておもしろかったイベントのひとつに「フローティング・シネマ」というものがある。これは川べりの船内で暮らすアーティストが自分の家であるボートから川沿いの壁に映像を投射して「みんなで映画を楽しみましょう」というイベント。夜もとっぷり日が暮れてから、川沿いにみんなで寝そべり映画を見るのはなんだか子供返りしちゃったようでワクワクした。さらにこの川沿いには、変てこな居住者がいっぱいいて「フローティング・ブックストア」「フローティング・ケーキショップ」なんてものが並んでいる。私は五時のおやつに、フローティング・ケーキショップで手作りキャロットケーキを堪能。川沿いのテラス席でケーキ片手に日光浴をしていたら、突然ギターを持った兄ちゃんが船体のうえに飛び登って弾き語りをはじめておどろいた。

でもこんなことで驚いてちゃいけなかった。夜もまぢかになりそれぞれのアートスペースのまえでレイブパーティーが始まったころ、川にすっぽんぽんになり飛びこむ人たちが次々に続出した。女性も男性もまっぱだか。それで汚染されて緑色になった川のなかにドボーンと飛び込み、じゃばじゃばスイミングを楽しんでいる。他人事ながら、雑菌にやられてあとで高熱にうなされないようにと心でつぶやいてしまった。

ちなみにこんな自由でクレイジーでむちゃくちゃなボヘミアン民族たちの住まいが、今話題のオリンピック開発地域のすぐ目のまえにある。川の向こうには完成間近のオリンピックスタジアムがどどーん。政治権力をこれでもかと誇示して君臨しておりました。ちなみに言うまでもなくここイギリスでも政府からの芸術分野への助成金は削減されているのですが、オリンピックが開催されるイーストロンドン地域への出資金は増えているそうです。このフェスにも「オリンピックパーク・レガシーカンパニー」という、オリンピックに向けてイーストロンドン地区の公共スペースを活性化するために設立された企業が出資しています。果たしてこれは良いことなのか悪いことなのか。この地域やこのフェスティバルが来年以後どう変わってしまうのか。ロンドンの資本主義の餌食にならないことを心から祈っています。


IMG_0165.jpg
自作の巨大楽器のまえで、観客と歓談する兄ちゃん

IMG_0166.jpg
スタジオのすぐ後ろにオリンピックスタジアム

IMG_0162.jpg
フローティング・ブックストア

(July 31, 2011)

Posted by iwaki : 06:21 | Comments (0)


地獄の週、楽園の週

ロンドンに来て二週間が経過しようとしています。ようやく家が決まり、銀行口座も開き、携帯電話を手に入れ、学業がはじまり、なんとなく「生活」のようなものが築き上げられつつあります。もちろん成人して十年以上経ってから、これほどゼロ地点から生活のすべてを築きあげたのは初めて。一般的には人は歳をとるほど新たな環境にストレスを感じるようになると言われるため、来るまえはちょっと不安に思っていたのですが、いざやってみたらそうでもなかった。というより、適度に歳をとってからのチャレンジでむしろ良かった。

というのもこの歳になるとすでにブレなく「自分好みの生活」があるため、それに則した町、則した家、則した食事処、則したカフェ、などをひとつひとつ選んでいったら……、かなり最短距離でベストな環境を身のまわりに整えることができた。これは服選びに喩えられます。誰だってティーネージャーの頃は、なんでもかんでも新しい服に挑み体力も金銭も消耗しまくります。でも三十にもなればある程度ニュートレンドに目をむけつつも、自分の服の趣味というものがブレなく定まっていく。だからたとえ千着の服を並べられても、瞬時にそのなかから自分の「好き」を選ぶことができる。で、結論をいうなら、なんでも高くて保守的なロンドンにしちゃかなり理想的な生活環境がいまの自分のまわりにはある。牛肉をキッチンで料理したら激怒された、ヒンズー教徒の家に間借りしていた最初の一週間とは大違いです。

そう、最初の一週間は波乱でした。靴擦れするヒールと似合わない服を着て暮らしつづけるような不格好な毎日だった。まずそもそも一週間たえまなく雨雨雨という不運に見舞われ、わたしは監獄かと思うほど暗い半地下の部屋で濡れたワカメのように湿気た布団にくるまり鬱々と睡眠をとりつづけるしかなかった。大家さんのセフレがいきなり泊まりに来たのもアクシデントで、夜寝られないったなかった。しかもクマだらけの目をこすり地下鉄に乗ると、早朝ラッシュが日本以上に半端ない。アクシデントも日常茶飯事で、渡英二日目にして乗り換え駅がファイヤーアラームで閉鎖。しょうがないから隣駅まで迷いまくって20分歩いたらその駅もなんかの理由で封鎖。じゃあ第三案とバスにのったら大渋滞で遅々として進まない。「ダア、もういいや」と思ってその日は完全に目的地に辿りつくのをあきらめた。で、生活の唯一の希望だった、家から徒歩5分の超良質カフェでストロベリーマンゴースムージー。一杯700円の高級スムージーで心を癒してしのぎました。

打って変わって今週、自分で選んだイーストロンドンの新居に引っ越してからは生活環境が天国です。ここダルストンという町は「英国のブルックリン」と呼ばれる地域だそうで、家賃安、食事安、物価安、ロンドンで一日を争う美味くて安いケバブとフォーがあって、日だまりのカフェも人が少なくて最高。天気が良い日には隣人が屋根のうえで日光浴をしながら食事をしているし、終末には『秘密の花園』のようなプライベートガーデンが市民に開放されピクニックを楽しめるし、今日行ったライフハウスのカフェまえには小さな広場があって客がピンポンをして遊んでいた。しかも大学院への路程は、乗り換えなしで15分。都心の地下鉄と違い全然混雑しないため、来週からは折りたたみ自転車を持ちこんで乗車予定です。とまあ環境自体は最高だから、あとは、、、この生活をいっしょに楽しめる友だちを作るだけ。まあ、それはちょっと時間がかかりそうです。

最後にミニ情報をひとつ。ロンドンでは50年代ヴィンテージファッションが大流行していて、町中にレトロな花柄ワンピや水玉ドレスを着た女の子があふれています。今週末にはサウスバンクセンターで「ヴィンテージ・ダンス・パーティー」が開催されるほど。変な花柄ドレスを着ていけば、夜通しブギーやシミーをして楽しめるのでしょう。ちょっと覗きに行ってみたいかなとも思うけど、まったく似合わない花柄ドレスを着る勇気をふるいたたせられるかどうか……。たぶん、行かないな。

(July 29, 2011)

Posted by iwaki : 08:05 | Comments (2)


ロンドナーの経済時間感覚

欧州二カ国の旅を経て、昨晩ようやくロンドンに到着しました。さきに訪れた国々があまりにノンアジアンな土地だったからか、辿りついてまさっきに思ったのは「ロンドンは日本人が多いね」ということ。チューブに乗っても、カフェに入っても、テスコで買いものをしても、あきらかに日本人だと思える顔にでくわす。おそらく商社や銀行などの大手日系企業がいっぱい進出してるんでしょう。あるいは初海外渡航のういういしい語学留学生も多いのかもしれません。とはいえ、なぜ日本人はあえてロンドンに居住しつづけようと思うのでしょう。ここには、なにか偶然ではない必然の理由があるように思えます。

これは私の勝手な推測ですが、おそらくその理由は「英語圏だから安心する」という言語的優位性以上のなにかがあるように思えます。それは一言でいば、この街に流れている「空気が非常に東京に似てる」からじゃないか。つまりこの街には、金で幸せを買えるという、効率性をいちばんに考えて動く金稼ぎの空気が蔓延しているのです。

個人的には経済中心の時間感覚があまり好きじゃありません。ミヒャエル・エンデが『モモ』で書き綴っていたように、金稼ぎのために時間を使っていくと、知らないうちに人生が労働時計に浸食されて痩せ細っていくのです。簡単にいえば、2週間休むために2年間馬車馬のように働かなきゃ不安、という過剰規律な心を社会から植えつけられていくのです。

昨日までいたドイツ語圏の街は、私もよくは知りませんが、非正規雇用者だろうがフリーターだろうが自由業者だろうが、誰もが必要最低限プラスアルファ(ここが大事)の人生が味わえる場所のように思えました。500円程度でおいしいごはんが食べられて、土地があるから家賃も安くて、カフェに行けば人口密度が高くないためゆったり何時間もネットをしていられる。大枚を叩かずとも、食って寝て働く以上の人生の喜びが得られる。つまりは経済原理に支配されすぎていない街の良さがそこにはあったのです。

そういえば最終日に入ったギャラリー街のカフェでは「支払いはキャッシュオンリーでよろしくね」とメニューに手書きですらすらっと書かれていました。何だこりゃと思ってその宣言理由を店員のお姉さんに訊ねたら、「利子でバカもうけしてるモンスター銀行には、ビタ一文たりとも与えてやりたくないのよ」とのご返答。なかなか気概のあるカフェでよろしいね、と心底思いました。さらにお会計もロンドンやパリの6割ぐらい。……「ねー、すばらしいねー」と三百回ぐらい心のなかでつぶやいちゃいました。

経済時間に心が支配されていくと、あえて強い表現を使うなら、客を「金のための鴨」として扱うようになります。たとえば、昨日わたしが利用した空港往復のタクシーが良い例でした。ドイツ語圏の街では、市内から空港まで20分タクシーを利用しました。40歳ぐらいの小ぎれいなメガネおじさんが運転手で、このメガネさんがすばらしく「人間味」のある対応をしてくれました。人間味といっても、それはほんの些細なことです。例えば、ちゃんと挨拶をするとか、スーツケースを乗せるのを手伝ってくれるとか、空港に着くときにどこのターミナルを利用するかちゃんと聞いてくれるとか、帰り際に「Have a nice flight」って言ってくれるとか。要は、こちらをただの「金づる」だと思っていない対応なのです。

けれどこれとは反対に、ロンドンのパディントン駅から10分間タクシーに乗ったら、酒焼け鼻のメタボおじさんは鞄は乗せてくれないわ、挨拶はしないわ、行き先を伝えたらシカトしようとするわで「おい、なんなんだよ」と本気で怒りそうになりました。まあ、たまたま極端に態度の悪い運転手にぶち当たってしまっただけでしょうし、ロンドンにももちろんいい運転手さんがいることも知っています……。ただ「経済中心に世がまわされすぎると、どうなるか」ということの端的な事例としておもしろいと思えたのです。

自分が隣人よりもちょっとばかりいい暮らしをしたいがために、経済中心の思想原理に乗ってアコギな態度を身につけてしまうのはとても悲しいことです。「汝の隣人を愛せ」というキリスト教の言葉が、ちょっと建前になりすぎている。そういえば、数年前に英国ロイヤルコート劇場で観たマイク・バートレット作『マイ・チャイルド』が現在の英国社会の自己チューぶりを告発する内容の芝居だったな。「ロンドンでいい人でいたら損をする!」「子供だっていちばんいいオモチャを与えてくれる成功者を尊敬する!」というほんとに残念な気分になる40分の一幕芝居だった。

そんな弱肉強食な社会で、あたしはあしたから生きていかなきゃならないのです。しかも、むちゃくちゃひとりぼっちで。枕を抱きしめて自分を叱咤激励したくなるエブリモーニングです。まあでもね、社会全体の品格に対する責任は負えないけれど、自分まわりの品格は心がけ次第で変えていけるから。経済時間に支配されず内的時間を充実させるべく、心に太陽のゆとりをもってポジティブに行きましょう。

(July 17, 2011)

Posted by iwaki : 22:52 | Comments (0)


東京をニュートラルに旅立つ

さていよいよロンドンに向かいます。と、意気込んで「いよいよ」などと書き綴ってはみたものの、自分にはあまり「いよいよ感がない」というのが本音です。

これは別にネガティブな意味でなく、非常にニュートラルにそうなのです。

自分のなかではすでに数年前から世界と日本の境界線みたいなものが、ぼんやりと消失していて、英国にほんの一年移り住んだところで、さほど世界が劇的に変わらないという予測が容易につくからです。私があと十歳若ければ「えらいこっちゃ」という期待感を持ったんでしょうが、いまとなっては海外に行くとはいえ、この遊学を足がかりに次なる何を見つけるか、現実的なステップを力強く歩いてるだけという着実感のほうが大きい。

とはいえ、ここ数ヶ月「なぜ留学するの」という質問を多く受けたので、その答をここに書き留めておこうと思います。答は二つです。一つは、ライフスタイルのポシビリティが増えるから。二つめは、今ある何かにしがみつきたくないから。

一つめは簡単です。仕事上、拠点を日本とヨーロッパと二つ持ったほうが、私の場合はいろんな可能性が見えてきます。その両輪のうえにビジネスモデルを考えよう、という計画も浮かびます。またプライベートな面も同様で、暮らせる場所を複数もったほうが人生の選択肢が増えます。これはいまだ解決されていない原発問題なども、もちろん絡んでいます。今後もし家庭や、子供や、あるいはそのどちらか一方でも持ちたいと決めたとき、わたしは日本以外の場所で正直それをしたい。アメリカの傀儡政権のようになり思想を骨抜きにされたこの国家っぽい形態をとった変な場所に、不安がないと言ったら嘘になるからです。

私はニッポンで生まれたニッポン人なので、この国に愛着があるしこの国になるべく住みつづけたい。さらにいえば、なんらかの形で貢献したい。でもその反面、ものすごく女的でエゴイスティックなことを言うならば、一回こっきりしかない人生、健やかな場所で愛する人たちと人生をエンジョイすることもマジで重要だと思えるのです。

二つめの理由は「定住」への窮屈感とも言い換えられます。ずーっとおなじ場所に居ると、仕事や友人関係においてなにがしかの絆が築かれます。これは本当に大切にすべきモノで、もちろんネガティブなモノじゃない。けどその絆を、今日も明日も明後日もある、当たり前のものだと思いこみはじめると、美しい絆もどんどん腐れ縁になっていく。なぜなら人間関係なんてものは思いっきり「行く川のながれは絶えずして、しかももとの水にあらず」なわけで、きちんと現実認識を刷新していかないと、気づいたときにはある絆が不必要になっていたりする。もっと言えば「必然の命綱」だと思っていたものが「窮屈な鎖」に変わっていたりする。だから私はいちど外に出て、おまえは要らないものにしがみついてないか、それで怠けたりしてないか、と自分を再点検したい。いちどぷらーんと宙ぶらりんになって、掴むべき絆をちゃんと見定めたい。

これが私の表向き勉強するために行く、留学の根にある根本理由です。物理的な転地以上に、精神的な転地を大事に思っているのです。だってもう無知な子どもじゃないんでね、いきなりロンドンに行ったからといって「外国かぶれになる」なんてことは絶対にありえない。どこにいっても私は私、どこにいっても日常は日常。おそらくロンドンに行っても「生活感ないねー」「風景に溶け込んでないねー」とか言われながら暮らしていると思います。

では皆さん、ちょっといってきます。
また明日から私は土地を変え、自分の歩幅で歩いていきます。
どこかでまた逢ったら、独り好きなくせに寂しがりなめんどくさい私と遊んでください。

(July 7, 2011)

Posted by iwaki : 17:17 | Comments (0)


「ふだん革命」の提言

震災から3ヶ月が過ぎて東京は表面的には完全に「日常」をとりもどした。喫茶店では女子大生が「向井理ってかっこよすぎて訳わかんなくねー」と言いながら馬鹿話をし、ジムにいけば主婦仲間が「佐藤さん、そういえば今日フラダンスのあとイタリア語会話でしょう?」と和やかに余暇会話にふける。大震災の事実はもはや、完全に「スルー」された感がある。もちろん有識者層はいまだに、政府が放ったらかしている福島の子どもたちの救助活動に対し切迫感を抱き、管首相がG8サミットで唱えた自然エネルギーを20%にという行動指針の緩さへ苦言を示し、さらには先月の自殺者が前年比17.9%増であったことに対して不安感をつのらせている。けれど、これら空中に飛びつづけている「危機感」をキャッチしている人間は予想外に少ない。すべての危機レーダーをスルーして、私たちは毎日まったり生きましょうよ、という震災前のふだんの生活に戻ってしまった気がしてならない。

もちろん、誰もかれもが学者のように厳格に思考して生きねばならないわけじゃない。自分の身のまわりのことで精一杯、たまの休日ぐらいお茶をして休息したいという気持ちになるのもわからないでもない。でも、あえて自戒の念もこめていいたい。おそらく今後の日本は、経済的にも政治的にも、その「ふだん意識」を変えないことには落ちぶれていくと思う。「ふだん」を変えることから「国」を変えていく。その発想を否応なく持たねばならない時期に来ているように思う。

先行世代を見ていると、子どもと会社と近しい友人と金の苦労さえなければ、まあまあ幸せネ、といえたのだと思う。その「ふだん」が続いていくことが当たりまえで、それを「ふつうの幸せ」として尊んだのだ。でも、震災後の日本にもその「ふつうの幸せ」は持ち越そうとするのは都合がよすぎる。震災以前の「ふだん」は、今のところ表面的に「向井理、やばくねー」とのっぺり保たれているけれど、あきらかに内部構造は朽ち始めている。このままいけば、あるとき基礎構造がくずれビルの底が抜けおちる。そうならないためにも、日本は変わらなきゃならないのだ。ただ国を変えよう、社会を変えよう、と大上段に構えると、行動にでるまえに疲れちゃうし、「目的」が「夢」に終わって実現化しない。だからわたしは提案したい。そのあたりに転がっている「ふだん」を変えることから「国」を変えようと。

学生から主婦にいたるまで誰もが、ちょっと負荷を感じるような行動に出ればそれでいいのだ。例えば、スーパーにいって福島産の野菜が売られていたら、それについてスーパーの店員に問いただす。息子の学校の土壌の被曝量が心配なら、市や区にみずからお願いして線量を計測してもらう。そうやって、ひとりひとりが少ししんどいぐらい家族圏外のことについてキマジメに考えていく。そうして「ふだん」の意識を変えていけば、おのずと国はいいほうにまわる。

その際に、大きな分水嶺になるのが「怠慢さ」との戦いだ。わたしの考えでは、七つの大罪のなかでも「怠惰」はもっとも深刻で根の深い罪だ。ほとんどの人は自分のなかで日々小さなエクスキューズを作り自分の怠慢さを肯定していく。わたしは、自分が根っからの無精ものだからこの罪のことがよーくわかる。プレゼンの資料をもういちど読み直したほうがベターなのはわかるけど、読み直さなくても仕事は終わるから別にいいや。もう一品食卓に総菜をそえたほうが健康にいいのはわかるけど、作らなくても明日病気になるわけじゃないから別にいいや。そうやって、人はどんどんどんどんラクなほうに転がっていく。そしてラクなほうに転がっていっても、それなりに「ふだん」が保たれていることがわかると、さらに知らないうちにラクなほうに進んでいく。そうして思考停止し、責任放棄し、ミニマムエネルギーで送れる日常の城を構築していく。

この考えを、これからの日本人は少しずつ改善していかなきゃならない。自分は非力だから国を変えられない、とあきらめるのはまちがいだ。なぜなら、見方によっては誰もがなにかの専門家なのだから。主婦だったら近所の公園とスーパーの品質の専門家だろうし、学生だったら近所のコンビニと安居酒屋の専門家になれるし、ましてや職を持つ人間だったら自分にしかわからない知恵が必ず一つはあるはずだ。その知恵を、ひとりひとりが国のために生かしていく。そうすれば、希望論かもしれないけれど、いずれ国家という大山が動いていくように思う。日本は「大衆」というひとつの顔なしなバケモノの生命維持装置をそろそろ止めなければならない。そして、個々に顔をもち意志をもつ市民の集まりとして有機的に運動していく必要がある。

おそまつで推敲のたりない文章だけど、本当にいまこの意識を少しでも国民が持たないことには、日本は将来困ることになると思う。余計なお世話よ、というご意見ももっともなんだけれど。私も含めて全員が、今日からひとつずつ「めんどうくさい行為」をなくしていけたら、すごい革命がおこると思う。まず駅前商店街の民度があがるだろうし、その地域の住人の意識が高まるだろうし、その地域の市長や区長はきちんと選ばれるだろうし、……そうしてすぐにとは言わないまでも数年も経てば国は変わっていくはずだ。なので三度繰り返すけど、ここで「ふだん革命」を提唱。ふだんの負荷をあげていけば、国の質もあがっていくはず。

(June 20, 2011)

Posted by iwaki : 00:09 | Comments (0)


告知:7月ロンドン移住

皆様、例年以上に早い梅雨入りでジメジメした毎日がつづきま
すが、いかがお過ごしでしょうか。今日はわたしの渡英の件で
ご連絡さしあげています。年始めの時点では、8月末に渡英予
定で計画を進めておりました。しかしその後半年で、震災のこ
とや、仕事のこと、個人的なこともふくめ環境的・心理的に動
きがあり、いろいろ考えたすえ予定していた渡英をひと月半ほ
ど早めました。

日本出発日は7月8日です。

文化庁新進芸術家在外研修制度はめでたく落選したため、伊藤
国際教育交流財団から助成金をいただき渡英します。もしそれ
までになにかごいっしょできるような、プロジェクトがありま
したらご連絡ください。

予定では2012年の8月末まではロンドンを拠点に、欧州を駆
けまわっています。その後の計画も漠然と考えはじめています
が、いまお伝えできることは、日本とヨーロッパ双方に拠点を
もち、シアター・ジャーナリズムを中心とした仕事をつづけて
いきたいということです。

渡英先では大学院でのリサーチが待ち受けるため、第一には勉
学に励む予定です。ただ渡英が決まった時点で、多方面の方か
ら「ではその立地をいかして、このような仕事をしませんか?」
というオファーを頂き、且つ、それがわりと楽しそうだったこ
ともあり、請け負える仕事はつづけていくことにしました。
もしパフォーミング・アーツに絡むジャーナリズムのお仕事で、
なにかお困りの際にはご連絡ください。

また今後はロンドンという立地をいかし、和英言語での執筆業
務だけでなく「パフォーミング・アーツ・コンサルタント」と
して、欧州のコンテンポラリーシアター&フェスティバルの、
視察業務、レポート業務、リサーチ業務、アドバイス業務、な
ども始める予定でいます。冬頃にはきちんと業務窓口を設けま
ので、その頃にまたご連絡します。

それでは、来月からいってきます。
皆様、ロンドンにお越しの際には、是非ご連絡ください。
日本語に飢えてると思うんで。

(June 6, 2011)

Posted by iwaki : 17:44 | Comments (1)


仕事十年のふりかえり

今週の大プロジェクトとして、家にある過去執筆記事をぜんぶデータ化した。いちばん古い原稿は2001年10月に書いたもの。読み返すと原稿というより作文にちょっと毛がはえたぐらいの代物で、よくこれをパブリックな雑誌に掲載してもらえたもんだと、笑いながら悲しくなってしまった。ただカット、スキャン、アーカイヴ、という淡々と退屈な整理業務をつづけるうち、興味深い発見がみえてきた。自分の今までの十年は、どうやら大きく三つに別れているのだ。

まず第一期は01年から04年までで「修行期」。小さな週刊誌の紹介記事であれ何であれ、降りかかってくる仕事を何ひとつ断らず、駄文を書き殴っていた。このとき自分の指針にしていたことは「仕事は絶対断らない」。大学時代の恩師が「若いうちは数をこなして体で覚えろ」とアドバイスしていたことを思いだし、とにかく来る球来る球打ち返し、なるべく打率をあげていた。まだこの頃は業務のすべてに新鮮味があって、毎日に飽きるということがなかった。

第二期が05年から07年までで「停滞期」。この期間は自分でもよく覚えているのだが本当に精神的にしんどかった。書かせてもらえる媒体は、5誌から10誌、10誌から15誌と増えていき、周囲から順調に仕事が進んでいるように見えていただろう。でも自分としては「受動的」に仕事をこなしていくことに、とにかく精神的限界を感じていた。毎日浴びるように仕事が来る。それはそれでありがたいのだが、その業務処理に追われてあまりにも自由がない。私のなかには言われたことはまっとうせねばという優等生な女と、言われたことに反抗したいという革命的な女がいつも両天秤に乗っていて、そのバランスを保ちながら生きているのだが、この時期は後者の革命女が「自由」を求めて叫びじゃくっていた。能動的に行動したい。その気持ちが発狂せんばかりに溜まっていった。

その反動で第三期の08年から10年は「行動期」を迎えた。書く場、知りあう人、向かう国、やりたい仕事。そのすべてを自分で行動して獲得していく。いまから振り返るとこの頃は、思考してから歩くのでも、思考しながら走るのでもなく、思考せずして走りはじめていた。思いついたら、そく行動。いや、思いつくもなにも行動しないと死んじゃうようなピンチ感があった。その無鉄砲な行動のせいで、金銭的にそうとう痛い目を見たこともある。今思うとバカだなと思う。

そして今年の2011年からは、また大きな移行期にある。しいて言うなら「拡張期」。ものを書くという業務に附随する、社会的責務が大きくなってた。それに応じて自分がきちんとどのように世に貢献できのるか、市民としての役割、シアター・ジャーナリストとしての役割、ということを考えるようになってきた。

人間十年も仕事をつづけていると、行動に流れがみえてくる。その流れを振り返ると、まずなにより節目節目に自分の尻を叩いて「泳ぎつづけろ、先に進め」と身一つではなかばカナヅチな自分を叱咤激励してくれた、貴重な人たちの存在に感謝したい。いまの私はその人たちの愛なくしては絶対にない。のんきに生きてきたわりには、人に恵まれて幸運だなぁと心から思う。また、今後も私は「定点」よりも「変転」の人生を選ぶとおもう。だからこれからの数年でどこに辿りつきたいか、いっぱいワクワクしながら目標を立てたい。

あれ。過去記事の整理から、ずいぶんナイーヴなブログになってしまったな。とにかくこれからも、過ぎゆく一瞬一瞬に敏感に毎日を生きていこうと思います。

(May 30, 2011)

Posted by iwaki : 01:35 | Comments (0)


変で不思議なシンガポール

シンガポールという国は、ポルトガルに侵略され、イギリスに植民地支配され、日本に占領され、もういっかいイギリスに植民地支配され、というとにかく複雑な歴史を持つ国だ。そんな国に初めて来て思うのは、その複雑な歴史そのままに、とても複雑な場所だということ。とにかく頭のなかに「変」という言葉が一日中なんども鳴り響く。

まずそもそも、街中にいるほとんどの人間が中国系かマレーシア系かインド系なのに、電車やショッピングモールなどの公共施設でのアナウンスはすべて英語だということが変。ほとんどの人が家族や友達などのプライベートな場では母国語の中国語などをしゃべっているのに、いきなりパブリックな場になると英語をしゃべりだす。しかもものすごいレイジーな英語で、中国語のアクセントそのままに英語をしゃべるからほとんど私には解読不能。ラーメンのなかにチリとビネガーをいれるかとホーカー(屋台村)で聞かれたとき、耳に入ってきた言葉は「ユラッチレブネガッ(You like Chilli and Vineger?)」であった。……五秒固まってから、イエスと答えた。そのチリビネガー入りのラーメンをずるずる食べながら、ふと考えた。「ここの人たちは、この国家的な言語政策をどう捉えているのだろう?」。自分は中国人で家では中国語をしゃべっているのに、外に一歩出たら街のすべてが英語。もし日本がそうなったら、そうとう気持ち悪いように思うけど。シンガポーリアンたちは侵略の歴史が悲しくも体に染みついているから、それが普通なことになっているのだろうか。

これと同じようなポスト植民地状態が、あらゆる駅近のショッピングモールにもみられる。たとえばシンガポールの人たちは買い物に来て、フランスの巨大スーパーCarrefourで買い物をして、そのあと日用品を英国の大手商品店Marks&Spencerで入手して、疲れたら地下に下りていってモスバーガーを食べることができる。もちろん日本でも伊勢丹などに行けば、世界中の商品を入手することができる。だけど下町にいけばまだまだ地元の小売店が残っている。シンガポールの街では、地元経営の小売商店のようなものを(インド人街や中華街は別にして)ほぼみない。というか、それどころか街中で店そのものをあまり見ない。国家政策の一環で、あらゆる商業施設は巨大ショッピングモールのなかに収容されていて、街中はかぎりなく整備された道路と、プチジャングルのような公園の緑で溢れているのだ。整備が行き届いていてきれいだし快適だけど、なんだか非常に人工的で変。たとえば私はレストランから劇場に移動したい場合、たとえそれが徒歩15分圏内でも、歩道がないから車かバスを利用するしかないのだ。だからタクシーは格安で、ほとんどの市内の場所に500円以内で向かうことができる。今日、男子中学生ふたりがタクシーを乗り込むのをみて、変なのー、と思ったのは私がシンガポーリアンじゃないからだろう。

とにかく、あらゆることに興味の尽きない変さを感じるシンガポール生活。まだ数日しかここにいない私には詳しいことはわからないけれど、直感的にわかるのは、すべての根幹には国家による厳格な人民管理があるということ。朝起きてから夜寝るまで、なにを食べて、なにを見て、なにに金を払って、という行動の導線が国により決められているような感じがして。快適だけど違和感が残る。そんなことを地元の男の人と話していたら「そうなんだ、シンガポールは国家によりすごい管理されてるんだ。しかもどんどん新しいビルが建って新しいルールができていくから、10年も年齢差があると、もうおなじ国の人間だと思えない。それぐらいシェアできる記憶がないんだ」と語ってくれた。うーん、変。と思って眉間にシワを寄せてカフェでブログをかいていたら、熱帯の虫に頬を噛まれて顔がちょっと腫れてぶさいく状態。いくら冷房がきいていて快適でも、いくらまわりがスタバで英語でも、やっぱりここは熱帯なんだ。


(May 21, 2011)

Posted by iwaki : 19:56 | Comments (0)


鳩山、オザケン、清原

朝一番、ピンポーンとチャイムを鳴らして郵便集荷のおじさんがドア口に現れた。まだ四十代そこそこ、褐色肌に焼けた鳩山由紀夫のような風貌でなんだか元気なのか陰気なのかわからない。そのキャラの定まらぬおじさんは、仕事は仕事、という過不足ない朗接客口調で「段ボールの集荷にあがりました、4箱ですよね」と問うてきた。「はい、これです」と私。そして足下に流木のように不格好に転がる、段ボール箱を指し示す。私が昨晩1ミリも宙に持ち上げることができず、玄関口までピラミッドの積み石を運ぶ奴隷のように、ふんばり声をあげて背中で押しつづけた25キロの書籍箱だ。「これ重いんですよ、ごめんなさい」。おじさんにギックリ腰になられては困るので、あらかじめ断りを入れておく。するとおじさんは何も返答することなく、目だけで「ええ、わかってますよ」というふうに静かに相づち。それは大丈夫ってことなのか、色黒の鳩山由紀夫よ。するとおじさんは私の予想を遙かに超える怪力を発揮。慣れた手つきでひょいっと、ぬいぐるみでもかかえるように箱をひとつ持ち上げてみせた。おおっ。と、歓声の声までは漏れなかったものの、まちがいなく私はそのとき尊敬のまなざしで由起夫を崇めていた。それに彼も気付いたのか、箱を抱えたまま、まだまだ余裕ですよというふうにアパートの階段をあえて小走りで駆け降りていく。そして二箱目を取りに来たとにきには「すみませんね、雨が降っていて足場が悪いんで、一箱ずつにします」と、天候条件さえ揃っていれば「二箱だって余裕さ」というアピールを接客口調を崩さずかましてくる。おもしろいなー、このおっさん。よし、ここはひとつもっと誉めてみよう。そこで三箱目を取りに戻った際に「仕事で慣れてらっしゃるんですねー」と軽いジャブを投げ入れてみる。と、鳩山由起夫似の彼は、能面のようなその表情を崩し「いやー、やっ、そんなことはっ、やや」と感想なのか剣道の掛け声なのかわからない答を返してきた。帰り際「またなにかありましたら、いつでもどうぞっ!」と営業を終えた由起夫。語尾の小さな「っ」に、心なしか10分前より接客口調のゆるみを感じた。

午後、いつものようにフランス語のプライベート授業に向かう。今日はゴールデンウィーク明けのはじめての授業ということで、数人のクラスメイトは、みな田舎の土産物を持参している。私はどこにも行かなかったので持参品がない。しまった。と思っていると、隣のメタボな小沢健二のような中年男性が、広島のもみじ饅頭のなかでも一番美味いというもみじ饅頭を配ってきた。どうぞ、どうぞ、どうぞ、とすすめる彼。ああ、ありがとうございます。と受け取ると同時に、こういう土産物って美味しかった試しがないんだよね、と私の心なかの小悪魔がつぶやく。だが貰ったもんはその場で食べるのが土産道の掟だ。そこでその場で封を切り、ひとかけだけ口に頬張る。あれ、ほんとに美味い。抹茶あんの微妙な苦みと甘みの配合が最高だ。これ、ほんとに美味しいんですね。あとあと考えるとちょっと失礼なそんな私の感想に、とても紳士的な柔和表情のオザケンは、丁寧にひとしきりその饅頭の由来について語ってくれた。そして一時間半の授業後。彼はもし良ろしければどうぞ、ウチにはまだいっぱいあるんで、と配り余ったもみじ饅頭を10個ほど私の机にどかどか置いてくれた。ああ、ありがとうございます。帰宅後、わたしは腹がたぬきのように膨れるまで、うまいうまいともみじ饅頭を頬張りつづけ、夕飯時近くには饅頭疲れしていた。

これは運動しないと太る。そう思って夜6時も過ぎたころ、近所のジムに向かう。と、そこにもまた愉快なおっさんがひとり現れた。わたしが腹筋台でへばって休んでいると、ふんふん言いながらバーベルを猛スピードであげる、巨人の清原みたいな筋肉男が、視覚内ににじり寄ってきた。おもしろいのがきたぞー、と思い無意識に眺めてしまう。と、注目を浴びていることに気付いたのか、彼はゆったりと手持ちのバーベルをバーベル台に置き、おもむろに、重しをいくつか増加。そして、ふんふんというよりブッブッという感じで、鼻息と唾を床方向に吐きながら立位でのバーベルあげを再開した。ブッブッブッブッ、というたびにちょっとずつ近寄ってくる清原。あ、これはちょっと怖い。そう思った私は、この清原さんに関してはかまわずやり過ごすことにした。なるべく見ないで私は腹筋運動に集中。腹筋に集中、集中、集中。5分後、清原は去っていった。
なかなか愉快な一日だった。

(May 8, 2011)

Posted by iwaki : 02:10 | Comments (0)


閉塞感をドーナツで打破

よのなか今日からゴールデンウィーク。けど、あまり町が華やいでいるようには思えない。たとえば今日、ゴールデンウィークの個人的定例行事として「女磨き」のためショッピングに出かけたのだけれど、デパートの化粧品売場や衣類売場にいつもよりもあきらかに人がいない。だから放っておくと店員さんが、3割増しの丁寧さで執拗に話しかけてきてちょっぴりけむたい……。新宿の某大型書店も(午前中で客の少ない時間帯であったのかもしれないけれど)わーって叫びながらダッシュできそうなほど人が少なくて驚いてしまった。

ニュースからも連日、あまり景気のよくない情報がながれてくる。箱根の観光客が1/3に減ったとか、日光の宿屋の多くが開店休業状態だとか。関係者に聞くところによると、赤坂プリンスホテルは避難民を受け入れており、あの帝国ホテルでさえ一般の宿泊客が激減して大変な状態できりもりしているのだという。すでに震災から一月以上が経つ。だが、東京は震災の閉塞感からまだ完全復帰していない。

それどころか恐ろしいことに、閉塞感がこのまま常態化して根付いていきそうな気配もある。震災前でさえ人々の行動は、不景気なこともあり保守的だった。あまり消費せず、あまり外出せず、こつこつ貯金を続けいこう。そのけなげな貯金メンタリティによって、哀しいことにさらに不景気が助長されていた。だがここにきて、その保守行動にさらに拍車がかかっている。震災の物理的打撃が、精神的、行動的、経済的打撃に姿を変えてひとの心を浸食している。

内閣府は3月23日、東日本大震災による直接的な被害額が16兆〜25兆円になるという試算を公表していた。(ただ一ヶ月後の、4月22日に行われた経済情勢に関する検討会議に配布された資料にも、被災地の毀損学として16兆〜25兆円程度という数字が記されていた)1ヶ月経っても、数字に変化がないのはなぜなのか……。果たしてこの推定値は本当に正しいのかかなり疑問だが、でも仮にもしこの数値が正しいとするならば、日本人口1億3千万人が、ひとりあたり12万3千円〜19万2千円を、負担することになる。この金額を0歳から100歳以上まで、国民全員が等しく払ってはじめて被災地が復興できる。果たしてこの状況下で、これだけの金額をどう集めるのか。閉塞感が常態となって、消費が底冷えのドン底にあるいま、どのような対策を練るべきか。考えがまとまらないままブログを書いてるので答はないけれど、とにかく私としては、精神的に「ふつう」に戻ることが第一なように思う。

「戻れ」って無理強いしても、そんなに簡単にはできない。でもとにかく意識的に笑ってみたり、楽しいと思いこんだり、なにかくだらないことに夢中になってみたり。そうして体が陽性になることを何でもいいからしていくと、気付くと行動に加速度がついて「お出かけムード」の自分になれるかもしれない。人間の頭はそんなに器用じゃないから、行動に加速度がついていくと停滞思考を忘れていく。わたしも帰国後、震災ムードに飲まれまいと、なんでかドーナツ作りをはじめた。ドーナツ、ドーナツ、とか言いながらいろんな形のドーナツ君たちが揚げあがるのを見ていると、できた品を友達に配りに行ったり、仕事現場の人にあげたくなったり、あるいはもっと良い食材を求めて遠方まで買い出しに行ったり……、ひとりで少しはしゃいだ気分になる。家でひとり仕事をしていると、ずんずん気分が海底に沈んでいきそうになることがあるが。今はドーナツの浮き輪に、かなり助けられている。

夜、渋谷の街を歩いてみた。あきらかに人通りが少ない。外国人の姿はほぼ見あたらない。飯屋を覗いても、あきらかに仕事帰りのサラリーマンが大半。用もないのに渋谷の夜をほっつき歩くほど、人心はまだ回復していない。哀しい。早くこの街が、活気を取りもどすとまでは言わないまでも「ふつう」になってくれることを願う。いまの東京には精神的な「マイナス状態」を「ふつう状態」にしてしまいそうな感覚があって、それは絶対に避けねばならないようにおもう。それじゃあ日本の復興は遠のいてしまう。

なんだか、思いのほか重たいブログになってしまったな。気分転換に、ペディキュア&ボディマッサージをしてから寝よう。自分が美しくいられると、それだけで気持ちがかなりウキウキするからね。ああ女だな。

(April 29, 2011)

Posted by iwaki : 19:30 | Comments (0)


大ピンチが生む純粋思考

「東京に大地震があったときに誰と逃げたいか」。冗談ではなくわりと本気で、友人知人とそんな話をする。そのたびに、かなり大胆で残酷な真実を人は告げてくる。ダンナとは別に逃げたいと思わないとか。子供とだけいっしょにいられればいいとか。正直、自分だけ助かればいいとか。男だったら、奥さんでなく母親を連れて逃げるとか。出世や地位がわりと大切な人なら、家族の心配をするよりも、まず職場の人間を救ってから退避するという話をしてくる人間もいる。そこで私は薄っぺらな倫理観から「それはまずいでしょう」と意見を言うことはできない。日常のモラルが崩れた世界で、みんなかなりド真剣に考えて、本心を打ち明けているからだ。

こういうピンチ状態にさらされて、人ははじめて本音をこぼす。そしてその本音の告白に、当本人たちが驚いていることに、私は数倍驚いている。そりゃいるだろうとは思っていたけれど、自分の本音を自覚化せずに生きている人ってこんなに多かったんだ。自分の本心を認識せずに、夫婦とか家族とか彼氏とか、そういう関係に単なる社会通念から乗っている人たちってかなり多かったんだ。

いま、日本はとてつもなく大きな不安に呑まれている。これはもちろん致し方のないことで、異国の地にいて地震を実地に体験しなかった自分が、とやかく言えることではまったくない。ただ正直、今ある不安をさらに助長させて不安感を大きくしていく必然性はまったくないように思う。それよりもむしろ、この避けられなかった不幸から得られた幸いに着眼すべきだ。今すぐにとは言わないまでも、これからの長期的なヴィジョンとしては、日本人はこのピンチに見舞われたことで獲得できた智恵を大切にしていくべきだと思う。

ここ半世紀ほどの大半の日本人は、幸か不幸か、命に関わるようなピンチに見舞われたことがなかった。だがそうしたピンチが、先月の11日、関東圏以北の人間全員に(程度の差はあれど)等しく降りかかってきた。そうなったとき、日本人は初めて、根っこから自分の生活を観察しなおした。この人といっしょにいて本当にいいのか。この仕事についていて本当にいいのか。この情報収集のしかたで本当にいいのか。この国のなにを信じればいいのか。

そうして洗いざらい身辺のことを、嘘をつかない身体感覚に立ち返って、いちどすべて疑ってみる。そうすると、自分の奥底からとても正直な答が返ってくる。ここ一週間ほど多くの人間と会話をしていて、そういう本音の自問自答を、いまの日本人の多くが繰り返していることに私は気付いた。そしてこれは、大きな危機に見舞われなければ決して獲得できなかったであろう、尊い「思考力」なように思える。

こんなことをいうと不謹慎だと怒られる方もいるだろう。でも不幸なこと、つらいこと、哀しいことを「不謹慎だ」の一言で隠蔽してしまっても、それが消えてなくなるわけじゃない。むしろいまの私たちは逆に、どんな不謹慎に思える考えであれ、その思考をめいっぱい正直に語っていくべきなように思う。そして自分の本音を、クリアに自覚化していくべきなのだ。

「果たしてこれで本当にいいのか」。家庭を、社会を、国家を見て、個々人が自分の頭でいちどすべて疑う。そして健全な懐疑主義でもって、身辺を分析して思考していく。これは本当に繰り返すようだけど、平穏無事な毎日からはなかなか得ることのできない人間のすばらしい知恵だ。もちろん、震災前と同じように思考停止をあえて選択して「平穏」に生きようとする人たちも大勢でてくるだろう。でも少なくない数の日本人がいま、大ピンチだからこそ必死に考え、誠実に思考しようと努力しているのも事実だ。この大ピンチから、いまよりも賢くて美しくて生きやすい日本が復興してくれることを私は願う。

*こんなブログを書いてからすぐ「ピンチのときに頼れる人が欲しい」と結婚に走る女性が増えているというニュースを知った。結婚相談所大手のオーネットでは、この4月に入ってから、資料請求の件数が前年同月比15%も増加しているらしい。すごい。その心理はわからなくはないけれど、一般的に(例外はあれど)ピンチに強いのは男よりも女なように思う。いや違うな。ピンチのときに頼れるほどサバイバル力の高い人は、性差に関係なく数パーセントしかいない。

(April 16, 2011)

Posted by iwaki : 12:14 | Comments (0)


「孤独都市」の震災被害

震災後の日本に降りたち、見えない不安におおわれた日常の怖さを実感している。「隣家が火事だ!」とか、「畑がイナゴの大群で全滅だ!」とか。そういう被害のほうが明らかに目にみえるぶん、まだ、防ぎようがある。放射能は不可視だ。普通にしていようと思えば、全然普通でいられてしまう。けれどその普通さが、逆に怖い。特に東京の「孤独都市」としてのありようが、この括弧つきの「普通」な日常にさまざまな陰を落としている。

まずひとつ言えることは、孤独による「情報がシェアされない」怖さだ。東京では日常的にあまり近隣の人と雑談をする習慣がない。カフェでも劇場でも、隣の人間と挨拶もしない。そのため近所のコミュニティで「危険情報/安全情報」がシェアされていかない。それこそこの国は誰かの意見につきしたがう「付和雷同型国民」が多いのだから、近所の誰かにリーダー的な情報優等者がたったひとりいるだけで、みんなが「そうよそうよ」と従って危険がシェアされていくはずなのだ。でも今の東京では、そのリーダーの顔が見えてこない。ツイッターやミクシーなどのSNSで、情報優等者がまっとうな情報を発信しているのは事実だけれど、それだって顔が見えないバーチャル世界でのできごとだ。やはり隣近所の信頼のおけるお兄さんに「危ないぞ!」とじかに叫ばれるほうが、ツイッター上の専門家に「危険です!」と言われるよりも説得力があるのは事実だろう。まわりの人と話をしていても「数値を言われてもどうしたらいいのかわからない。こう行動しろと言って欲しい」と、リーダーからの危険回避の具体的指示を待っている人がわりと多いことに気付く。

ふたつめは、孤独による「感情がシェアされない」怖さだ。東京に降りて、いちばんにギョッとしたこと。それはただでさえお行儀のよい日本人が、さらに震災の恐ろしさに震えて「ちぢこまって」いることだ。もちろんこれはひと月まるまる日本にいなかったアウトサイダーだけが感じている、過剰反応なのかもしれない。でも実際、人の話によると、東京でもかなり揺れた地域では、瓦礫がこぼれる建物に近寄れず道路の中央線沿いを這う人の列ができたという。そんな経験をしたらそりゃ、いまはいっけん普通の日常でも体が怖さを覚えているはず。体が「ちぢこまって」しまうのも、まったく無理はない。でもそんななか、けなげな日本人は、怖さの感情をあまり外に出さない。震災直後こそ「怖かったね、怖かったね」と感情をシェアしたのだろうけど、いまはそこまで感情をダイレクトに表に出す人はいない。でも底のほうに、不安感がただよっていることは対話者の目の奥を見れば察知できる。今日も静かなカフェにとつぜん「もうやだ!」という女性の声が響いて、びっくりして振り向くと、穏やかそうな母娘の娘さんのほうの感情のタガが突然はずれて泣き崩れてしまったようで驚いた。感情の膿をまわりの人たちとシェアして小出しにするのではなく、我慢して我慢して我慢して……、それでいつか限界値が来る。その爆発が来るときが怖い。

そして最後のみっつめは、第一の情報孤独被害と第二の感情孤独被害を合わせた先にある、実際の物理的被害。つまり正しい情報がシェアされないために正しい危険回避行動をとれない大衆がおおぜい生まれ、正しく感情がシェアされないために無根拠な過剰自粛気分に呑み込まれる大衆がおおぜいいることだ。いうまでもなく前者の結果は放射能による健康被害を生み、後者は感情鬱の蓄積による精神被害を生む。

実際私もきょう、あまりにもいいお天気なので「カフェで仕事だ!」とマックブックエアーを手に家を飛び出した。3時間テラス席でのんきに仕事をして帰宅後、ドイツ気象庁の放射能拡散予報(http://atmc.jp/germany/)を見て身震いがした。日本全土を覆う巨大高気圧の影響で、東京はおろか福岡のほうまで放射線量を計測している。もちろんこれは「予測」なので、不安感を煽っているだけだと情報をけちらすことはできる。数値もドラスティックなものではない。けれど、防いだほうがいいことは事実だ。家族からも、友人からも、仕事仲間からも、誰からも「危険かもよ」という言葉を一日中かけられなかった孤独社会におそろしさを感じたとともに、自分が自律した個人としてきちんと情報収集しなかったことを改めて後悔した。

政府からオフィシャルに危険告知情報がでることは、どうやらなさそうだ。国は私たちを守ってくれない。いまこそきちんと自己責任で行動を決めるべき時なように思う。ということで、明日も高気圧の影響で日本全土が放射能に覆われる予定。友人との花見は、相手が乳幼児の子連れなので延期しようと思う。もちろん無根拠な感情論で怖がって自粛しすぎるのは精神を害してよくない。だからといって情報バカになって、おもいきり体に被害を受けるのはもっとよくない。精神と体の両被害から自分を守るために、この孤独社会のなかで自律した行動をとっていこう。

(April 6, 2011)

Posted by iwaki : 00:03 | Comments (5)


日本の日常が恋しい

3月7日に日本を出国して、ほぼまるまる一月の海外滞在が、今晩で終わります。旅はいつも波瀾万丈ですが、今回の旅は波乱というよりも動乱でした。滞在先でも母国日本でも、あまりにも多くのできごとがありすぎて、いちど自分のなかで腰を据えて思考的に整理しないといけないように思っています。一月前とはあきらかに違う個人環境・社会環境になっているので、その状態から納得のいく解を導いたり、あるいはこれから考えるべき課題を言語化するためには、それなりの時間がかかりそうです。いずれにせよ経験値的にも、感情値的にも、知能指数的にも、思考の深まる旅でした。

特に旅後半になぜかアーティスティック・コンサルタントなる偉そうな肩書きを得て視察したフランスの芸術際VIAfestivalでは、南アフリカ人、インド人、ポーランド人、チリ人、カナダ人、ルーマニア人、ドイツ人、台湾人と、とにかく様々な国のアートプロフェッショナルと交流できたことが実り多く楽しかったです。この機会を与えてくれたFestival/Tokyoに感謝します。ただやっぱり片言のフランス語では、フランコフォンの人たちと密な会話をすることができず、なぜもっとちゃんと仏語を勉強しなかったのだろうと臍を噛む毎日だったので、帰国したらちゃんとフランス語を勉強しなおそうと思います。誰か安くフランス語を教えてくれる先生を知っていたら連絡下さい。

大震災が起きてから日本の地に降りたっていないので、その実情を自分の肌で、明日、体感するのかと思うと、正直なにかぞわぞわと落ち着かない気持ちになります。と同時に、思考がまったく結晶化していかず時間だけがびゅんびゅん忙しく過ぎていくノマド生活にやや不安を感じはじめていたことも事実なので、日本に帰ったらきっちりと美しく「日常」を構築していこうと思います。ロンドンに行くあいだまでの、数ヶ月の貴重なニッポンの日常。時間の粒が自分のなかに落ちていく日常生活を味わえることを楽しみに、日本に帰ろうと思います。それにしても旅人をはじめて初のことだけど日本食も恋しいぞ。ああラーメンが食べたい。

(April 3, 2011)

Posted by iwaki : 07:35 | Comments (0)


パリでネット難民

パリのアパルトマンのネットのつながりがなぜか突然悪くなり、それ以来、日々ネット難民です。天気がいいのでカフェで座りながらの仕事は非常に気持ちがいいのですが、いろいろと雑音が多いのがたまにきずです。

昨日はサン・ポールというマレ地区の近くのカフェにいたのですが、夕方頃からカフェのまえで、ガタイのいい兄ちゃんたちがカポエイラのパフォーマンスをドラム音に乗せて始めてしまい大変だった。目のまえでトンボ切ってる男どもがいるなかでパソコンに集中するのはどだい無理な話なので、おもいっきりお兄さんたちのパフォーマンスを楽しんでしまいました。ワーッとか言いながら。

今日はモベール駅というあまり普段は来ないパリ左岸のカフェにいます。静かな場所でネットもつながりこれはいい場所を見つけたわと思っていたら、テラス席のうえの樹木からポタポタとおおぶりの花弁が落下してくる。なんの花弁なんだろう、これ(と、つまんでみる)、パンジーみたいなでかい花弁です。

ちなみに地区によって美人濃度も変わります。昨日いたマレ地区は、若くておしゃれな女の子がいっぱいいた。同性でも目をうばわれるような美人さんたちがいて、ちょっと楽しかった。しかもそういう美人が刈り上げヘアーにしてたりして、奇抜おしゃれ美人なのがまたいい。

今日は迫力マダムが多い地区です。いまカフェの人間と挨拶のキスをかわしている五十代女性は、シンディ・ローパーが30キロ体重増加してシワシワになったような風貌でかなり怖いです。それで黒いブラジャーがすけすけのシャツとか着てるからね。あなたは偉い。来週あたりから観劇三昧の仕事がはじまるので、もうすこしこの街の人物観察を楽しもうと思います。ああ、もう少しフランス語ができたら人と会話ができるのに。会話欲はずんずんたまっていく一方だ。正直さびしい。

(March 25, 2011)

Posted by iwaki : 00:56 | Comments (0)


頼り、地道、感情

頼り

人は人を頼りにして生きる。そのあたりまえの事実を、今回の震災ではじめて身をもって理解した。お金を頼りにしたり、会社を頼りにしたり、ステータスを頼りにしたり。人はいろいろ雑多な欲にとりこまれて日常を生きる。人間関係にしても、お金の利害関係だったり、会社での上下関係だったり、人生を勝ち抜いていくための損得のステータスつながりだったり、いろいろと変てこな絆っぽいもので、毎日がうまっているように思える。けれどこうした危機的状況になったときに、お金や、会社や、ステータスのつながりでは、自分の精神的安堵感がまったく回復しないことがわかった。とにかくそばにいてくれる人がいる。その事実がとても大きく思えたし、なにかあったときにこの人たちは頼りにできるなと絆が深まった。と同時に、自分という人間の不誠実さもよくわかった。今ニュースを集めるときにも、本当に信頼できるニュースソースは、大手の新聞社やテレビ局ではない。個人で動いている専門家やジャーナリストたちだ。彼らは、決して金や権力に取り込まれることなく、つまり自分の利害のためではなく、自分が社会にどう役立てるかという他者への利害を考えて動いている。自分のことよりも他者への配慮を先行させることができる人は凄い。


地道

もうひとつ震災が起きて思ったこと。それは日々の美しさは地道な努力にあるということだ。なにか巨大なプロジェクトを成し遂げたり、大きなイベント的な人間関係を楽しんだり、そういうことは長続きしない狂騒状態だ。毎日、淡々とこつこつ。人や自分のために地味に思えることに、精度の高い努力をつづける。これは精神論でなく行動論でみせないといけない。そのこつこつの行動のうえに信頼できる、仕事関係、恋愛関係、友情関係、が生まれる。


感情

震災が起きたとき、私は日本にいなかった。フランスにいた。だから精神的に辛くなかったかというとそれは嘘で、夜一人ぼっちで、日本の状況がわからないことはかなりしんどかった。でもそれを誰かに打ち明けるわけにもいかないので、まあ自己処理をしていた。そんな状態のとき、人からよく連絡をもらった。みんな感情的になっていて、いっぱい打ち明け話をしてくれた。そのなかには日本人もいれば、イギリス人もイタリア人もフランス人もいた。日本人はわかるのだが、なんで後者三カ国の人間が感情的になっているのかさっぱりわからなかった。ちょっと笑えた。でも感情的に自分のことを打ち明けられる人たちが、私にはそのとき羨ましく思えた。私はそんなにすなおに人を信用して、自分の感情をぶちまけられない。どうしても強ぶってしまう。これは私の強さでもあり弱さでもあると思う。だから私は、いつも感情を溜めてしまう。溜められた感情は、活字になってあらわれる。

(March 24, 2011)

Posted by iwaki : 01:59 | Comments (0)


ものすごい日常ブログ

パリ暮らしもずいぶん慣れてきました。知人も増えてきて、毎日違う人間とランチをしたりお茶をしたり。日本から疎開してきたフランス人の知人とこっちで会ったり。わりと純度の高い強烈な思い出一色に塗りつぶされていた街に、良くも悪くも、嬉しくも寂しくも、雑多な色が乗せられています。

私は元来、人様に失礼なんじゃないかと思えるほど、出不精&人見知りなので、東京にいるとどんどんひとりぼっちになっていきます。最近それを克服しようと少しずつ知りあいを増やしています。人間一人じゃ生きていけない、全部自力じゃやっていけない、ということに遅ればせながら気づいたためです。とはいえ、今日はいつもどおりひとりぼっちにマレで仕事です。今週のパリは春先のような陽気にめぐまれているので、カフェのテラス席で太陽をめいっぱいあびて光合成しながらの文筆業です。贅沢です。

とはいえ、ここでひとつ問題がでてきます。まわりにフランス語が飛びかうなか英文執筆しなければならない事実です。フランス語が片言もわからなかったときには、完全にノイズとして処理することができたのですが、少しずつ言葉がわかるようになってくると、中途半端に意味が頭に入ってくるためつらい。フランス語の蝶々がふわふわ飛ぶようなリズムに触れていると、タイプライターでびしばし打ち込むような英文のリズムがぶれていくのです。けれど、締切は容赦なく迫ってくる。なんであれ仕事は終えねばならないので、カフェをがぶがぶお代わりしながら頑張って書きぬきました。

その後、脚をきれいに見せるヒールが欲しいと思ってマレを歩いていると、ベルギー出身の若手デザイナーによる良い靴屋を発見しました。2008年に創設されたNoëというブランドで、まったく飾りっ気はないし先鋭度は低いのですが、希にみる上質な本革ヒールでものすごく歩きやすい。まだ日本には輸入されていないようです。中ヒールと高ヒールのどちらにしようか店内で迷っていたら、店員の兄さんに、高ヒールのほうが膝下がまっすぐ見えるからそっちにしろ、とかなり強くアドバイスされました。農作業に適したアジア人らしく、私の膝下は短いので、至極まっとうな意見です。30色ぐらい色のチョイスがあったのですが、私はすこしマルジェラっぽいさびたグレーを購入しました。同じ靴が、オランダのLINDA. Magazineに掲載されています。http://www.lindamagazine.nl/

明日からは、仕事もかねての観劇ざんまいです。Carolyn Carlson、Latifa Laabissi、Mourad Merzouki、Cindy Van Ackerなどのダンスを見る予定です。ちなみにロンドンで見た、クリストファー・ウィールドンの「不思議の国のアリス」とペットショップボーイズ作曲で上演された新作バレエ「The Most Incredible Thing」は両方とも駄作だった。圧倒されて言葉も出ないようなアートには、9割9分9厘出逢えない。

いまネット上のブログは、震災情報一色です。そればっかり考えていても仕方がないし、不自然だと思うのも事実だったりします。なので、今日はものすごい日常ブログを書きました。

(March 22, 2011)

Posted by iwaki : 03:15 | Comments (0)


大地震

今回の大震災で亡くなられた方々に深い哀悼の意を表しますとともに、被害に遭われた方々へ心からお見舞いを申しあげます。

また個人的な謝罪をひとつさせていただきます。本来なら今日、日本に帰国してその足で静岡舞台芸術センターに向かう予定でした。そして金森譲さんとポストトークを行うはずでした。けれど残念ながら、私が搭乗予定であったブリティッシュ・エアウェイズから前日深夜2時に欠航のメールが届きました。翌日、別便で香港まで向かいそこから乗り継いで帰国するという代替案はBAから提示されたのですが、いずれにしろ20日には間にあわない状況だったため帰国を一時とりやめることにしました。静岡のスタッフの方々をはじめ、今日、静岡で公演をご覧になる皆様にご迷惑をおかけしてしまったことをお詫び申し上げます。

大震災が実際に起きたさいに日本にいなかった身としては、今後この震災を、個々の方々がどのように受け止められようとも、どのように対処されようとも、またどれほど感情的にのまれようとも、それに対して意見を述べることはできないように思います。ただ、願うこと、祈ること、そして小さな善意の行動をおこすことはできます。私が願うことは、皆さんと同じくただひとつ。一日でも早く、被災地の方々にふたたび平穏な日々が訪れること。ふたたび温かな太陽を享受して、幸せを感じられる日々が来ることです。

今日、パリにある太陽劇団の本拠地カルトゥシュリーで、野村萬斎さんのカンパニーが初のフランス公演を行いました。その場にいあわせた太陽劇団の演出家アリアーヌ・ムヌーシュキンが、公演前に簡単なスピーチを行いました。以下のような内容です。

「皆さん、本日はお集まりいただきありがとうございます。日本での大変な惨状に関しては、皆さまそれぞれご存じかと思われます。そこでカルトウシュリーを代表して、私は今日皆さんにお願いがあります。公演後に劇場出口のまえで募金をつのります。皆様のお気持ちを少しばかり寄せていただければ、これはすべて日本の被災地へと送られます。また私は今日、万作の会狂言の出演者の方々、世田谷パブリックシアターの関係者の方々が、ここで公演を行う決断を選ばれたことに対して深い敬意を表します。これは本当にすばらしく勇敢な行為です。それでは、萬斎さんからお言葉をいただければと思います」

その後、萬斎さんが装束をつけたまま舞台前に登場し、狂言で描かれるすばらしき登場人物たち、いかなるときも逞しく、力強く、笑いをもってふんばって生きる人間のパワーについて言葉を述べられました。その言葉どおり舞台上では、シェイクスピアの『間違いの喜劇』を題材にとる愉快でいて奥深いヒューマンドラマが描かれました。災害で生き別れになった親子が、もうだめかと一時は嘆きながらも、心の底では何十年と思いつづけ、小さな希望にすがり再会してはたと肩を抱き合う。まさにいまの日本人に深く響くストーリーでした。

もちろん、現実は物語ほど簡単にはいきません。苦しさや、悲しさや、虚しさに心を潰されて息もできないような日々が多いのは事実です。けれど今日の舞台で描かれた登場人物たちと同じように、人間という生き物には、ひとつとてつもない凄さがあります。どれほど、むごく、ひどく、醜く、心がぐじゃぐじゃになるような目に遭っても「こんちくしょう」と立ち上がろうとする七転び八起きなしぶとさです。私はこの人間の逞しさをおもいっきり信じたい。軽々しく「がんばれ」なんて言うつもりはないけれど。ただ祈りに近い思いとして、人間の強さを信じて、これからの日本の復興を、うつむかずに前を向いて願いたい。

(March 19, 2011)

Posted by iwaki : 04:13 | Comments (0)


東北・太平洋沿岸地震

パリに到着した途端、日本で大地震が起きたというニュースを知りました。友人、知人で震源地に近い場所にいると思われる人たちには連絡を取ろうとしていまが、なかなか連絡がつきません。メールを返してくれた人たちの安否はわかってホッとしています。まだコネクトできてない人たちに関しては、なにか遠方からでも確認を取る方法がないものかとやきもきしています。フェイスブック、メール、ツイッター、なんでもいいのでこちらからアクセスした方々は、いちど落ちついたらでいいので是非連絡を下さい。
本当に本当に無事でいてね。

(March 11, 2011)

Posted by iwaki : 00:35 | Comments (0)


非旅化した旅の良さ

旅、ふたたび。とはいえ旅が日常化してきた昨今、旅が「非旅化」してることは認めざるを得えない。明日から海外だね楽しいね、と言われても。うんまあとしか答えようがない。そんな感情温度の低さがあることは、否めない。とはいえ「非旅化」な旅だからこそ味わえる良さもある。たとえば今日も空港に降りたって、すーっと息を吸うと予想以上にリラックスできる自分がいて驚いた。なんだろう、この嗅ぎ慣れた香水に街中で出逢ったときのような非緊張感は。仕事で来ているわけだから、仕事から解きはなたれた解放感を味わえるはずはない。だけどおそらく私は、仕事とか日常から逃れる解放感でなく、ホモソーシャルな文化から逃れる解放感が好きなんだと思う。まわりに「空気読め」的な意識がいないからぜんぜん気を遣わなくてよくて、異邦人でいても誰も気にしないから精神的にラクで、個人主義で誰もが放ったらかしておいてくれるから時間が自由で、という気風が自分にあってるのだ思う。

それにまた、旅ならではのトラブルとかノイズとか、よくわからない事件に出逢えるのもスリリングで好きだ。今日は空港のイミグレーションで、英語が話せずとまどっている大学生の青年を通訳して助けた。しかもそれが通常のイミグレーションの領域を優に超える「感情」尋問になっていて凄く面白かった。

「なんで来たの?」「観光です」「なにしてるの?」「学生です」「なに勉強してるの?」「経済学です」「それで大学の勉強を放棄して、ロンドンに来たの?」「いまは休みです」「ああ、そう。この住所はどこ?」「彼女の家です」「彼女に最後に会ったのはいつ」「1月です」「それからずっと会ってないの?」「会ってません」「寂しくないの?」「はい、まあ」「そりゃ寂しいだろう。それで会いに来たんだろう日本からはるばる」「はい、そうです」「それでたったの5日しかいないのか、おまえは」「はい」「もっといてやれよ、彼女が寂しがるぞ」「はい」……、と途中からどう通訳していいのかわからない恋愛相談会話に巻き込まれて困ってしまった。そしてイミグレーションのお兄さんよ、あなたは明らかに大学生の男の子のナイーヴな恋心を弄んでいた。かわいそうに。本当に彼女に会えなくて、寂しかったんだろうね。ちょっと涙声だったぞ。こっちまでもらい泣きしそうになってしまったよ。

「すみません、どうもありがとうございました」と私の目も見ず小声で礼を述べて去っていった彼の背中は、さっきよりもさらに不安げに思えた。がんばって100%の愛情を伝えて来いよ、青年。こんな出逢いも、私は好きだ。

(March 7, 2011)

Posted by iwaki : 02:59 | Comments (0)


ふにゃふにゃカミングアウト

告白、私はマッチョな女性が苦手だ。それは体型的にということでなく、精神的にマッチョな人々。自分こそが世界の勝者で、権力者で、絶対神で、まわりの下々の民は「私に従うべきなのよ」というパワフルウーマンに逢うと、心が引いてびびって逃げたくなる。だってね。彼女たちの前にでると、相手の法典にあわせて会話をしなければならないでしょう。相手が黒といえば黒で、白といえば白なのだ。どんなに向こうがまちがえていようとも、権力を握った強弁女性にはどんなロジックも通用しない。オセロの駒が、白から黒に返ることは希なのだ。

ちなみに私はよく、外見の勇ましさからこのマッチョ女性の同類だと思われる。でも初めてカミングアウトするけれど、私はぜんぜんマッチョじゃない。ぜんぜん、ガンガン戦おうとか思わない。むしろ、ふにゃふにゃしたい。そのことを最近、とみに実感している。もちろん仕事が充実してて、それはそれで愉しくて、なんだか新しい地平を切り拓いてるかもしれないな、という喜びは社会的生物として充足感を感じる。だけど私は社会的にガンガンイケイケなテンポになってくればくるほど、どんどん、ふにゃふにゃ欲が高まってくる。ふにゃふにゃしたーい、と思ってひとりお家で歌っちゃったりする。

男性が社会に進出するのは、彼らの戦士としての根本衝動にあっている。戦って、切り拓いて、勝ち獲って、それで自尊心を高めていく。その戦術がいっけんどれほど、柔和で草食系に思えたとしても。基本的にウォリアーな自分を感じられることは嫌いじゃないはず。それによって生きてる感が増すのだと思う。でも女性は、これはまったく科学的根拠のない個人的実感からのテーゼだけれど、戦闘仕様の動物じゃないように思う。それよりも、仲間を和ませたり、笑わせたり、いたわったり、抱擁したり。そういう行動が実ったときに、生の充実感を感じるのだ。そしてこれを私は女性の食欲、性欲、睡眠欲、にも負けるとも劣らない「ふにゃふにゃ欲」と名付けたい。男に社会進出を禁じるのと同じぐらい、女にふにゃふにゃ欲を禁じることは人生の痛恨事だ。

男女同権に肩を並べて戦おうとするマッチョな女性は、もう旧式の女性だと思う。そういう女は流行らない、と思う。かといって、女を売りにして男に媚びるさらに時代を溯ったオンナにも戻りたくない。じゃあゼロ年代の女性は、どうあるべきか。ふにゃふにゃしてて、でも芯がないわけじゃなく、芦のように論理的にしなやかで強い女性。そういう「装飾」系でも、肉食系でもない、植物系の女性を目指すべきじゃないか。どうだろうか。いずれにしろ、私はそうありたい。毎日ふにゃふにゃしながら、植物系に生きたい。

(February 24, 2011)

Posted by iwaki : 22:52 | Comments (0)


公共劇場と三つのコスト(2)

*ひとつ下のブログのつづきです。(1)から読みはじめて下さい。

1897年にイタリアの経済学者ヴィルフレード・パレートは、様々な統計資料を調べているうちにある法則を発見した。

「中央の平均値が高く左右両端に行くにつれて低くなる「釣鐘型」のガウス曲線は、自然現象にはあてはまっても、社会現象にはあてはまらない」

社会現象では、アクションの八割が上部20%の人間により行われる。物を流行らせるのも、社会を牽引するのも、法を変えていくのも、上位20%のリーダー。今ではこの事実は「パレートの法則」と呼ばれ、様々な社会活動で役立っているらしいが、公共劇場もこの法則を利用して運営指針を決めるべきなように思う。つまり、芸術面のラインナップ選択でも、知識面でのエデュケーションも(最近はエデュテイメントという言葉のほうが流行らしいけど)ーー劇場の舵取り全般を、上部20%の客に届くようにすべきなように思う。

さて、上部とか下部とか、上とか下とかいうと「このエリート主義め」とすぐさまやっつけがたる人たちが出てきそうだ。けど公共劇場は、ある程度エリート主義でいいと私は思う。そこのハードルは下げる必要はないと思う。とはいえーーこれが主題だがーー「上演される演目が楽しめないんじゃないか」という精神的負荷はなるべく丁寧に減らす。

観劇の障害となるものに、前出の三つ、価格コスト、時間コスト、精神コストの三つの「コスト」があるとするなら、私はいま公共劇場のやるべきことは「精神コスト」をきちんと手当することにあるように思う。例えば、創作段階から上位20%のリーダーに向けたオープンリハーサルを行ったり。初日以前に、予備知識がないとやや路頭に迷うような劇団の「見方」の補助線を引いてあげたり。まあよく考えれば、もっと楽しくて良い手はあると思うけど、いずれにしろ、そうやって精神コストをちゃんと低減してあげれば、価格コストと時間コストはさほど問題じゃなくなるように思う。

演劇は、人と人とが「対話」する場だ。この「対話」は観劇日のまえ、チケットを買おうというアクションを起こす随分前からはじまる。そして「対話」の中心になるのはつねに、これを忘れちゃならないけれど、メッセージの送り手ではなく受け手なのだ。

どんなに高機能な最新型スマートフォンを開発しても、スマートフォンの「ス」の字も知らない人間にはその良さがまったく届かない。それと同じで公共劇場の演劇は、どんなに高機能で他に類例のないスマートフォンを作ってもいいけれど、というかむしろ作るべきだけど、それをきちんと届ける「丁寧な対話戦略」を練るべきだと思う。そして客の精神コストを下げる。それが私の、これからの公共劇場のありようについての、ドシロウトなりの入口設問への答えだ。書きながら考えているから、まだおぼろだし。入口のあとの設問は、もっといっぱいあるのだけれど。とりあえず、ブログレベルではここまで。

(February 22, 2011)

Posted by iwaki : 00:48 | Comments (0)


公共劇場と三つのコスト (1)

「公共の劇場に関わるようになってどうですか」と、よく聞かれる。そのたびに心が痛む。ぜんぜん「関わって」ないからだ。もちろん神奈川芸術劇場に関わる補佐役をしませんか、と問われたときからそれなりに自分ではなにができるか考えてきた。テキストにまつわる分野で、わたしがソーシャルインクルージョンみたいなことに力を貸すわけでしょう? うーん。じゃあとりあえず、いったい観客はどんな体験を求めて劇場という場にいま集まるのか考えよう。問いをたてては、もやもやと思考。明解な答えは、もちろんまだない。

しかも考えれば考えるほど、ある種の質問への答は遠のいていった。なぜか。私の根本命題は「観客は、いま劇場になにを望んでいるか」。けれど多くの日本の劇場は、そもそもスタートオフから脱線してる。劇場を作るべき「需要」がないのにハコを「供給」しているからだ。

パリにあるブッフ・デュ・ノール劇場は、ピーター・ブルックが何年にもおよぶ放浪創作を経て「地盤が欲しい」と思ったときに巡り会った場所だ。彼は巡業したアフリカやアジアの土地とおなじ「なにもない空間」が欲しいと思った。だからこの小屋が気に入った。マルグリット・デュラスのフロップ芝居が上演されたが最後、もう二十年以上も見捨てられ、ホームレスが雨露をしのぐ場所になっていたがらんどうの廃虚を「こここそ理想的な小屋だ!」とひらめき、たった三ヶ月で蘇らせたのだ。以来、この場所は37年間、彼の芝居のホームとして世界中から観客が集まっている。

こういう、創作サイドからの「需要」があって「供給」された劇場は観客と相思相愛になる可能性が高い。作り手の、発端の衝動がはっきりしているからだ。けれどおおかたの劇場はこれとは異なり「需要」に「供給」が先立つ場合が多い。すると、別に劇場なんて欲しくないよ、と言っている人間に劇場を押し売りせねばならなくなる。それで、やっぱり、問題が生じる。いまの多くの日本の産業が直面しているのと同じ状態=「過剰供給(というかハコ余り)」に対応せねばならなくなるのだ。

過剰供給に陥ったとき、日本の企業の多くはどうしたか。アスクルやコクヨが良い例だが、彼らは製造業から流通業にシフトチェンジした。販売するものは変わらずとも、客のニーズにあわせて業態を変えた。つまり技術開発にマーケティング戦略を融合させて、社会のニーズに適応して生き延びていったわけだ。だが、ココは「商業劇場」ではなく「公共劇場」である。モノが売れてなんぼなビジネスをする場所じゃない。だからアスクルやコクヨの例に、あたりまえだけど、習うことはできない。ではパブリックシアターの「モノ売り」ではなく「モノ作り」の姿勢はどうあるべきかなの。また、問いをたててもやもや思考。この小さな設問に対しては、少し答えが出た。つまり「コスト」に対する考えを転換すべきなように思った。

コストという言葉をきくと、当然、人は価格コストを連想する。けれど劇場の場合、ここに他ふたつのコストが附随する。「時間コスト」(2時間+往復の旅程時間など)と「精神コスト」(一見さんが楽しめない芝居だったらどうしよう、という不安)だ。結論を先にいうなら、公共劇場の主眼は「精神コスト」を下げることにおくべきなように、私には思える。後半で、少しまわり道して説明しよう。

(February 21, 2011)

Posted by iwaki : 00:45 | Comments (0)


ちくしょう、な初もの体験談

初ものの多い一週間だった。初めてラジオで話してみたり、初めて千何百人のまえでしゃべってみたり、初めて何十枚にもおよぶ長編記事を書きあげてみたり。毎日、違う刺激があってとても苦しくも充実した日々だった。と同時に、いろいろと自分の能力不足も感じて「ちくしょう、ちくしょう」とつぶやくことも多かった。なにに、いちばん「ちくしょう」だったのか。

まず一つは、とても「課題設定が下手」な自分に気づいたこと。どうあがいても数年がかりで研究調査した人間と同じレベルの原稿が、一週間たらずで書けるわけがないのだ。けれど私はその自分のダメさをなかなか認めず、エベレストのてっぺん目ざしてしまう。それで2ー3日図書館に缶詰になって、あらゆる知識を無理に詰め込もうとして、そこでようやくはたと気づく。ああ、これは、私の意見じゃない。だからいざパソコンで文字を打ち始めると、詰め込んだ知識があまり役立たない。自分の頭で納得した論理じゃないから、いざ書くだんになると、なんだか「創造の悦び」が感じられないのだ。それで至った結論は、とにかく私のちっぽけな頭で登れるところまで登ろうということ。そうなるといきなりゴールを目指すと途端に挫折するから、自分のなかで課題をどんどんクランチ・ダウン(細分化)していく必要がある。

いまから自分は何について書くのか(話すのか)。
それは誰のために書くのか(話すのか)。
自分は果たしてその議題のどの点にいちばん疑問を感じているのか。
その疑問点は、はたして個人的なものなのか社会的な要請なのか。
社会的な要請だとしたら、どのような人間がおなじ疑問を感じるのか。
これらの話を説得力を持たせるためには、どんな統計を調べればいいのか。

などなど、とにかく問題を立てて答えて、立てて答えて、立てて答えて。このプロセスを無数に繰り返していく。と、おもしろいことに本を漁って賢い答えを探そうとしていたときよりも仕事ががぜん面白くなった。と同時に、以外に高いところまで、自分の知能と知識だけでも辿りつけることがわかってちょっぴり嬉しかった。

もう一つのちくしょうは「チャンスへの備えが不十分」だということ。
よくいうはなしだが、チャンスなんてものはそうそう何度も来るもんじゃない。だから来たときには、もうそれこそ万全の準備ができてないといけない。なのに、私はできてないことが多々ある。それは知識面でも、行動面でも、論理面でも。今はないけどそのうち訪れそうな、ある状況を前もって予測し、仮説をたてて準備をしておく能力がちょっぴり低い。

なんだか大災害に備えて「事前準備を万端に」みたいな話になってきたが。まさにそれと同じだと思う。たとえば大地震が来たときに「裸一貫、気あいだけで生き残ってやる」と思ってもそんなものは無茶な話。雨水から原水を濾過する方法を学んでおいたり、寒さのなかいかに暖を取るかの術を学んだり。そういう知恵のある人間のほうがあきらかにサバイブできる。これは極端な例だけど、日常でも同じように日々きたるべきピンチだかチャンスだかのためにスキルを身につけておくべきなのだ。で、それは一朝一夕に成しえることではなくて、日々の、継続した努力が必要。そんなことを思って、ああ、私はまだまだ自分に甘いなぁと、少しばかりへこんでしまった。

これらの「ちくしょう」を「ちくしょう」のまま終わらせてしまっては、それこそコトだ。悔しさを生産性に結びつけるために、ちっちゃな課題をこつこつクリアしていこう。

(February 13, 2011)

Posted by iwaki : 23:14 | Comments (0)


島根の美景に、酔えない

圧倒的な、本当に圧倒的な、日本の田舎にきている。こんな田舎を訪れたのは、子供のころの夏休みに、もうなぜ行ったのかも覚えていない岡山の海岸でフグ釣りしたとき以来かもしれない。島根県の益田市。人口が世田谷区の16分の1にも充たない小さな漁村だ。いざ羽田空港からバラック小屋のような萩・石見空港におりたち、そこから無料バスに乗りこんでいちばん「栄えている」はずの益田駅前まで来た。のだが、その駅前の風景にまずびっくり。閑古鳥が十羽ぐらいないている。なにせ駅前近辺のいちばん瀟洒な建物がローソンなのだ。あとは完全に地元経営の、草書体の漢字で看板が数十年前に掲げられて「そのまんま」みたいな喫茶店やパーラーやよくなにを売ってるのかわからない店ばかり。静か、体中が痛いほど静かだ。

昼すぎに、営業してんのかこれ、みたいな駅前のフルーツパーラーに入ったら、店内には女性店主がひとり。雑誌棚には、週間現代とヤングマガジンが陳列されていて、客はわたし独りきり。5分おきに女店主がため息をつき「暇だわぁ」とか独り言を背中でつぶやく。どうしよう、間がもたん、話しかけて欲しいのかな、と思って気を揉んでいたところ、しばらくたってからおりよく、地元の主婦仲間とおもわしき女性客がはいってきた。そして「どーぉ、今日ストレートパーマあててきたけん」みたいな広島弁っぽい方言で、女店主とわしゃわしゃとおしゃべりをはじめた。聞くところによるとこの地域の方言は著しく広島弁に似ているそうで、おなじ島根でも出雲のほうのずーずー弁みたいな言葉とはまったく異なるのだそうだ。

夕刻、冷たいみぞれがちらつくなか、パーラーを後にして取材先にむかう。取材先は駅前からバスでさらに30分奥地。山をひとつふたつ越え、あとトンネルをふたつぐらいくぐる。と、目の前には川端康成の「雪国」じゃないけど、トンネルの先に絶景があらわれる。目のまえには、陽光にきらめく冬の日本海。沖に停泊する舟が穏やかに風に揺れている。苔色の深緑、枯れた田んぼ、曇天の雲空と、寒くも澄明な海。そのすべてが調和をなして、静寂のなか穏やかに広がっている。ああ。こんな日本の景観がまだ残っていたんだ。……って、ぜんぜん日本の田舎なんて知らないくせに勝手に郷愁を感じたりする。でも数分後には、根っからの都会っ子である自分の本性が冷静に戻ってきて、こんな土地わたしそういえば知らないや、と見ず知らずの土地にたいしてむしろ疎外感を感じはじめる。

聞くところによるとかつてこの地を柿本人麻呂や雪舟が愛し、数々の歌や画にその美しさをしたためたらしい。でもその美は、風景を目のまえにしても、私にはぜんぜんリアリティがわかない美である。昔っから、人麿呂の歌とか雪舟の絵とかみてもポカーンとして何がいいのかわからなくて、これはオリジナルの風景を自分の目で見たことがないから理解できないに違いない、と勝手に解釈していたのだけど、原風景を見たところでぜんぜん親近感がわかない。さて、日本の原風景にこれほど「根っこ感」を感じられなくなった日本ストレンジャーは、いったいどこの土地をみテホーム感を感じたらいいんだろう。新宿の摩天楼? 渋谷のスクランブル交差点? いや、あれもぜんぜん安心しないんだよなぁ。とりあえず、取材自体はとても内容豊かで有意義なものだったので来た甲斐があった。

(January 28, 2011)

Posted by iwaki : 23:26 | Comments (0)


論・簡・速コスモポリタン脳

必要にせまられ英文アカデミック・ライティングの大学講義に参加しはじめた。週一度、都内某所で英語漬けの授業を受ける。そんな話をすると「さぞかし英語の上達も早いだろう」とまわりにはあおられるが、個人的には英語力が上がっている感覚よりも、英語圏の思考法が鍛えられている、という感覚に近い。現時点で私の思う英語圏の思考法とはーー1ロジカルに思考、2答を簡潔に、3即断の知力を身につけることのおもに三つ。この一文も英語脳でかたづけるなら、修得すべきは「Logicality, Simplicity, Velocity」ということになる。

まずひとつめのロジカリティ。これは曖昧表現を好む日本人はたいがい不得手だ。この国では、明解に意見をたたきつけることはあまり美徳とされない。だから日本人は生まれてから成人するまで、質問もアイマイなら答もアイマイ、という茫洋会話に自分を馴らしてゆき……、気づけば質疑Aに対して応答Bが返ってきても、会話が行き違っていることを察知できなくなっていたりする。さて、この非ロジカル脳のまま英語をしゃべろうとすると、自分がおよそ思考のとっちらかったバカに思えてくる。英語はその文法構造上、ロジカルに考えて話すことを話者に少なからず強いるのだ。

二つめはシンプリシティ。これはひとつめの延長線上にある話だが、日本人は、中身のない会話を長々とひきのばすことが得意だ。政治家の国会答弁が代表例。でも英語では、この美的感覚は理解されない。ニューヨークの小学校ではじめてイングリッシュ(日本の科目でいうなら、国語ね)の授業を受けたときから「なるべくシンプルに書いて話せ」と教え込まれつづけた。最近改めて気がついたのだけど、思考はなるべくシンプルに脳内に貯蔵しておいたほうが取り出しやすい。たとえどんな大思想を広げるのであっても、まずはどこにどんな知識があるのか脳内で整頓されていないとはじまらない。目録が整頓された図書館を利用したほうが、短時間に体系だった知識をまとめやすいのと同じだ。

そして三つめはヴェロシティ。つまり速度だ。現時点で私は、この三つ目の課題にもっとも苦戦している。元来、頭の切れる即断型人間というより、「あのときはこう答えておけばよかった!」とあとあと思いつく熟考型人間なのだ。でも、ライティングの先生は「5分でこの一文を考えろ」と命じてくる。5分なんて非情な、、、と私はアワアワしてしまうのだが、意外や意外、この速度訓練に少しずつ慣れていくと、5分で考えたことも50分で考えたことも「精度の違いこそあれ、大枠のアイデアには大差ない」ということに気づく。逆説的にいえば、5分で考えの種が見つからない答は、50分かけても答えられない。つまり自分のいまの知力ではおっつかない答えを創造する必要が出てくる。そうなったときにはじめて、たっぷり5日ほど時間をかけて、新しく答えをクリエイトしていけばいいのだ。多くのことは5分で答え、そのとき糸口さえサッパリみつからないものだけ5日かける。これはかなり革命的な思考法として、いま私のなかに導入されつつある。

そういえば数年前、故・小渕恵三首相が「第二公用語を英語にする」言語計画を発表して大ひんしゅくを買った。あるいは昨夏に、楽天の三木谷社長が「二年以内に英語を話せるようにならないマネージャー陣は全員首にする」と発言して賛否両論をよんでいた。前者の小渕計画への大半は「若者の日本語がおろそかになる」といった教育論が大半。後者の楽天計画へのバッシングは「現実的に考えて、業務上非効率的だ」といった生産性に焦点をあてたものが多かった。どちらの言い分も一理ある。ただ私個人の両計画への意見としては「いくら英語を覚えても、国際人にはなれないよ」ってことに尽きる。

英語を覚えるまえに英語脳の素地、つまりロジカルに思考し、シンプルに答え、速度ある知力をもつ。そうした思考法をまず育成しないと「超日本的英会話人」という役立たず人間しかできあがらない。逆にいえば、もともとこの英語的思考法をもつ日本人は、言語力のいかんに関わらず、そのまま世界で立派に戦える一流のコスモポリタンになれる。

(January 18, 2011)

Posted by iwaki : 23:18 | Comments (0)


年越しブログ2010

大晦日の東京ーーこの寒さと静けさと清潔さが好きだ。一年のどんな混乱も泥濘も、すっきり浄化してしまう清らかさがここにある。サア、こうして、一年が終わる。思えばここ数年はつねに変化変化の激動の日々であった。けど今年の、まるで呼吸の仕方をエラ呼吸から肺呼吸にチェンジしたような「本質的変容」に比べれば、昨年も一昨年も、まだまだ以前の甘さをひきずって適当にやっていた。昨年の日記を読み返すと「だって、でも、じゃなくて」と、いろいろと屁理屈をこねた言葉が多くて我ながら呆れてしまう。子供じみたエクスキューズはもうおしまい。今年は仕事面でも私生活でも、自分で自分の人生にドンと決意を下し、結果的に少し大人な責任感を持てるようになった。だから今年の大晦日は、ここ数年でいちばんスッキリ。煤払いした部屋と同じように、清潔で穏やかな気持ちでいられる。

今年達成できた喜びのひとつに、淡々と地道に勉強にいそしむことで、自分の人生の可能性を広げられたことがまずあげられる。鍛錬と規律と習練。これらは、いろいろブザマに慌てふためいていた年始めの自分にはかなり足りない要素だったけど、結果的にそうした規律心をいくばくか自分に教えこむことができた。その努力が実って、来年の半ばから晴れて外国生活である。イエイ。

もうひとつの喜びは、活字を書くことに対しての楽しさを取りもどせたこと。いっときは書くことすべてが無意味というか不毛というかゴミに思え「こんなもん、なんの価値があるんだい」とナゲヤリになっていた自分がいた。が、最近は、新しい単語を一日一個使えるようになるだけでウォウと喜びが湧いてくる。結果、ひとつひとつの文章に前よりも丁寧に取りくめるようになり、同時に、自分の文章の拙さを前よりも検証できるようになった。

だが今年最大の収穫は「主意主義」な生きかたを発見したこと。人生の根本は、圧倒的に「意志」にある。知識でも感情でもなく、意志によって人生は拓ける。その事実をまざまざと実感したとき、自分のなかの歯車がぐらりと大きく回転した。まわりに何と言われようが、自分で自分の生き方を選ぶ。強く意志に賭して進む。またそうして意志的に生きれば生きるほど、人間は晴々と自由になっていく。その喜びは、本当に言葉に尽くせぬほどで、いまその喜びを反芻するだけで心の底からワア!と叫びたくなる。AでもいいBでもいいでなく、私は誰がなんといおうとA! そう嘘なく言い切るだけでなあんて清々しい心になれるんだろう。自分でもその解放感の大きさにポカンと口をあけて信じられない気持ちだ。

さて、来年はこの人生を意志的に前のめりに生きる疾走感を大切にしつつ、同時に、感情制御の冷静さを保ち課題をクリアしていければと思う。来年のテーマは「デッサン力」。まず仕事面では、いままでセンスや色使いだけで適当にお茶を濁してきた、装飾上手で芯の弱い文章に、基礎的なデッサン力を与えたい。そのためには基礎学力を学ぶだけでなく、改めて自分の文章の短所にきちんと向きあう必要がある。これはそうとう時間がかかりそうだ。また第二言語でも同じように文章を書く第一歩にも踏みだすつもりだ。さらに生活面では、あれこれ色とりどりに愉しいことに手を出すまえに、腰を据えてひとつのことを思考してみる習慣を身につける。多くの人間ときゃんきゃん遊ぶまえに、大切な人たちへの思いを疑問をもって検証する。そして物事の骨格というか、芯を掴んで対応する。つまりは精確なデッサンで描かれた、ブレのない人間関係を築きたい。

2010年にお世話になった皆様、ブログ読者の皆様、本当にありがとうございました。
2011年が皆様にとって、笑顔ではしゃぎたおしたいほど充実した一年になりますように。

Every courageous act of life, is formed from love.
Happy New Year.

(December 31, 2010)

Posted by iwaki : 21:41 | Comments (0)


現実認識の感受値と「才能」

いま話題の美術展に行く。あるいは美味しいレストランに向かう。そこで芸術鑑賞なり食事なりを愉しみ、人は今日という日に、少しだけプラス点を加算する。今日はこれだけ笑いあえた。今日はこれだけの発見があった。だからプラス五点、十点……。そうして人生の豊かさが、浜辺に埋もれる貝殻を拾い歩くように、少しずつ蓄積されていく。けれど最近思うのだ。この感受値のバロメーターの精度が、ずいぶん人によって違うものだと。

同じ美術展やレストランに行っても、五点の加算で終わる人間もいれば、五百点の加算になる人もいる。そしてこのインプットの差が、そっくりそのままアウトプットの差につながる。だから私は近頃、この「現実認識の感受値」こそが、人生のほとんどの才能を決める数値ではないかと思うようになった。

だって考えてみて欲しい。一皿の料理を前にして、あるいは一枚の絵画を前にして、五感すべてを解放して全身全霊で感じることができる者と、「おいしいねー」「すごいねー」という短絡思考で終わってしまう者とでは、明らかに人生の豊穣度が違う。前者は五百点の現実認識であり、後者は五点の現実認識だ。そしてどうあがいても、後者はなにかを表現しようとする段になったとき、やはり五点の表現しかできない。それが彼/彼女の、感受値の総量だからだ。今こそ勝負というときにいくら頑張ろうとしても、五点の感受値で料理を日々食す人が、五百点の皿を出すシェフになることはどだい無理だ。

だからもし根底から人生をより豊かにしようと思うなら、片っ端から欲しい服を購入したり、腹も空いてないのにグルメな店を駆けまわることは止めるべきだろう。またふわふわと浮ついて考えなしに人の意見に同調するのもやめるべきだろう。そうではなく情報刺激をいったん抑制して、一個の情報にぐっと対峙してみる。その作業には根負けしない忍耐、スルメを噛み続けるような辛抱が必要だろう。けれど自分の掴む世界や現実を、より深く豊かなものするためにはこの方法しか道がないように思う。そうして一つ一つ、現実の出来事にジッと向き合い、好奇心をもち観察し、その事象と丁寧に対話できるようになることで、人間の能力は高められる。五百点とは言わずとも、五十点の現実認識の感受値をもとうと努める人間が増えたなら、世界はいまよりずっとずっと豊穣な場所になるはずだ。

(December 29, 2010)

Posted by iwaki : 23:56 | Comments (0)


時代と私とメタモルフォーゼ

最近手に入れた新しいパスポートと、学生時分に作った十年前のパスポートを見比べる。もはや同一人物だとは思えない。それぐらい顔つきが違う。トランスフォーメーション(変質)というよりメタモルフォーゼ(転生)に近い激変がそこにある。激変、なんていうと人は「大変ねぇ」と同情するかもしれないが、いやいや、最近の私はこの変化を心から楽しんでいる。国や環境や生まれた時代によって、知らぬ間に植え付けられている偏見の塊としての「常識」を疑う。そしてそれがいかに根拠レスかを実感し、ひとつひとつ不要なものをポイッと投げ捨てていく。

すると例えば、明治時代に国家が税収をあげるためにむりやり導入した婚姻制度や、80年代にマスコミによって喧伝された「成果主義な仕事に生き甲斐を持つべき」という米国的職業観、あるいは戦後になってから導入された純潔恋愛観などすべてが、当時の権力者がなんらかの利益を得るために作りあげた勝手なフィクションであることがわかってくる。

簡単なところでいえば「クリスマスは恋人とデート」なんていうのも、1930年代の東京で商売上手な人々がでっちあげたフィクションである。あるいは「最近の学生は公務員に憧れる」というのは、不況の時代に必然的に産み落とされたもっとシヴィアな物語である。そして私も含めた多くの人々は、良くも悪くも、その時代に流行している「物語」に呑み込まれていくーー。そういえば『日本生産性本部』の調査によると「今の会社で一生働き続けたい」という新入社員は、私が大学を卒業した00年には20.5%しかいなかったが、昨年度には過去最高の55.2%にまであがったという。安定を夢見る物語が、いまは大人気なのだ。

ところで私はあるときから可能なかぎり、この「物語」に乗ることを止めようと決意した。人が適当に書いた物語に乗るのではなく、自分で自分の物語を紡ごうと思いはじめたのだ。そのために、東京の中流階級で育った自分のモラルを一から疑い、多くは日本で過ごしてきた三十年間の社会通念を疑い……とにかく自分でなにかが「変だ」と思ったら、その心に従って自分なりのルールを作るようにしてきた。新しいフィクションの枠組みに自分を入れ替えようとしはじめたのだ。すると人生がゆっくりと、少しずつ自由に広がっていった。と同時に、生まれ持った顔つきがぐんぐん変容していった。

そういえばこのあいだ、東京都現代美術館で開催中の、その名も「Transformation展」で、写真家・石川直樹さんがエベレスト登頂時に撮影した作品の数々を拝見した。そこにはクリスタルクリアに美しい風景写真の数々と同時に、作家がエベレストに登ったときのドキュメンタリー映像が、時折りはさまれる文章とともに流されていたのだが……、その映像作品に私は「人の変容の基本ルール」を教えられた気がした。

エベレストを登っていると、否応なく体が変容する。標高6000メートルほどから性欲がなくなる。標高8000メートルを超えると、いくら眠っても眠い日々がつづく。人体がつねに危険地帯に置かれるため、体が完全な眠りにつかないのだ。そんななか登山チームはタッチ&リターン(登っては下って)を繰り返し徐々に身体を高山環境にアダプトしていく。現代では人は、自分にあわせて環境を変えようとする。たとえば空調などを使って。けれど本来は人間が、環境に適応して変容していくべきなのだ。そんなことを、このドキュメンタリー映像は端的に教えてくれる。そして作家は最後に語る。「人は極地に立たされたときはじめて、自分の限界領域がわかる」。

時代が変われば、人の欲望も変わる。環境が変われば、幸せも変わる。だがそれに気付かずに、何十年もおなじ結婚観や職業観のフィクションの枠組みに自分を押し込めて生きることは、すこし無理があるように思う。そろそろ多様化する時代にあわせて、ひとりひとりがユニークな登山ルートを探っていくべきじゃなかろうか。そして「私の、俺の、限界領域はどこだ?」と、そのつど心に真剣に問うて生きていければ……これほどスリリングな人生はないように思う。

(December 19, 2010)

Posted by iwaki : 21:27 | Comments (1)


世界は独話でまわっている

目的のない会話が苦手だ。「よーい、ドン!」と全員でスタートラインを切り、100m先のゴールを目指すのものと思いきや、競争者がそれぞれ好き勝手にあちらこちらの方角に走り出す。あるいは走るどころかそこに座りこんで考えこんでしまったり、走るトラックの素材研究を始めたり、 レースそのものに疑義を唱えたりする人々がでてくる。そんな会話の場に出くわすと正直困惑する。もちろん、週末のカフェで友人とだらだらおしゃべりをするだけなら目的なんてなくていい。ないほうが楽しかったりもする。けれど会議となると話はべつ。お願いだから、おなじ競技服を着ておなじレースに参加しようよ、と叫びたくなる。

最近、他者と対話をしながら同じ目的地を目指すタスクが増えている。そんなときにこの「会話の目的地の有無」について考えさせられる。さあ今日の目的はどこだ? 個々人の態度や言葉のディテールから、その裏にある真意を読み解こうとする。米国系の金融会社で働く知りあいによると、アメリカではビジネス・ミーティングなどでほぼ無駄口を叩かないという。転属一日目の会議であっても5分後には「それでは今日の議題は…」とプラクティカルな会話に移行しているそうだ。なるべく効率よく、なるべく適確に、目的に辿り着くことがビジネスの前提条件なのだろう。かと思えば、南米系企業で仕事経験のある知人にこのアメリカ式ビジネスの話をすると「信じられない」と口をあんぐり開けて驚く。「ブラジルではまず相手の人柄を信用することが第一。だからビジネスの場でも、家族や恋人の話をいっぱいするんだよ」。つまり南米の企業では、生産性・効率性・競争性を考える以前に、人間関係の絆を構築する。これはこれで難しそうだが。とにかくあきらかにアメリカとは会話の方法論が異なる。

さて、日本ではどうか。厄介なことに、これが時と場合による。アメリカンのときもあれば、ブラジリアンのときもある。あるいは……、これは最近とみに気になるのだが、対話をしながら「独話」をしている人がじつに多い。相手の話を聞いている、つもり、でいる。けれど彼・彼女は「うんうん、そうだね」と言葉を右から左へ受け流しつつ、相手が話し終わるや否や「いまだっ!」と自分の話をはじめる。この独話にはいろいろな目的がありそうで、おそらく、自分の評価をあげるためだったり、相手を説き伏せせるためだったり、さらにはただ寂しさを紛らわすために誰彼構わずしゃべっていたり、まあ、非常に自分勝手な個人競技が繰り広げられることになるのだ。そんなときどうやって相手のペースに飲まれないようにするか。なるべく友好な関係性を保ちながら独話を断ち切るにはどうすればいいか。それが最近の大きな課題である。だってそういう人って放っておくと、自分の推定や憶測でどんどんこちらの意見を歪めていっちゃうからね。「りんごをきれいに剥くのは難しいね」という話をしたら「どこのりんごが今年は豊作だ」みたいな話を延々返される、みたいなね。極端にいうと、そういうことが多々起こる。

とにかくアメリカンでもブラジリアンでも、あるいはそのどちらでもないものでも。方法論は何でもいいから、共通目的のある会話がしたい。質問Aには答Bを返し、質問Bには質問Cを返し、質問Dには面倒だから答えないよぉ、みたいなね。そんな噛みあわない会話に囲まれてると、うわんと気が狂いそうになる。この世には独話が溢れていて、対話が絶滅しかけている。

(December 9, 2010)

Posted by iwaki : 12:15 | Comments (3)


太陽的な意志に殉じる

味気なく色もなく現実感のなかった日常が、とつぜん終わった。一週間ほどうんうん唸っていた思考的難産の日々が嘘であったかのように、魂が軽くなった。一夜にして「意志」の大切さが、ストンと腑に落ちた。

この世に絶対的な真実などない。真実をどう解釈するかを自分自身で選択していくしかない。その力強い意志が生まれたとき、自分のなかから今日のピーカンの太陽のように温かな光が心にゆったりと広がった。そうか、なにが正しいかを道徳的に考えようとするから、人は苦しくなるんだ。ベストな選択なんて、私にも誰にも分からない。すべては、自分をどこに賭けるか。人生を何に殉じるかだ。その意志がはっきりとしたとき、自分の人生の可能性が豊かに開かれた気がした。

今日は朝からシャネルのアイシャドーで化粧して、フランス産のお気に入りのワンピースを着こんで、颯爽とY3の靴で街を闊歩する。おっいい女じゃないか私、とひとりショーウィンドウに映る自分の姿にほくそ笑む。バカじゃないかと思うが、そう思える自分が楽しい。自分の欲望にはひたすらエゴイスティックに、それ以上に深く人を愛して生きよう。今日の太陽がそうだそうだ、と応援している。「女として愛する女はひたすらより深く女になっていく」。ニーチェは正しい。

(November 30,2010)

Posted by iwaki : 13:28 | Comments (2)


言語のピュリティ

言語によって思考回路が変わる。これが二件の日本語インタビューと二件の英語ミーティングを一週間のうちにこなした実感。日本語はもちろん私の母国語で、英語の数倍、汎用性が高い。「汎用性」なんて言葉がすらすらっとかっこよく出てきてしまうぐらい、ボキャブラリーもふんだんさ。けれど語彙の豊富さと思考の明晰度は比例しない。言葉が無数にあるがゆえに言葉で自分を埋めつくして、うまく騙せてしまうというか、言葉遊び的に文章を構築して何か「語った気分」になっていたりする。最近、用もなく人との会話を録音するようにしているのだが、あとで聞き返してみると、圧倒的に単語の選択・語意・用法をまちがえていることに気付かされる。……おそらくこの文中でも「圧倒的に」という修飾語は、辞書的に考えれば最適ではないだろう。

それにまた、日本人は生まれてから死ぬまでほぼ日本語だけを話しつづける国民なため、自分の日々の使用言語に対して客観性のない人が多い。だからそれぞれの地域・家庭・学歴・職場などによって自然と日常的に使う言葉に「手垢」のようなものがついていって、三十年もそのテリトリー内で生きつづけていると、なんだかもう部外者にはほぼ通用しない専門用語だらけの会話になっていたりする。また語気や語勢のようなものにも癖があって、たまに実家に戻って家族が全員おなじテンポのリズムで話しているのを聞くと、その単調なリズムを破調させたくなる悪戯心に駆られることがある。なかでも文頭と文末のアクセントが気になる。なぜ話し始めるまえに「っていうか」「でも」をつけるんだとか、文尾を区切らず「〜で、〜で」とリピートするのかとか。音楽的に美しくない。

あとこれは私だけの実感なのか、他の第二言語を操る人間もそうなのか分からないけれど、一週間ほど他国語をしゃべりたおして日本に帰ってくると、日本語が文章単位・単語単位でゲシュタルト崩壊することがままある。たとえば「おはようございます」というフレーズが、どこで言語としてひとまとまりなのか分からずものすごーく気持ち悪い思いをする。「お早い」「茣蓙」「鱒」みたいな単語が無作為にくっついているように思えることもあるし「おはよーござい!」「マス!」みたいな男子体育会系挨拶の総合体に思えることもある。あるいは「はよー」の部分だけが「ハロー」のように英語の空耳的に響いてくることもある。この感覚は言うなれば……、私の居ぬ間に国民全員が秘密の暗号言語をマスターして、背後でベロを出しながら私を茶化しているような感覚で、本当に異常に気持ちが悪い。とにかく、何が言いたいかというと私は日本語を話していると、要因はなんであれ、心と言葉の距離が遠ざかっていくように思えることがあるのだ。

では英語で話しているとどうかというと、もちろんこちらの言語だって意思伝達は難儀だ。そもそも完璧に言語をマスターしていない時点で、思うことを100%言語化できない。致命的である。だがしかしだ。「100%言語化できない」ということを常に自覚したうえで会話しているため、非常に注意深く、丁寧に、謙虚に言葉を選んでコミュニケートを進める。また日本語では言葉の色合いみたいなものを考えて、赤い古びたビーズのなかにいきなり10カラットのスワロフスキーを入れて、デザイン的に奇妙な会話のネックレスを紡ぐようなことはしないのだが、英語だと日常会話にいきなり「Ontological」=存在論的なんて言葉を混ぜても私個人は違和感がない。つまりすべての言語をフラットにチョイスできる。小二の漢字も、漢字検定一級の漢字も、同列にまぜあわせて自分だけの「言語表」を構築できる。これがいまの私にとっては、面白くてしかたがない。なにせ心に合致した、自分だけの誠実な言語を創造できるのだ。

だから最近、自分のなかから真実の啓示のようなものがたまにポコッと生まれたりするのだが、それは悉く、「汝の隣人を愛せ」のような聖書的英語のショートセンテンスだったりする。なんだか自分のなかにイングリッシュ・スピーキングなちょっと口の悪い神様がいて、私にいろいろつぶやいてくれてるんじゃないかと思えたりしてこれまた笑えて面白い。

来年から英語圏に居住する…まあまだ未定だけど、予定なので、そうして英語が生活語になっていったときにどうなるのかが興味深い。もしや日本語と同じように、生活の手垢に言語がまみれていって、気づけば他者と同じ言語選択をして言葉が雑になっていたら嫌だなぁと思う。「ネイティブはそんな表現はしない」とかなんとか言われようが、私は「わたし英語」を貫き通してやる。言語なんて人の数だけあっていいのだ。なにを見ても「ラブリー」という単語しか出て来ないようにはなりたくない。この言語のピュリティは保ちたい。

追記:このブログを読んでいる知人に小林秀雄のデビュー作『様々なる意匠』でまさしくこんなようなことが書いてあると聞いた。人間が言葉を発明して活発な社会関係を生み出せたことは素晴らしいが、その代わり人間は「様々な意匠」をもった言葉の魔術にたぶらかされるようになったと。「意匠」に懲りすぎると「本質」が消えるのは何であれ言えることだ。

(November 27, 2010)

Posted by iwaki : 01:21 | Comments (0)


自分の理性は自分じゃない

この世には生きれば生きるほど、賢くなる人間と愚かになる人間がいる。私は圧倒的に後者で、人生哲学が反転するような出来事に逢い、どうにかせねばと数週間悩み、脆弱な意志で決断を下したくせに、その決断を貫き通せずいま笑うに笑えない状況にある。いろいろ必死にあがいても、砂をつかむように哲学がまとまらない。それどころか今まで「自分で考えた」と思っていた思考のほとんどが、家族や、国や、道徳教育などの世間が考えた哲学の域を出ていない事実にクリアに気付き、じゃあいったい私の無二性ってどこにあるのさ、と、ブラックホールのように空虚な自分にめまいを覚えていたりする。あきらかに年を重ねるごとに私は、愚かで不安になっている。下手にソクラテスに共感してしまうのも無理はない。

人は自分の弱さを知らないとき、あるいは敗北感や挫折感や劣等感などを知らないとき、その人生に対して万能なエネルギーをもって向かうことができる。朝起きてから夜眠るまで、迷いのないまっすぐな思考の一本道が続いていて、そこに悩む暇が入りこむ余地がない。けれど年を重ねて世のからくりがわかってくると、自分のあまりの無知さに気づき、なにが現実で仮想なのかもわからないほど理性がぼやけてくる。東京で仕事をしていてふと「これぜんぶ夢ですよ」と言われても納得できるぐらい、現実に現実感がなかったりする。水や空気や太陽さえも人工物に思えてきて、映画「インセプション」のように、いま私は夢の夢の夢の底でさまよっているだけなのかもしれないと思えてくる。

そんな解像度の低い現実を眺めていると自分にとってなにが幸か不幸か、なにが善で悪か、なにが美しく醜いのか、その判断さえ定かでなくなってくる。もっと簡単に言うならば、自分のなかから生じる「欲望」と「理性」のどちらを信じたらいいのか、そのジャッジに四六時中迷うハメになる。自分がかっこつけて培ってきた三十数年の理性。その理性は自分の脳みそで構築してきた世界で一つの宝石ではなく、世間様の借りものの哲学を寄せ集めて作っただけのイミテーションに思えてくるのだ。そんな巨大な不安に足下をすくわれると、こうして異国の空港のようなどこにも属さぬ場所で、限りなく空虚でがらんどうな生に浸りながら、人生に立往生している自分に気づく。今アナウンスが流れているモスクワ行きの飛行機にえいやっと乗ってしまっても、別にいいんじゃないかとさえ思えてくる。

とにかく、一回リセットだ。そして普通に人生を送ろう。普通に食事をして、普通に働いて、普通に眠って、普通に笑って、普通に会話する。この尊い「普通さ」を手放してしまったがゆえに、いまの私は無軌道な宇宙空間で身をさまよわせているのかもしれない。

(November 17, 2010)

Posted by iwaki : 23:04 | Comments (0)


保留時期

ダメだ。どうにも言語化できない状態だ。
とりあえずブログ保留時期に入ります。

(November 5, 2010)

Posted by iwaki : 00:48 | Comments (2)


言葉は嘘つき、声帯は正直

言葉を書く仕事をしながら、言葉に危うさを感じはじめている。言葉は嘘をつくからだ。
もちろん人と人とが関係性を構築するには、内面を言葉で外在化していく必要がある。しかも、面倒くさがらずにできる限り適確にアウトプットしていくべきだ。ショッピングに行って「かわいい」、旅行に行って「楽しい」。それでは自分のなかだけで世界が完結してしまい、他者と世界を共有できない。つまりは世界が「個」から広がっていかない。

だからできる限りAさんとBさんはお互いの、意志、欲望、感情を言語化していくべきなのだが、これが非常に大変。まず各自がそれなりにボキャブラリー訓練を積む必要があるし、AさんとBさんとでは同じ感情に異なる言葉をのせるからその微差を掴む必要がある。さらにもっとも難しいのが、自分の感情を精度高く見つめること。ここで自分を甘やかすと、感情に無意識にいつわりの言葉をのせてしまう。

とにかく言語というのは日常的なものでありながら、非常にハードルが高いツールだと最近とみに感じる。意識的であれ、無意識的であれ、言語化の能力不足からであれ、言葉じたいが感情を欺いてしまうことがあるのだ。

そんなおり「声の抑揚」による非言語コミュニケーションの可能性について教えてもらった。人づてに英国の桂冠詩人テッド・ヒューズが、声の抑揚によって人類普遍の感情言語を構築しようとしたと聞いたのだ。詳しいことは知らないけれど、確か演出家ピーター・ブルックも、一時そんな演出法を試していたように思う。呻き声や叫び声で、世界の異言語の観客に、言葉なくしておなじ感情を伝えようとしたのだ。で、そこからいろいろ紆余曲折を経て、最終的に、人の情動は発話音声の基本周波数で分析可能だという情報に行きついた。

例えば人が怒る。すると、脳の情動部位と迷走神経によりダイレクトに接続されている声帯などの発話器官がおのずと変形してしまう。そして結果的に、声が怒った周波数のものとなり、怒った声が思わず「出ちゃう」のだそうだ。言葉は嘘をつけても、声帯は嘘をつけないってわけだ。だから感情ごとの声のパターンを聞き分けられるようになれば、「怒ってない」と言葉では言う人が、どのレベルで怒っているかを科学的にジャッジできるはずだ。

とはいえ、怒っているか怒っていないかぐらいは、べつに科学が介在しなくても人は判断できる。他者との関係性がこじれるのは、もっと複雑な感情が介在してきたとき。怒りながら悲しいとか、喜びながら寂しいとか、嬉し泣きしながらお腹がすいてちょっと不快とか。多色の感情がまざりあってきたときである。果たしてそういう感情も、周波数で分析できるのか。まだ科学はそこまで進んでいないだろうし、もし仮にそれができたらそれこそ完璧なアンドロイドが作れてしまうだろう。そう思うとやっぱりまだまだ、言葉によるやりとりがもっとも精度高い人間のコミュニケーション・ツールなのだろう。一部のアボリジニのようにテレパシーとか私もできればいいのに、と最近本当に思う。まあその研究はこれからするとして、声の抑揚分析は軽い参考程度にとどめておこう。

(November 2, 2010)

Posted by iwaki : 01:09 | Comments (0)


沈黙 (2)

ひさびさに外で知人に会う。
勝手知ったる相手とのコミュニケーションが、
いつもと別ものに思えて驚いた。
なんだろう、この違和感。

テレビの走査線の数が急増した感じで、
前は見えなかった対話の小さな誤差が見える。
ただ自分はとても穏やか、そして静か。

沈黙する。
感情を物質化する。
想定をなくす。
それで注意深く耳をすます、
と、相手が違って見えてくる。

「Me」と叫んでいた自我を留保すると、
相手の言葉ひとつひとつがきちんと耳に入ってくる。

たしかインドの哲学者クリシュナムルティが、
完全なる自己放棄の先に肯定感がやってくる、と言っていた。
そこまでの悟りにはまったくいたっちゃいないけど、
なんとなくそれに近い柔らかい感覚がいまある。
古伝空手の心得じゃないけど、
頭脳ではなく身体脳がなにかを会得しかかってる。

いつになく文章にならないし、
言葉にするとぜんぶ嘘に聞こえる。
でも何かがそこにあるのよ、うん。
おそらくだけど、人間関係にもっとも大切なことは、
いいことも悪いことも含め過去の想定をなくして、
現在の相手をものすごい集中力で見ることにある。
でないともはや現在にはない、相手のバーチャルな
イメージと格闘しつづけることになる。そうではなく、
今、相手の美しさを真新しく発見しつづけていくのだ。

(October 31, 2010)

Posted by iwaki : 00:04 | Comments (0)


沈黙 (1)

雨のなか一週間、沈黙してみた。


沈黙実行計画が三日ほどたったころ、
感情を棚に置かれている「物質」のように、
捉えられるようになった。

あ、私アホだ。
昨晩あたり、自分の底がスッコーンと抜けた。

重かった感情も、あとかたもなく消えた。
感情も、自己防衛のひとつだったかぁ。
雨のなかすこし心が晴れた。

(October 30, 2010)

Posted by iwaki : 08:25 | Comments (0)


バーチャル廃止宣言

今週、ほぼ見ず無用の長物と化していた、惨い画像品質のおんぼろテレビを捨てた。勢いに乗りDVDプレイヤーとビデオデッキも売却した。テレビがないから払う必要がないなとNHK受信料の支払いも停止し、CSのテレビチューナーも回収してもらった。なんだか部屋がすっきりすると同時に、頭もすっきりした。もしや、情報ダイエットは精神衛生上いいかもしれない……。そう思って身の回りのバーチャル環境も見直してみた。果たして、TwitterやFacebookで誰かと四六時中つながっている必要があるのか。

確かに世の動向を知るうえで、これらのソーシャルメディアはもはや欠かせない。相手のそのときどきの活動を知るにもうってつけだ。だけどそれらを見ることが習慣化すると、なんだか一日という時間の流れのなかに雑念がぶつぶつ断続的に入り込んできて、まとまりそうな思考が途中で途絶えてしまう感覚がある。またさらに恐ろしいことに、Twitterのつぶやきを眺めていると、社会や他者のことが「分かった気」になってしまっていることがある。

言うまでもなく一昔前は、こんなバーチャルメディアはなかったのだ。つながりたい相手が遠く離れてしまったら、しかたがなく孤独のなかで想いを育んだのだ。もちろんそれは辛い作業だったろうけれど、辛いからこそ、それを乗り越えて関係性に対する耐久力が身についたはずだ。ひるがえって現代人は、前回のブログでも書いたけれど、忍耐ってものが足りない。いま情報を知りたい、いま何か話したい。それができないと苦しくてしかたがない。それで、ググッたりつぶやいたりする。だからもしかすると私たちは、バーチャルメディアに依存することで、思考の源になる、大切な孤独感を中途半端にガス抜きしてしまっているのかもしれない。そして、一昔前よりも、他者への思考にきちんと向き合う労力を面倒臭がるようになっているかもしれない。

そんなことを考えて、今日からバーチャル廃止運動をはじめてみようと思う。つまりバーチャルなインプット情報を必要最低限にまで抑えることで、他者とバンっと面と向かって話すときの「鮮度」と「貴重度」を高めてみるのだ。だから今後は、自分が話したいと思う相手とは可能な限り面と向かって話す労を割こうと思うし、それが無理なら電話で、それもどうしても無理なら手紙のように内容を考えぬいたメールでコミュニケーションをしていければと思う。言葉にはコトダマが乗るのだ。思いつきで無駄に言葉をダダ漏れさせていては、コトダマに対して失礼ってものだ。ということで、今月はいったんバーチャル廃止宣言。それで自分の変化を観察したい。ブログは、原始的な書く快楽があるのでたまに発信するけれど。

(October 24, 2010)

Posted by iwaki : 00:20 | Comments (0)


美しい女の武士道

ひとりぽっちに生きていると、次第に自分に甘くなっていることを実感することがある。仕事面でも、生活面でも、精神面でも。自分では普通だと思っていても、その普通が少しずつ目減りしていき、気づけば美しくない生き方を歩み始めていたりする。そうはなりたくないと自分を改めて戒めていた矢先、ふと武士道の本を手にとった。そこには非常に学ぶべきことの多い、規律ある美しい生き方が記されていた。

昔のお侍さんのモットーはおもに三つ。他者への情愛と寛容をあらわす「仁」の心と、道理にもとづいて自分の身の処し方を貫く「義」の心、そしてつねに相手をおもんぱかる「礼」の心。そうして彼らは、金持ちになるよりも有名人になるよりも、人格を磨くことに人生の目標を置いた。だから彼らは「知」knowledgeを単なるアクセサリーとして軽視し、生きるために必要な「智」widsomを培うことを重視した。これは非常に納得がいく。いらぬアクセサリー的知識をじゃらじゃらと身につけても、虚飾や見栄や高慢さばかりが増して、まっすぐで嘘のない自分らしい生き方があいまいになるだけ。ひらたくいえば、彼らは「勇気を実行する」ために必要なぶんだけの智を身につけたのだ。

ではそんな武士にとっての勇気とは何だったのか。
その定義の一文が、またすこぶる美しい。
「勇敢な心が精神に定着すると、平静さとなってあらわれる。
 本当に勇敢な人は、常に平静である」
つまり戦場に我先にと駆けいって討ち死にすることは誰にでもできるのであり、それはまったく勇気とは言わない。そうではなく攻めるべきときに攻め、守るべきときに守る。そのジャッジをつねに適確にくだせる「平静な心」を保つことが武士の勇気というわけだ。

いまの世、この「平静という名の勇気」を鍛錬により身につけている人がとても少ない。嵐が来ようが、吹雪が来ようが、悠々として鼻歌交じりにそれに対処する。そんな心に余裕のある大人物が少なくなっているように思う。情けないけれど、私にもこの平静さがまったく足りない。怖くなると、そこらにある槍を持って戦場に突っ込み、まっさきに討ち死にするタイプだ。それで先手必勝でまぐれ勝ちすることもあるけれど、もういい大人なんだから……、そろそろ生きるための智を使って、戦況を平静に判断したい。そんな余裕が生まれたら、女としても格があがる気がする。平静さを保つことは、女の武士道の第一歩なのだ。

(October 14, 2010)

Posted by iwaki : 01:14 | Comments (0)


ロンドン版寅さん

ロンドンの宿は一様に狭い、高い、そして汚い。億万長者のような金額の宿代の出費を覚悟しない限り、ホテルと呼ぶにふさわしい部屋に泊まることなど土台できない。だから今回も渡航二日前に予約した緊急宿泊ホテルに対して、なにひとつ期待しないでいた。いやむしろ期待なんてものを米粒ほども持った日には残酷に裏切られるのがおち。だからなるべく心のハードルを低く低く下げるように心がけて英国へ向かった。

案の定、着いた宿は監獄のように狭かった。トイレもあるシャワーもある。だが窓の外には壁しか見えず、ベッドは日本女性の身長でも足がはみ出てしまうようなサイズ。やぁこれは予想以上だわ、と私の心はみるみる落胆色に染まっていった。だがこの宿、たったひとつ素晴らしい点があった。そこで働く「人」である。

チェックイン時に10ポンドも払って購入したWIFIパスワードがなぜか夜中に動かなくなり、翌朝一番に、レセプションに抗議をしにいくはめになった。ロンドン人の不遜さは有名だ。ちくしょう負けるもんか、絶対にまた10ポンド払うつもりなんてないぞ、と心は早くも戦闘態勢である。だが私に対したレセプションのおじさんは、グッモーニンと朝の鳥のように軽やかに挨拶し、こちらの申し立てを一通り聞き入れると予想外の言動に出た。「お嬢さん、ひとつ確認させてほしい」「ええ、なんでしょう」「君のパソコンは……その、いまはやりの自閉症ではないんだろうか。いやいや、いまイギリスでは社会的自閉症の若者が大量発生しているからさ。まさかパソコンも発症したんじゃないかと思って」。そういって彼は、私のマックブックエアーをそよそよと優しく撫でてきた。私はその行動に一瞬きょとんとしつつも、数秒後には彼のユーモアに思わず爆笑していた。するとおじさんは、さらに一言。「お嬢さん、パソコンに対するときには深刻になっちゃダメだよ。余裕を持って接しないとさ。こいつらはとってもセンシティブなんだから」。そして、おじさんの言うとおりに作業を進めていくと、実際10分後にパソコンはめでたくつながった。私が「イエイ、コネクトされたよ、おっさん!」と狭いロビーで叫ぶと、彼はレセプションデスクの向こうでガッツポーズをしてくれた。ちなみにその間おっさんは「ベッドルームが尋常じゃないほど狭いのよ、どうかしてるよ、あんたんとこのホテルは。もっと広い部屋を用意しなさいよ、今すぐ!」と烈火のごとく怒るイタリア人中年女性ふたりに対し、同じように巧妙なユーモアで切り返し、彼女たちの怒りをなだめて問題をこともなげに解決していた。

翌朝、すさまじい時差ボケで早くに起床してロビー横の朝食室に向かう。と、おじさんが私に気がついて「おはよう、今日はパソコンは元気かい?」と陽気に声をかけてきた。そして「紹介するよ」と朝食係の女の子ふたりの名前を教えてくれた。とても神秘的な東欧系の名前の女の子ふたりは、こんなホテルで働いているにはもったいないほどの金髪&黒髪美人で、彼女たちもおじさんが何かジョークを言うたびに、くすくすと笑って実に楽しそうに仕事をしていた。良く笑う超美人が目玉焼きを運んできてくれるだけで、このホテルの株は何倍もあがっているに違いないと、女の私でも心底思った。

それもこれもすべては、ホテルをとりしきるおっさんの手腕一つ。部屋は狭く、設備は乏しくも、おじさんの言葉が滞在を愉快にするのである。さながら英国版、渥美清。本当に寅さんのように言葉が巧みで、しがないホテルのおっさんをこれほど尊敬したのははじめてだった。日常のユーモアの大切さを改めて実感した。

ヴィクトリア駅とピムリコ駅の間にあるMelita House Hotel >> http://www.melitahotel.com/
(October 3, 2010)

Posted by iwaki : 00:52 | Comments (0)


自分法典とマサツ回避会話

日本の夏をたっぷり満喫して、今日からロンドン。ずいぶん長く日本にいたことで、改めて気づかされたことがある。まずこの国の人間は「均質だ」とはよく言われるけど、断じてそんなことはないということ。除け者にされないため、全員が必死に空気を読み「同質に」振るまおうとはしているものの、あきらかに個々の心のなかには「自分法典」のようなものが存在する。だからその「法典」に抵触する出来事が勃発すると、すねる、ぐちる、あるいは非常に不機嫌になる人たちがたまにいる。しかもタチの悪いことにそれらの人々 (たいがいはモラリストを名乗る人々) は、自分の法典こそが世界唯一にして最高の法典だと思っているから、なにか自分のなかで気にそわないことがあると、その法典に則してつねに他者が罰せられる。

この国はほぼ単一民族国家だ。だから、自分は自分、相手は相手、別の法典に則して行動しているんだということが分かっている人たちが予想外に少ない。それこそ見るからに肌の色が異なる人たちがサラダボウル的に混ざりあう国にいると、お互いが異なる行動指針を持つことは言わずもがなの常識なため、少しぐらい他人が思いどおりに行動しなくてもビクつくことはない。いやむしろ、他人は十中八九異なる見地にあるだろうと推測したうえで先々の会話をシミュレートしていくため、ある程度のディスアグリーメントは会話に織り込み済みである。日本のようにほぼ全員が日本人で、だからみんなあうんの呼吸で通じあえるだろうと思いこんでいる社会のほうが、他者への想像力の欠如と無理解につながることが多いように思う。

じゃあ、どうすべきか。日本人は「私は平均的な日本人」という平均値思想を、そろそろ幻想として捨て去るべきだと思う。そして摩擦を避けて意見を呑み込んだり、相手を逆恨みしたりするのではなく、別の法典をもつまわりの異教徒との対話を進めるべきだと思う。だって、自分も傷つかない相手も傷つけない、だから空気を読みお互いのうちに踏みこまないって……なんだか、人間関係の「冷戦」のようじゃなかろうか? 現代の若者は「優しい会話」を好む「マサツ回避の世代」と社会学的には定義づけられるそうだ。でも、本当の優しさには時に傷つく。べつに互いが互いに対して、言いたいこと言って喧嘩しちまえ、と言っているわけではない。想像力をもって、自分法典の教えに従わない人間とも理解を深めるべきだと思うのだ。異教徒はどこにでもいる。友人も、家族も、異教徒であることが多い。でもだからといって大切な人たちと、ひやひやする冷戦状態を保ちつづけて楽しいだろうか。

(September 23, 2010)

Posted by iwaki : 00:03 | Comments (0)


夏の色の記憶

強烈な記憶はなぜか、光と結びついている。人生の最初の記憶は、母親が窓辺の台所に背をむけて立ち、その向こうから茜色の夕焼けがさんさんと差し込んでいた風景。そのときはなんと表現したら良いものか、三歳児の言語能力では言葉にならなかったが、圧倒的に美しい光光光に呑みこまれている母のまっくろけな影を見て人間のちっぽけさをなんとなく肌で感じた覚えがある。

あるいは小学生のときにユダヤ人の少女に連れられて、近所のシナゴーグに始めて入ったときの記憶。誇り高い祈りの声と、雨に濡れた衣の臭いと、薄闇につつまれた祈りの空間。「あなたは異教徒だからここでは息をしちゃダメだよ」と友に訳のわからない説明をされ、無邪気な私はうんわかったと本気で息を止めて薄暗闇の空間のなか半窒息しそうになった覚えがある。あたりに舞う埃の粒子と、酸欠で目のまえにちらつく光の破片が、晩夏の雨だれの音とともに心に深く刻み込まれている。

他にも、強烈な恋を実感したときの湖に反射するオランダの濃厚な緑や、人生に不感症になって身のまわりのすべてがモノクロ映画のように色から見放されてしまった季節もあった。そして今年の強烈な日差しの夏は、私の記憶のなかに何か新たな色を残してくれた。プロヴァンスでは、テンプル騎士団の寄宿所のてっぺんに寝転がり、肌に刺さるのではないかと思うほど命がけで光輝く天の川を見た。夜空を見てその大宇宙の荘厳さにはじめて泣いた。アヴィニヨンでは、シドニー・ポワチエ似の黒人芸術監督とプラタナスの緑の下で議論をかわした。自分の知的未熟さにしょんぼりして、のちに自分に毒つきながら食べたレモンジェラートは舌にひりつく味がした。日本では真夏日のさなかに新幹線に飛びのり名古屋に向かい、十四才の春のような好奇心と興奮でアートを見てまわった。なんだか知らないけれど心に羽根が生えたように軽くなり、草間彌生作品のカラフルポップな色あいにスキップしたい気分だった。そんな、夏の光がもうすぐ終わる。秋風の気配のなか色褪せていく風景に、すこし寂しい気持ちになる。

DSCF0837.JPG


DSCF0840.JPG


kusama_1.jpg

(September 16, 2010)

Posted by iwaki : 01:01 | Comments (0)


「生産性」とアートの定義

へとへとな晩夏の夜に、ヘヴィ級の質問だが「アート」っていったい何だろう?

名古屋でいま開催されている「あいちトリエンナーレ」に赴いたり、アートにまつわる英論文を書くために手当たりしだい専門書にあたったりしていたら、私のなかでこのアートの定義というものが改めて疑問視されてきた。

人はある作品を見て「これはいいアートだ」「これはアートじゃない」などと千差万別な意見をのたまう。そうしたコメントを耳にするたびに私は「じゃあ、アートって何なのさ」と思いつつも、自分自身の定義もはっきりしないため「まあ、そうかもね」なんてゆるい返答でお茶を濁してきた。あるいは、これは「アートじゃなくて、エンターテイメントだな」なんていう感想を耳にするときにも「うん、まあねぇ」と大枠では同意しつつも、心の奥底では「じゃあその境界線はどこにあるんだろう」なんてもやもやと考えてきた。

豆知識を調べたところ、アートの語源はラテン語の「アルス(ars)」。(1)学習や鍛錬によって培われた「技術」、あるいは、(2)それにより作りあげられた「人工物」、を意味するという。簡略化して説明するなら、技術そのものや、技術的によくできたものを昔の人たちはアートといったらしい。でもこの意味がそのまま現代にあてはまるなら、箪笥や仏壇や雛人形を作る腕っこきの職人さんたちはみんなアートの人になってしまう。彼らがいい腕(arm:これも同じ語源から来る言葉)を持っていることは間違いないけれど、現在の定義では彼らはアーティストにはならないだろう。

さて、研究者を気どって語源を調べても私は全然納得がいかなかったので、ものすごく勝手に自分なりにアートの暫定的定義をもうけてみることにした。キーワードは「生産性」。

その時代に生きる人が考えもしないような新しい見地、息をのむような斬新な考察、この世に今まで作られたことのない類いの美。これらはその作品の力により、鑑賞者の脳内に「新たな洞察・思考・美の概念」を生み出す。その「生産性」の高いものほど、私は強靱なアートだと思う。これに反して、どれほど既存の価値で美しく思えようとも、どれほどよく練られた考察であろうとも、鑑賞者のなかに新たな何かが生み出されないものはアートとは言えないと思う。

つまり鑑賞者のなかに新たな価値観を生産する力のあるものがアートであり、鑑賞者の価値観に安心や保証を与えるだけでなにもクリエイトしないものがエンターテイメントだ。

例をあげるなら、よくできたメロドラマにもそれなりのメッセージはある。最後に善は勝ち悪は滅びるとか、結婚は美徳であるとか、純粋な愛は無償であるとか。だがこれらのメッセージは、世界中のどこにでもはびこる凡百なモラルで、何かを生産しているわけではない。ありものの考えを再利用しているだけだ。だから、大概のメロドラマはアートではなくエンターテイメントなのだ。

そしてさらに論を進めてしまうなら、日本でアートが流行らない理由もこの定義で説明づくように思う。日本人はどちらかというと、冒険や挑戦よりも、安心や癒しを求めたがる国民だ。新奇なもの、斬新なものに「ワオ、なんだこりゃ!」とおもしろがるよりも、人情芝居や恋愛ドラマを見て「そうなのよ、やっぱりそうなのよ」と安心感を得るほうが好きだ。だから、新たな価値観を生産するアートよりも、今までの価値観を保証してくれるエンターテイメントが流行るのだと思う。どうだろう、この推論は。少し先走りすぎているだろうか。

これは私の暫定的定義なので、もし他にアートのきちんとした定義があるのなら是非教えて欲しい。あるいは俺は私はこう思う、という意見があったら是非聞かせて欲しい。だってアートってすごい曖昧でしょう? もちろん曖昧なものを曖昧に受け止めるのも、場合によってはいいけれど、すべてをそうしてスルーしていると思考力が育たない。面倒だと思っても、努力していろんなことをアレコレ言語化してみることで、人と人との対話は豊かに広がっていくように思う。

(August 29, 2010)

Posted by iwaki : 00:57 | Comments (5)


好奇心診断とアボリジニの知

いい大人と呼ばれるようになってから自主的に健康診断を受けるようにしている。ここ数年、風邪をこじらすことひとつないため、まあいたって健康優良児なのだが、とりあえず大人のモラルとして健康には気を配るようにしている。と同時に、自主的に「好奇心診断」も受けるようにしている。これは、私が勝手にそう名づけている行為なのだが、数ヶ月にいちど大型書店に足を運び、自分の好奇心の針がどう動くかをじっと観察するのだ。仕事ばかりに目がいっているときには、それにまつわる類の実用書ばかりに気をとられてしまう。脳が疲労困憊しているときには、活字の少ない絵画本でエネルギーを補給しようと喘いでしまう。そして心身共にとっても調子がいいときには、思ってもみなかったジャンルの本に「おっ」と好奇心がそそがれ、今までにない知的広野がぐんとそこから広がっていく。

それは時に世界経済にまつわる解説本であったり、イスラム圏の女性差別に関するノンフィクション本であったり、ショウペンハウエルによる古典的な哲学本であったりする。そして偶然手にしたその一冊の本により、そのときはまだ自分自身でさえ明解に認識できていなかった思考が、クリアに言語化されたりする。これはかなりのスッキリ体験で、思わず自分がその本を手にしたのは、偶然ではなく必然の出来事であったのではとさえ思えてくる。

そんな偶然という名の必然の巡りあわせから、数日前に、アボリジニにまつわる本を手にした。なにせ子供のころから「ムーミン」の本を開いては、スナフキンの生き方に憧れつづけてきた私だ。昔から薄ぼんやりと、ネイティブ・アメリカンやロマやアボリジニといった流浪の民の生き方に興味はいだいてきた。だがきちんとした本を読んだのは今回が初めて。そして最近とみに、自分が実際に見て聞いて歩いて体験した知しか知識にならない、と実感するようになっていた私にとっては、この本に書かれている内容はとても深く心に響いた。

たとえばアボリジニは、所有物を増やすのではなく経験を増やしていくことで、人生は贅沢になると語る。東京でどれほど安定した生活を築き、豪奢な物質に囲まれていようと、自分の人生は豊かでないと感じている人間は大勢いる。現代人のほとんどは、雨のなかに裸で立つ感覚さえ知らずに死んでいく。その経験はグッチの鞄を手にするよりも、よっぽど贅沢なように私には思える。

あるいは彼らは誕生日を祝わないという。なにも努力しなくても自然に年はとる。そんなことは祝う意味がない。彼らは去年よりも今年のほうが賢くてよい人間になれたぞ、と自分で思えたときだけ、それを自己申告制で祝うのだ。「俺は去年よりも、人を笑わすのがうまくなった」「私は去年よりも、感情をコントロールするのがうまくなったわ」。そう思ったときに、おいパーティーをしてくれよ、とまわりに告げてまわる。これはなかなかユニークで、しかもとっても祝う価値がある。まえまえから誕生日というものに疑問を抱いていた私としては、アボリジニ方式の祝うにたる祝いが世に普及してくれることを切に願う。

今月の好奇心診断では、アボリジニの哲学本が処方され「経験」の大切さが自覚されられた。はてさて三ヶ月後には、なにに興味が向くのやら。子供のように時間が長く感じられるいまの私にとっては、三ヶ月先の出来事はほんとうに未知との遭遇だ。

(August 9, 2010)

Posted by iwaki : 00:22 | Comments (0)


三好十郎と八月に歩くこと

歩くことについて考えている。これは隠喩的にも字義的にも。

なにせこう暑いと朝目覚めて太陽と向きあうだけではなはだ苦行だと思えてくる。そして家で仕事ができることを幸いに、冷房にあたり窓のそとで焼けるアスファルトを眺め、ダラダラと時間をすごしてしまったりする。だがそんなとき、ふと、自分の体力に不安がよぎる。二十代までの自分はここまで暑さにヘバることがなかった。というよりもむしろ気温に対して不感症だった。まわりが暑さを喚きたてるから夏の太陽を自覚する程度で、個人的には「暑いですね」というのは時節柄の挨拶のようなもので、心から暑いと思っている人は存外少ないのではとさえ思っていた。

だがここ最近、体全身で敏感に季節を感じる。と同時に、玉の汗を浮かべて、今年の酷暑にヘバっている。とにかく毎日のこの過剰湿気では頭と体がお麩になる。やりたいことはいっぱいあるのに、灼熱の太陽に体力を奪われ、真昼に睡魔におそわれる。そこでこれじゃいかんと思いたち、自分の暮らしにびしっと芯を通すべく、ジムでいつもよりも長い距離を歩きはじめた。毎日、と言いたいところだけれど、3日にいっぺんほど。1時間歩く。

最初にこの長距離のウォーキングをはじめたときは、すぐにでもメジャーリーガーのような体力になりたいと気持ちばかりが急いて、自分にあわないピッチで歩きすぎてすぐにバテた。自分ではいっぱしの競歩選手にでもなったつもりでいたのだが、通常90ほどの私の心拍数が145に急上昇し、心臓がぎゅんと痛くなった。これは危険だとさすがに察知し、次からはもう少しゆっくりと歩くことにした。また、たまに水分補給の休憩なども入れてみることにした。だがこの牛歩ペースは「スパルタに体を鍛えたい」という私のMな運動欲を満たしてくれず、且つ、ゆるゆると休みすぎてしまうと次に歩き始めるのが意外にきついという事実を知らされた。どうやら、早すぎても遅すぎても、よろしくないらしい。

そんなおり、三好十郎という作家の「歩くこと」についてのエッセイに遭遇した。

「あなたが気持ちよく遠くの道を歩くためには、疲れすぎないうちに休み、休みすぎないうちに歩きだすのが、いちばんかしこい方法である」

これは真理である。しかもジムで歩くことに関してだけでなく、すべからく人生すべてにあてはまる。あそこに到達したいぞ、というなにがしかの目標があると、人はすぐにでも辿りつきたいと思いオーバーペースで走りすぎてしまう。そして翌日には半分のペースにがくんと減速し、翌々日には遅れを取り戻さねばと無理をしすぎてしまったりする。こうなると一週間が経つころには、ペース配分の悪さそのものに精神的に疲れてしまう。だから大切なのは、天候や、体力や、目標の大きさをかんがみて、できるだけ長く歩ける自分だけのオプティマム・ペースを探ること。休息をとるにしても、風呂に浸かるようにふかぶかと休まず、さっと腰があがる程度に軽い休みをとる。そして、爽快に次の一歩を踏みだす。

どれほど炎暑でも酷暑でも、ダラダラと休みつづけていたら、海辺のゾウアザラシのように身動きがとれなくなる。東京の八月なりの最適なペースを見つけて、歩きつづけよう。

(August 2, 2010)

Posted by iwaki : 23:35 | Comments (1)


記者会見用の会話術

いつもとは逆の立場で記者会見に参加してきた。記者席ではなく登壇者席にすわらせてもらったのだ。参加してみていろいろと学ぶことがあった。が、なにより自分の経験値不足をたっぷりと思い知らされたのは、表情が読めない不特定多数のマスに話すコミュニケーションの術を自分がまったく持っていないということだ。誰に対して言葉を届けていいものやらわからない会話を求められると、途端に自分はあわあわしてしまう。

普段のわたしはジャーナリストとして、一対一で、取材対象者たちと会話を交わす。相手の顔をじかに見て、声の調子、身体言語、話の内容などのすべてを読み解いていくことになる。つまりそこでは言葉を引きだすと同時に、非言語な情報も引きだしているわけで、これが会話をスムーズに進めるために、ロジック以上に大切だったりする。

人間は、言語よりも非言語な情報を重視する。非言語コミュニケーションの第一人者であるアメリカの心理学者アルバート・メラビアンにより、実はそんなセオリーがすでに立証されている。ある試験官がどのような情報から受験者を審査しているか調査を行ったところ、声の調子が40%、身体言語が50%、そして言葉はたったの10%しか合否に影響力を及ぼしていなかったという実験結果が出た。つまり人は相手の言葉そのものよりも、声のトーンや身振りから、多くのインフォメーションを得ているのだ。

こうした非言語コミュニケーションの重要性を、わたしは日々の職業生活から痛いほど理解している。だから記者会見場で登壇して、ずらっと着座した、表情的にも身体的にも無機質な人たちをまえにすると、どのようなトーンで誰にむかって会話するのが適切な姿勢なのか分からなくなってしまう。だから今日は気付いたときには、司会者の方に質問されればその人に向かって話しをし、進行役をつとめていた宮本亜門さんに質問されれば亜門さんの目をじっと見て答えていた。あとあと考えれば、目の前に100人くらい記者の方々がいるのだからそちらを見て話すべきなのに……とても無礼なヤツである。

慣れないことに挑戦するのは、怖い。でもだから発見があっておもしろい。今度こういう機会があったら、もうすこし「不特定多数にむけた会話術」をきちんと身につけてから臨もうと思う。

(July 28, 2010)

Posted by iwaki : 22:35 | Comments (0)


体内時計と脳内時計

じつに丸三日。最短時間で東周りの時差ボケをなおした。成功の秘訣はいくつかある。

ひとつはある生命科学者によるアドバイスをいかして「体内時計から」時間感覚を調整したこと。人間の体は、朝一番の陽の光や、定期的にとられる食事により、脳とはべつに細胞単位で時間が刻まれているという。だから時差ボケをなおすためには、これらの細胞くんたちを上手くだまくらかす必要がある。そんな話を聞いていたので、今回は帰国便に乗りこむかえから日本時間に時計をセットし、機内では朝食も夕食も決然と断り、体の時間をできるかぎりあいまいにした。また成田到着後も食事をとらず、陽の光にのみ細胞がアダプトできるよう二十四時間の絶食を続行。細胞が、太陽時間と食事時間のあいだで混乱をきたすことなく、体内時計の調整に全力をそそげるようにした。試みるまえは二十四時間の絶食なんてさぞきついだろうと思いきや、実際に試すと、これが不思議とさほどの空腹感を感じることなく、爽快な気分でのりきることができた。しかも成田到着後の翌日から、いつもより頭が冴えて体が軽い。体内時計時差ボケ克服法の絶大な効果に、自分でも驚いた。

そしてもうひとつ、これはまったく非科学的だけれど、時差ボケを軽くした要因があるように思う。フランスからの帰国三日後に、個人的にかなり重大な英語試験が控えていたことだ。つまり全力で脳内を、仏語から英語に切り替える必要があったのだ。

いつも不思議に思うのだけれど、個人的体感として、語学脳はピンチに陥ったときにこそ最高の能力を発揮する。今回の例でいうなら、まずはまるっきりフランス語しか通じない田舎町に行ったことで、現地で生き延びるためにへたれなフランス語をなんとか自分なりに駆使しはじめた。すると一週間後には、不思議とおおかたの言葉が聞きとれるようになっている。また簡単な会話なら交わせるようになっている。日本で半年勉強しても得られない上達が、たった一週間やそこらで実感できるのだ。そして帰国後、完全にフランス語脳になった脳の流れをむりやり逆流させ、怒濤の英語勉強を開始する。最初のうちは、渡欧前には難なく読めた英文がまったくもって頭に入らない。それでも試験日時は刻一刻と迫る。かなりのピンチである。それでもう慌てふためき朝も夜もなく必死で英文を読みつづける。するとこれまたあるとき突然、仏語方面へ注がれていた脳内の流れがぴたりと止まり、ぎぎぎと音を立てて別の水門が開門、そして英語の流れがフロウしはじめるのだ。この現象はちょっとした快楽に近く、かつ、脳内の別部位が使われる(ように非科学的だけど思える)ことで三日前にフランスにいた自分が三週間前の遠い自分に思える。結果的に、時間に対しての主観的距離が遠のくことで、時差ボケが早くなおるのだ。別の言い方をするならば、脳内時計の針を無理やり二週間分進めたともいえる。

体内からと脳内から。二つの寸法で時差ボケに対応してみたけれど、とにかくその効果は絶大だった。ジェットセッターな皆さんには、是非おすすめしたい。

(July 20, 2010)

Posted by iwaki : 00:43 | Comments (0)


会話欲と心のホメオスタシス

朝6時に太陽がのぼり、夜10時まで日が暮れない。町なかを歩けばそこここで、フランス革命劇やピノキオの人形劇といった仮装衣装に身を包んだ役者たちが陽気にねりあるいている。またプラタナスの木々が街路脇に並ぶ目貫通りをまっすぐ進んでいくと、光と音と子供のはしゃぎ声を四方八方にまきちらす驕奢なメリー・ゴ−・ラウンドが広場でぐるぐる無限ループをくりかえしている。恐ろしいほど享楽的なアヴィニヨンという町に数日間滞在していると、体と頭の時間感覚が狂ってくるのがかんじられる。簡単にいうならば、時間の持続性がないというか、すべての時が「瞬間」におとしこまれていくのがわかるのだ。

だからたとえば、日本で長期的スパンで考えていた計画などは頭からまっさきに抜け落ちていくし、下手をしたらその日一日の行動計画も脳内で整理できなくなっていく。朝、軽いめまいにうなされて目覚め、今日はなにをするのだったっけか、といったんシーツのなかで自分に問いかけないと、昨夜の自分と今日の自分の連続性が保てないのだ。なにせ、どれほど自覚的に「自分」を保とうという意志をもっていても、頭上からふりそそぐ殺人的な大湯光線がうむをいわさぬ力で理性をとっぱらおうとしてくる。だから下手をすると、欲望まるだしの下品な生き方になりさがってしまう可能性もある。その瞬間瞬間に、食べて遊んで寝て起きて。とても獣的な存在の自分になってしまう。

ただし理性的思考が停止することで、気付かされることもある。たとえば人間には、食欲、性欲、睡眠欲、といった根源欲があると言われるけれど、そのどれが自分のなかでは大きくてどれが小さいのか、それが明確にうきぼりになってくる。ちなみに私が感じたことは、さきの三大欲求以上に「会話」に対する欲求が信じられないほど大きいということ。

話の方向性のあう相手と、できるかぎり心を通わせて、会話を構築していく。刃のような陽光が頭上からふりそそぐ街にいると、人間の思考の持続性などじゅわっと蒸発して、気付くとその瞬間瞬間に感じたことを「おいしい」「たのしい」「かわいい」と獣的に言葉にしていたりする。それはそれでいいのだけれど、私は、そうした会話とも呼べない会話をつづけていくと、心のなかのよくわからない穴がどんどん膨らんでいってしまう。そしてとにかく、自分らしい会話を一刻も早くしないことには、心のなかの欠乏欲求が底なしに巨大化していく。会話への飢餓感に襲われているような感じだ。

会話欲がこれほど大きいというのは、私がとっても女的な「女」であるからかもしれない。男は言語化できないフラストレーションの闇に襲われると、自分の殻のなかでひとり答を出そうとする自立した潔い生きものだけれど、女である私は困ったことに、なにか摩擦を感じるとそれをそのつど言葉にして対話のなかで考えをねりあげていきたいと感じてしまうのだ。とはいえ、アヴィニヨンの街ではフランス語を話せないことには、そんな質の高い会話欲が充たされることはあきらかにない。しかたがないから、日本で会話につきあってくれる人々に心から「ありがとう」と感謝しつつ、いまはこうしてひとり活字化する。そうして心のホメオスタシスを保っている。

DSCF0830.JPG

DSCF0807.JPG

DSCF0831.JPG

Avignon, France
(July 10, 2010)

Posted by iwaki : 18:20 | Comments (0)


フランス特有の概念

神の作った村=Dieulefitという町をとおりぬけてアヴィニヨンに到着。灼熱の太陽と青い空と、これぞ夏という気候がつづている。パリではなくアヴィニヨンという南仏の町でアート関係の人間に取材するのは初めてなのだけれど、フランス語という言語の壁、あるいはフランス的なもののの考えかたの壁、というのがあってなかなかこつがつかめない。日本であれどこであれ、会話の流れというものはだいたい相手の言わんとしていることをどれだけ「汲めるか」で決まる。なぜならたいがいの人は自分の思っていることを、完璧に言語化なんてできないからだ。そして言葉の裏にある非言語のコミュニケーションをつかめないと、物事があまりわかっていない人、話しが通じない人、あるいは失礼な人になってしまう。いろいろと日々、微調整をしながらトライ&エラーをくりかえしているのだが。どうしてもフランスの「国家」概念やら、「ユマニテ=人間性」の概念やら、といったフランス固有の話になってくるとついていけない自分がいる。まあ勉強不足ですね。


DSCF0778.JPG

DSCF0784.JPG

DSCF0794.JPG

Drôme Provençale Region, France

(July 9, 2010)

Posted by iwaki : 16:09 | Comments (0)


美しい太陽と美しくない太腿

空港中のテレビというテレビがW杯を映し出し、そこここから折りにつけ歓声と罵声のどよめきが聞こえてくるアムステルダムの空港を経由して、パリに到着。今日は涼しくて湿気がなくて太陽がいっぱい、という一年に何日あるかという絶好の日光浴日和。これはカフェでの午後取材も気分よく進みそうだ、と朝、旬のプラムを喰らいながら期待をつのらせていたら、取材対象者のおじさんから「今週末ぐらい彼女といっしょにいないと、俺、捨てられちゃうから」というじつにフレンチオムらしい切羽詰まった連絡が入り急遽インタビューが中止に。いきなりバカンスシーズンまっただなかで観光客しかいないパリの日曜日の町中に、ぶんとひとり放りだされる。

パリの日曜日というのは、実は予想以上にすることがない。カフェくらいはあいているけれど、お店は小売店からデパートまでほぼ完全に閉まっており、劇場なんてもちろん開いていない。ただ天気だけはとにかくいいから、暗いホテルのなかにいては”日光損”な気分になる。それでしばらく思案したあげく、愛用マックをもってカフェで勉強することに。レモンジュースをちびちび飲みながら「なんだか、どこにいっても一日のすごしかたが変わらなくなってきたなぁ」と、しみじみ自分のなかの海外興奮度バロメーターの針がほぼ動かないことを実感する。とはいえこれは別に悲しいことじゃない。町がおもしろくないわけでもない。ただ自分の軸があまりブレなくなっただけ。どこにいようが勉強するし読書するし、そのあいまにわりとしょんぼり悩むし、人間観察もする。ここでもふとパソコンから目をあげたとき視界に飛び込んでくる、通りゆく真夏ファッションの若者を暢気に観察しながら「なるほどこちらの人は太ももがたくましくて、膝下が細い人が多いのか」「でもある年齢を超えると、足首が足の甲にのめりこんでくるね」なんて、ひとりごちる自分がいる。なぜか、男の子よりも女の子のほうを、いっぱい目で追っている自分にきづく。

夜、バスチーユのホテルに戻りホテルの鏡に映った自分をひさびさに全身点検。あきらかに、二ヶ月前に別のホテルで点検したときよりも足が太い。くあっ、と声にならない声をあげて目をそむけたくなる。そしてあんなに昼間パリジェンヌの足に目がいっていたのは、自分の体型の衰えを気にしはじめていたからか、と深く納得する。いくら長時間フライトで足がむくんでいるとはいえ、これはなんとかしなければ。さっそく狂ったようにスクワットと腹筋と柔軟運動を開始。また調べたところチョコレートを食べすぎるとセルライトが増えるという情報も得て、大好きなカカオ高濃度なショコラを食べることも断念。このブログも開脚姿勢で執筆中。女子高生じゃないけれど、こんなデブな足をさらして外に出たくない、といまちょっと明日から引きこもりたい気分になっている。だってせっかくのまばゆい晴光のした、醜い姿をさらしたくないもの。

(July 5, 2010)

Posted by iwaki : 01:23 | Comments (0)


日常の喜び打率をあげる

上海から帰国して一週間。すでに日々のエブリデイライフが淡々とつづいている。以前はこの盛りあがりに欠ける平坦な毎日が、刺激がたりず、冒険心に欠けて、つまらなくてしょうがなかった。だからすぐにでも、海外にとんぼ返りしたいというフラストレーションに苛まされていた。だが最近、そんなジェットセッター衝動が少しずつやわらいでいる。

もちろん今でも、海のむこうの未知の世界に飛びこむスリルは手放せない。私のなかには確実に、新奇なことへ挑戦するときだけに放出される快楽ホルモンがある。けど最近は、そうした肌が震えるようなスリリングな刺激物とは異なる、もっとやわらかで手応えのある日常の幸せがおぼろげながら分かってきた。まだ明確に言葉にはできないけれど、前者が快楽なら、後者が喜び。ある環境で、ある人たちと、とても充実した「会話」が楽しめたとき。そんなとき、海外で新奇なものを発見したときの鉄砲水が吹き出すような突発的快楽とは異なる、心にじんわりとあたたかな湖面が広がるような喜びに充たされている自分がいる。おそらくその喜びの根底には「理解できた/理解された」という感情がある。要は、コミュニケーション欲求が深部で満たされるわけだ。

ただこの種の喜びを、日々維持するためにはえらい努力が必要。たまに場外ホームランを打てるバッターになるよりも、コンスタントに3割の打率を保持できる打者になることが難しいのと同じだ。おそらくそこには相手となるピッチャーへの分析が必要だし、それに向上心、忍耐力、圧倒的分量の練習が求められるように思う。快楽はまぐれで手に入るけど、喜びには修練が必要なのだ。

なるべく充実した会話をしたい。なるべく友達と笑いあいたい。なるべく他者を喜ばせたい。なるべく埋もれた知を発見したい。とにかく、私のなかではいま日常的に無数の小さな欲がはじけて生まれては、そのいくつかが小さな喜びに変貌を遂げている。ただ、その効率がまだ悪い。まだなかには喜びに姿を変えずに、なんとなくそのまま萎えてしぼんでいってしまう花がある。だから今後の私の課題は、今のところ「ときたま」しか手に入らない日常的な喜びを、なるべく安定的に生産できるようになること。でないと私のなかにある無数の欲が、心の字余りのようになって、自分のなかに沈殿していく。

(June 20, 2010)

Posted by iwaki : 22:51 | Comments (1)


蘇州と上海のパノラマ

上海から中国新幹線で30分の距離にある蘇州は、百劇の祖と
謳われるる「昆劇」発祥の地。上海とは異なり高層ビルを建
ててはいけない規制が施行されており、数十年前までは「上
海もこうだったのかな」と思われる、水墨画の山河のごとく
広がる緑の水平線が保持されている。しかもただの土臭いイ
ナカッペ村という感じではなく、どこかこの土地ならではの
醇美な文化的風雅がただよう。堂々たる気品のある田舎、と
いういっけん矛盾した単語をくっつけて語りたくなる土地だ。

ひるがえって上海は、水平線よりも垂直線。高さ100メー
トル級の超高層ビルが4千機も林立するモダンな近代都市で
あり、人口増加のために駅前にもバス停前にも人気料理店の
前にも途絶えることのない長蛇の列。さらに車とバイクと自
転車が、それぞれの車線をほぼ無視してびゅんびゅん町を走
りぬけていく。けれどひとたび観光地化されていない裏の横
町に入ると、まだまだ上海にも、蘇州に近い田舎の憩いが残
る。一本の道、一つの区画ごとに、これほどめまぐるしく表
情が変わる町も珍しい。これはおそらく2010年の上海だ
からこそ見られる、めくるめく景観のパノラマだろう。過去
と未来、田舎と都市。時間軸と距離軸のカオティックな交差
点を形成する上海はいま、露天で買ったソフトクリームなど
を片手に愉快に闊歩するにはこれ以上なくそそられる土地だ。


Soshu_2.JPG
Suzhou


Soshu_3.JPG
Suzhou


Shanghai_3.JPG
Shanghai


Shanghai_2.JPG
Shanghai


Shanghai_4.JPG
Shanghai


Shanghai_1.JPG
Shanghai

(June 12, 2010)

Posted by iwaki : 00:18 | Comments (0)


上海、人海

上海に、初上陸。とはいえ、目的は世界何億人が注目する上海万博にあらず。まったく関係のないことで日々町なかをうろついている。そもそも万博は異常混雑状態で、上海在住のギャラリーオウナーいわく「サウジ・アラビア館なんて、なかに入るために9時間並ばなきゃいけない」。9時間も並んで見るだけの価値があるものが、この世にいったいどれだけあるんだ。けれどここの人たちは、生涯の想い出にと、かなり短気と思わしき生来の性格をこらえて並ぶ。だからいま上海の地下鉄であたりを見渡すと、あきらかに地方から家族連れだって上京してきたのだろう「おのぼりさん」がうじゃうじゃ。四十年前の大阪万博のときもこんなだったのかなぁ、とかつての日本の風景を、当時私は生まれてないけど、なんとなく思いおこしてしまう。万博やってるけど行く? 行く行く。そこに疑問の挟まる余地はなし。私が受けた印象としては、ここの人は、ある種の情報にはいっせいに乗りいっせいに同方向に動く気がする。

だから全国各地の万博目当ての中国人、どころか、モスクワからやモンゴルから下車する人々の到着ターミナルともなっている上海駅は、朝から芋をあらったような混雑。中国最大の鉄道駅であるこの発着場は、東京ドームの5倍はあろうかと思う巨大な駅で、駅正面玄関のうえには黄金の明朝体で「上海駅」の漢字がきらびやかにドドーン。上海の人は風水を非常に信じており、黄金の文字は縁起がいいためやたらと町中で見かけるのだ。(テレビCMもおよそあらゆる会社ロゴが最後に黄金色にきらーんと輝く)。そして駅正面玄関の下には、野球場入場口まえの整理レーンのような柵が長々ともうけられ、押すな押すなの大騒ぎのなか、そこから人々が怒濤の勢いでなだれこんでいく。まるで「各馬、ゲートインから一斉にスタート!」という鼻息の荒さで、何千何万という人が列車に飛び乗ろうとする。そういえば上海に着いてからいまだにいちども「エクスキューズミー」に値する中国語を町中で聞いたことがないが、いちいち言っていたらキリがないのかもしれない。

さて、この混雑、混沌、混乱のカオスが町中のいたるところで見受けられる上海だが。やはり地元の人によると、町の急激な人口増加はかなり深刻な問題らしく「人間の多さにインフラが追いついていない」のだとか。だから最近の上海地元ジョークに「北京で地下鉄に乗ると妊婦が流産するけど、上海で地下鉄に乗ると女性が妊娠する」というネタがあるらしい。あと何日か上海の、人波ならぬ人海にのまれることを楽しんで帰ろう。

(June 10, 2010)

Posted by iwaki : 20:06 | Comments (0)


「砂上の楼閣学習」を改める

人間の知能指数は、だいたい次のファクターで計測できる。論理力、計算力、空間把握力、考察力、言語力。これは何人かの子供たちが、手分けして砂場で砂山を作る作業にたとえるとわかりやすい。知能指数の高い子はまず、砂場のどのあたりにどの程度の大きさのオブジェを作るかを考え(論理力)、そして作業を何人かに分配する指令を出す(言語力)。青写真どおりの砂山を母親に連行されるまえに完成させるために、過不足なく砂や水や時間を費やす(計算力)必要もある。いざ作業がはじまったら、目標とする高さの山になるよう、そこから逆算してさらさらと崩れおちない土台を固め(考察力)、360度ぬかりなく美しい富士山のようなデザインを施していく(空間把握力)。

私は子供のころから、この砂場づくりが圧倒的に苦手だった。なぜなら、論理力、計算力、空間把握力、の大部分が欠落しており、且つ、考察力と言語力に関しても自分のなかで独自に系統立てたボキャブラリーで推し進めているため、まわりの友達となかなか作業を共有できない。「京子ちゃん、よくわかんなーい」とはよくいわれたものだ。

ただそれなりに完成度の高いものを作りたいという欲求だけはなぜか高く、途中で誰かが親切心から「穴を掘ったり」「飾り窓をつけたり」してくれると、内心激しく憤慨した。それは私のマスタープランからはかけはなれた「穴」と「窓」だったから。私なりの言語でいえば「眠れる森の美女のお姫様がいるお城に、白鷺城の窓をつけられた」ということになる。まあ相手の親切心を察知してはいたので、相手を責めるというより、ひとりで勝手に「遊びたい欲求が急激に萎える」だけなのだが。周りからしてみたら、どうしたものだかわからない。はなはだ迷惑な人間だった。

とはいえ論理的解析力の欠損から生まれたこの思考法は、歳を重ねるにつれ改善されていった。論理力のなさを、何百何千というトライ&エラーの経験値で補ってきたわけだ。だが、こと子供時代に会得した能力、たとえば自転車とか水泳とかローラースケートとか、になるとふたたび私の知能欠落病が再発する。

その最たる例が、英語、である。現在ある目標からはじめて真剣にイギリス英語を習っているのだが、英語は私が小学生のころに海外で会得した能力なため、完全に論理的知能指数が欠落したまま今に至る。例えば、私は今まで30年間、英文法というものを勉強時間が人生合計で30分くらいしかない。中学でも高校でも、英文法なんてあえて語学習得を難しくしてる不要物な気がして、不遜にも完全に無視していた。でもここにきて、そのツケがまわってきている。

私は今週初めて、比較級と最上級という英文法用語の存在を知った。happyの比較級がhappierで最上級がhappiestなんだそうで。知ってるんですよね、普通は。でも私は、英語を砂場にたとえていうなら、まったく土台固めをせずに砂山を、いやいや砂上の楼閣を作りはじてしまった人間なので、この用法を知らなかった。だから「wet」の比較級と最上級は、とまわりからすれば幼稚園児でもわかる質問をされたとき、迷わずにこう応えてみせた。ええと、もうちょっと濡れてる、ものすごく濡れてる、の英語でしょう。ああじゃあ、a little wet と totally wetだ。相手に爆笑された。さらに言うなら爆笑されてからも、説明されるまでなぜ笑われたのかわからなかった。少しエッチな言い方に聞こえたのかと勝手に思った。だって私にとってはwetterとかwettestという英語のほうが変なのだもの。使わないよ、それ。まあそんなこと言っても、負け惜しみにしか聞こえないだろうけど。

最近、知った心理学用語によると、学習には連合理論と認知理論というふたつの種類があるそうで。簡単にいうなら学習の動機付けが、外にあるか内にあるかで二分される。連合理論は、外的動機付けのアメとムチで「正解」を身につけていく方法。認知理論は、学び手の内的動機付けを高めて「答を知りたい」という欲求から学習を進める方法。日本の英語学習は、ずっと連合理論を採用していて、結果的に英語をしゃべれる人が極端に少ない。でも逆に、とても正しい文法を知っているアカデミックな学習者は多い。私はといえば、なんども繰り返すようだけれど、独自の論理系統でワガママに生きてきてしまったので、外圧でなにかを教わる連合理論での学習能力がかなり低い。だから比較級と最上級を知らないで恥をかく。まあ恥をかいてもいいんだけど、あまりに土台となる論理がなくて自分の英語力が伸びないのはとっても嫌なので、連合理論3:認知理論7ぐらいで、学習を高めていければと思う。うん。

(June 8, 2009)

Posted by iwaki : 14:33 | Comments (0)


Epidemic of Insomnia

It is said that one in five Japanese suffer from insomnia; the condition of not being able to get enough sleep or suffering from broken sleep.Yes, there are now so many stress-related physical illnesses in urban cities. Hypertension, depression, and deep anxiety just to mention a few. It is as though mental illness has become an honor for workaholics. However, it is only the Japanese who are suffering from such dire insomnia : it has suddenly become a social epidemic in this country.

The primary cause of this disease is, obviously, the acceleration of stress that mounts up on a daily basis. When you are living in a massive consumeristic city like Tokyo, you naturally and unwillingly begin to feel as productivity is the paramount in your life. Produce more and consume more, damn it. This kind of attitude is circulating in the air, and the wheel of manic consumerism goes round and round ever faster. It is as though people living in this city are obsessed by mass hysteria of speed. Consequently, when you lead a life in this city, it is tremendously hard to maintain your tempo of life. The city just tries to keep you active 24/7 and the circadian rhythm of your body could easily go off balance. Hence, you start to struggle with getting a good night sleep every day.

The other reason causing insomnia could be, the absurd amount of light and sound flooding this city. It is clearly indicated by scientists that an average convenient store in Japan exposes your body to 2000 lux of light, which is roughly the same as a cloudy day. Naturally, when we enter those brightly lighten shops, our brain assumes as if it is still daytime and keeps on moving. Although in my vision, I think the effect of sound pollution in this city is more serious. When I am guiding along somebody who came from a European country, everyone gives a bizarre look at people shouting in front of drugstores or fashion shops and asks me why.To be quite frank, I don't know the reason either but I know for sure that it is dispersing significant amount of discomfort and stressor to everyone around. You could get a serious migraine just by walking down the streets,

In short, Tokyo is not a place to make a life but a place to make a living. This monstrous economic megalopolis keeps operating for 24 hours, and humans living here are forced to adapt their body and mind to the sleepless city.

*Scientists and bed manufacturer unite for better sleep. Maybe this ' future bed' could be an ultimate remedy. >>> http://www.independent.co.uk/life-style/health-and-families/

(June 4, 2010)

Posted by iwaki : 01:22 | Comments (0)


やさしい私のロボ彼氏

「いつか裏切る可能性のある恋人といるぐらいなら、ロボットの彼氏/彼女といるほうがいい」。ロボット工学を研究している大学の生徒さんたちから、こんな意見を聞いた。研究者の卵である彼らのいいぶんはいたってシンプル。人の感情は「不透明すぎる」。あまりにも感情回路が複雑で、あまりにも諸条件により答が変わるため、信頼するにはリスクが大きすぎる。それに信頼して傷つきでもしたら、バカをみるのは自分でしょ。だったら永久不変の関係性がプログラミングされているロボット恋人といるほうが、圧倒的に「ラクちん」。

たしかに恋愛関係ほど先読みできないものはない。仕事のようにクリアな利害関係や、家族のように断ち切れない血縁関係がそこにはないため、いつなんどきその絆は失われてしまうかわからない。いやそもそも最初から最後まで、絆があるかどうかもわからない。だから一寸先は闇ではないけれど、気分はいつでもジェットコースター。時速100キロで火の輪くぐりの浮き沈みをくりかえす。ただ個人的には(もちろん五年たっても、時速100キロだったらやってられないけど)ほどよく制御不能な不安状態におかれることこそが、恋愛関係のスリルだと思う。というか人間関係全般における、スリリングな楽しみだと思う。

人は、大切な人がなにを考えているのかわからないから頭を悩ませる。恋人がなにをして欲しいのかわからないから眠れなくなる。その不安で複雑でごりごりとした「摩擦感」こそが、人を成長させる。自分がどんな行動に出ても「はいはい」と受けいれられた日には、たしかにラクちんだろうけど、おおかたの人はそのうち思考停止してぼんやり呆けてしまうように思う。

ひとつハッキリさせておくべきは、無条件の愛と無償の愛は、ぜんぜん別ものだということだ。わたしの独断で解説するなら、前者はパッシブで後者はアクティブ。前者は「妥協」で後者は「許容」。そして大学生たちが近未来のロボット恋人に求めているものは、前者のように思う。どんな状態の自分であっても、それで万事オールオッケー。これはあきらかに、よりよくなろうとする関係性への妥協であり、よりよくなろうとする自分への妥協であもる。とはいえいまの学生さんたちは、世代として、そんな手厳しいことを考えなたくないのかも。イージーで、ハッピーで、ナイスな関係ならそれでいいのかもしれない。

話がそれるが、ここ十年ほど日本では「個性教育」というものがやたら取りざたされている。「個性をみせろ、個性をだせ」。そんなことを教師に叫ばれつづけた結果、自分のなかに完全体の「個性の塊」ような物体がひそんでいると信じている若者が激増している。(だから彼らにしてみれば「キャラだちが濃い」ことは、なによりの褒め言葉なのだという。) これも俯瞰した目でみれば「無条件に私を認めて願望」を助長する流れのように思える。

無償の愛は、そんなラクちんなんものじゃない。はじまりは瞬間でも、その瞬間に「えいや」と自分を賭けたあとには、妥協とは正反対のガチンコ努力が待ちうけている。相手と溶けあうようにやわらかな感情を保ちつつ、同時に冷静に観察する。そして、まっすぐに相手を見つめて日々の変化に対応する。言葉にするとものすごくカンタンだけど、これがじつはただごとでないほど難関。刻一刻と変化する氷の彫刻と向きあっているようなもので、油断して放置したとたんすべては消えてなくなってしまう。以前取材したジュリエット・ビノシュは「世界平和を達成するより難しいかもしれないわね」と微笑んでいたけれど、確かにそうかもしれない。

ちなみに最近読んだ心理学書によると、無償の愛、またの名を「受容的で共感的な人間関係」は人格がすこやかに成長していくための原点になるのだという。その人といっしょにいると、みるみる話したいことがいっぱい出てきて、みるみる心が豊かになる。そんな関係性を人生の初期段階で築けるか否かで、その人ののちの生き方が大きく変わってくるのだという。ただのいちどもこの「無償感」を味わったことがない子供は、人を容易に信頼せず、人にたいして防衛的になる。そして猜疑心から傷つくのを恐れて、歳を重ねるにつれどんどん閉じていく。もしかすると現代の若者たちは、家族や恋人から「無償の愛」を受けたことがないために、ロボットに「無条件の愛」を求めるようになったのかもしれない。

記憶力、一貫性、処理速度。ロボットは人間の足りない能力を補うために開発される。ぐうたらで愚痴ばかりでセックスも退屈なうちの旦那より、やさしいブラピ似のアンドロイドのほうが百倍いいという意見が出てくるのもおかしくはない。でも個人的には、願いとして、人間よりもロボットのほうが「愛する能力がある」と思われる時代だけはきてほしくない。


(May 16, 2010)

Posted by iwaki : 19:15 | Comments (0)


地球に無智の「赤っ恥」

告白しよう。環境問題というものにあまり問題意識をもたずに生きてきた。こんなに飛行機に乗りまくっているにも関わらず、だ。たしかにアル・ゴアの『不都合な真実』やジェームズ・キャメロンの『アバター』をなんとなぁく見ては、それにまつわるサイトや書籍をなんとなぁくチラ見することはあった。あるいは海外に行くたびに「エコ・タックス(環境税)についてどう思うか」とか「カーボン・クレジット(炭素クレジット)って胡散臭くないか」とか、雑談で質問をふられ、そうかそうかそういうことを普段から考えねばならないのか、とその瞬間には反省するものの、帰国するころにはむにゃむにゃと意識のかなたに消えうせていくのがおちだった。それもこれもどこかで、今日や明日にさしせまった問題だとは思っていなかったからだ。だがどうやら、暗雲はすぐそこまで迫ってきているらしい。早急に治療をほどこさねば、地球が余命宣告される日も遠くはない。

環境問題に対して、目から鱗な知見ををわたしに与えてくれたのは、ヤン=アルテュス・ベルトラン監督による『HOME』というドキュメンタリー映画。ご存じのかたも多いと思うが、これは世界88カ国で無料上映され、現在はYoutubeでも見ることができる90分の美しい映像だ。昨日、わたしはこの映画を初めて目にし、見終えたあと本気で「もしかすると自分の子供世代が、地球上で最後の子孫になるかもしれない」と怖気を覚えた。嘘ではなく、地球は病みはじめている。いや、実はもうかなり手遅れなほど重病で、早々に手をほどこさねば危うい状態にある。時限爆弾のタイムリミットは、なんと10年。そのあいだになにか大きな治療策を思いつかねば、地球からのしっぺがえしで傲慢な人類は滅びるのだ。

----------------------------------------------------------------------------------------------------------------
地球はたった50年のあいだに、それまでの40臆年よりも巨大な変化を遂げた。
地球はたった60年のあいだに、人口が3倍にふくれあがった。
地球の氷極は、このままいけば20年後になくなる。
地球に生存する種は、一般予測よりも1000倍速く絶滅している。
地球にある漁場の3/4では、すでに魚がほとんど獲れない。
地球で暮らす10億もの人々が、すでに飢えに苦しんでいる。
(飢餓者の増加に反比例して富裕者数はしぼられる。全人口の2%が富を独占する)
地球にいる2000万人の環境難民は、40年後には約10倍の2億5千万人になる。
----------------------------------------------------------------------------------------------------------------

こうしてデータの羅列をみて「それって、科学者がペシミスティックなだけでしょう」と一笑に付すことはできる。わたしもいままでどこかでそうしてきた。だけどベルトラン監督いわく「地球にはもうペシミスティックになって嘆いている暇はない」らしい。嘆く時間があるなら、少しでも行動しろ。下手に不安になりすぎてパニックになる必要もないけれど、とにかく確実に行動に移していかねばならないのだ。

もちろん人間には変化する力がある。本気で変わることのできる能力がある。そうした人間のどこんじょう蛙な底力を実証するように、以下のような成功例が世界中から聞こえてくる。

「ドイツのフライブルク市では5000人の住民が、世界初の100%エコな街に暮らしている」
「デンマークでは、風力発電により国内の電力の20%を担っている」
「韓国では、いちど焦土になった森林の7割が復活した」

ほらね。やろうと思えば、今からだって遅くはないのだ。だが東京ではいまだに「地球が瀕死の状態にある」という常識は、ほとんどの人々のなかにない。だからいまだにポリ袋が湯水のごとく利用されている。(この"湯水のごとく"というたとえにしても、そのうち使われなくなるだろう。水が純金よりも高価になる可能性はあるのだから)。夜になっても蛍光灯の光がコンビニから消えることはない。衣服や食料は、自分たちが使いきれず食べきれないほど消費されている。環境税の導入も、なんだか経団連などの反対で実現しそうにない。

今日、近所のママさんたちが喫茶店のテラス席でひなたぼっこをしていた。そして「子供の給食費」や「だんなの低収入」や「学校の先生の教養のなさ」などについて、眉根をよせて話しあっていた。たしかにそれはそれで問題だとは思う。けど世界はいま、ひとりひとりがもう少し俯瞰した視座に立ち、地球市民として、生き方を変えねばならない時期にきている。こういう大げさな言い方をすると、なんだおまえきれいごとばっか言いやがってよぉ、と世人の反感を買いそうだが。だってもう、本気でやばいんだからさ。子供の学校問題を話すなら、算数とか国語とかのあいまに「『環境』っていう課目を導入したらどう?」とかじゃんじゃん議論したほうがいいかもしれない。私自身、自分の生きる場所、地球についてあまりに無智であったことに、赤っ恥。

『HOME』は日本国内では一日しか上映されませんでした。是非Youtubeを見てください。
英語版ですが、航空写真家でもあるベルトラン監督の切りとる絵は力強く言語不要です。
>>> http://www.youtube.com/homeproject?

yann-arthus-bertrand-home-439138.jpg
氷床が溶けた北極

Home-Yann-Arthus-Bertrand-006.jpg
独フライブルク市のソーラーハウス

Home-Yann-Arthus-Bertrand-004.jpg
マリのニジェール川沿いの貧村

(March 13, 2010)

Posted by iwaki : 20:56 | Comments (0)


怠け者のススメ

時間とお金、どっちが大事。東京で暮らしていると、そんな二者択一が頭に浮かんでくる。

たとえば一日ゆったりと気のおけない友人と時間を過ごそうと思ったら、食事をするにも、カフェに入るにも、それなりに財布に負担がかかる。カフェ一杯を手に日だまりでぬくぬくしていたいと願っても、たいがい、二時間もいたら店員に冷ややかに睨まれてしまう。だからといって、自宅に人を招いてパーティーをしようと企画しても、そんな空間的余裕はこの人口過密国ではいちぶの金持ちにしか許されない。もしかすると近い将来、この狭い狭い大都市では、くつろぎ空間は「金で買わなくてはならない」ようになるかもしれない。

でもだからといって、一円一銭なるべく稼ぐために寸暇を惜しんで働くような人生は送りたくない。人それぞれの価値観にもよるだろうが、私にとっての仕事とは、人生においてプライマリーではなくセカンダリーな要素。もちろんそれで仕事の手を抜くわけではなく、日々こつこつと武器磨きに勤しみ完璧なプロフェッショナリズムを追求するわけだが、仕事が恋人です、仕事が愛です、仕事が人生のすべてですという無条件な溺愛感情はない。自分の能力をできるかぎり社会に役立てて貢献し、それそのものに意義を感じ、またその見返りで充実したプライベートを送る。これが私の望む生き方。だから忙しいのはありがたいことだけど、仕事の予定で自由時間がすべて抹殺されてしまったら、元も子もないのである。

最近、ミヒャエル・エンデの『モモ』を読み返していて、とても印象深いフレーズに遭遇した。あるときから一分一秒のむだもなく、仕事効率をあげることに人生の重きおきはじめた大人たち。そうして仕事人間が増大していく街を称して、エンデは次のように書いている。

「ここではなにもかも正確に計算され、計画されていて、一センチのむだも、一秒のむだもないからです。時間をケチケチすることで、本当はぜんぜんべつのなにかをケチケチしているということには、だれひとり気がついていないようでした。じぶんたちの生活が日ごとにまずしくなり、日ごとに画一的になり、日ごとに冷たくなっていることを、だれひとりみとめようとはしませんでした。(略) けれど時間とは、生きるということそのものなのです。人間が時間を節約すればするほど、生活はやせほそっていくのです」

私も含めた都会人にとっては耳の痛いこの言葉は、時間に対してのひとつの真実を言い当てている。個人的な体験にふりかえて考えてみれば、容易にわかるだろう。「ああ、今日は充実した一日だったなぁ」とふくふくとした笑顔を浮かべて寝床に入ることができるとき。そんな一日はおそらく、あまり腕時計に目をやることがなかった一日ではないだろうか? つまり人は時間を有効に生きるためには、時間の奴隷になってはだめなのだ。

せかせか働き、けちけち暮らし、生産性や仕事効率をいくらあげても、人生に対しての充実感は得られない。それはいま経済不況に陥ったときに、キャピタリズム至上主義な方針で生きてきた国民の表情が鬱々としているのを見ればよくわかる。経済で得られる幸せは、末節的な快楽であり本質的な喜びではない。

だから、私はここであえて「怠け指南」を唱えたい。真面目な日本人にはこれは背徳的なススメに思えるかもしれないけれど、朝から晩まで計算された規律生活に対してささやかな謀反を起こしてみることをお薦めしたい。営業の外まわりのあいまに10分ベンチで惚けてみる、いつものランチタイムを15分伸ばしてみる、上司の監視の目をのがれて恋人に5分電話してみる。つまりは完璧な仕事人間であるまえに、弱さのあるひとりの人間であることを認めるようにする。そしてそれを、互いに笑いあって許容する。そんな愛すべき怠け者たちが社会に増えていったら、東京のかつかつできつきつな灰色空気もほんのりお茶目に色づいて、もうすこし人生がふっくらとするかもしれない。

(May 8, 2010)

Posted by iwaki : 02:27 | Comments (0)


思いきりセンチメンタル

何処にいるかではなく誰と一緒にいるかで、世界が変わる。そんなあたりまえのことを、ここ数日まざまざと実感している。パリに来るのはこれで何度目になるかわからないけれど、今回はいままでにない理由でここに来て、いままでにない世界に意図せずしてはめこまれている。風景は同じでも人が違うと、これほどまでに空気の色あいが、温もりが、時間感覚が変わってしまうのか。その事実を正面からつきつけられ、ただただぼんやり、ため息まじりに夕空を眺める。私が今まで生きていた世界は、この初夏の空のどこに消失してしまったのだろう。この季節のパリの夕空はもっと淡く甘く切なく、罪なく美しかったはずなのに。

(May 5, 2010)

Posted by iwaki : 08:40 | Comments (0)


Urgernt International Call

+33. You look at the number on your cell-phone and get a bit bewildered. It is two in the morning, I am in my yoga pants-turned-pyjamas, and somebody is trying to wake up my half-asleep head en Français. For a moment, you try to decipher the +33 code, wondering who might be at the other end of the line; but whoever and ever it may be, a trunk-call at this time of night should have some exceptional reason. Sign of bad news, a calamity maybe.

“Moshi-moshi,” I answer in a dim sleepy voice, trying to put on a good spirited face in failure. No response. Once again answering, this time in clumsy French “Allo?” There is a second of pause, then I hear some cluttering noise of plates and glasses, calling from a café presumably, followed by a faint voice in Japanese. It happened to be Mr.O, a longtime artist acquaintance who I owe much respect. First he politely apologized for calling this late at night, and afterwards, apropos of nothing, he asked me if I could hop on the Air France plane, day after tomorrow, to come see his performance in Paris. Also acting fast in advance, he had already booked and arranged everything I will need for the trip.

Astonished by this far too generous and a bit urgent offer, I just answered with a simple “Yes,” and like that, with a snap of a finger, I am off to fly a thousands miles just to spend three nights in Paris. Since it was a week after I had mournfully given up my plan to visiting the European countries for the holidays, I felt blessed, and honestly at the same time a little unnerved.

My life has been going through turmoil for the past several years, and it seems that the ups-and-downs are going to continue for some time more. Well, no risk no life, and living a life of nine-to-five might be too pedestrian for me anyway. So two days of hectic packing, preparing, and finishing up my cramped assignments in Tokyo, I am right now at the airport's tranquil sky lounge with a cup of cappuccino aside, waiting for the delayed plane to fly. Unseemingly feeling, relaxed and calm.

*先日ここに書いたように英語学習をつづけています。その関係で初の英文ブログです。

(May 2, 2010)

Posted by iwaki : 10:35 | Comments (0)


Kindle英語学習

わけあって英語学習をはじめた。おまえしゃべれるじゃないか、と思れるむきのかたもいるだろうが、私の「しゃべれる」はぼんくらな日常会話である。婉曲表現や専門用語を駆使して、スマートに大人な議論をかわせるほどの英語力ではない。いうなれば私のはネイティブの学生レベルの英語で、そのまましゃべるとたいがい子供扱いされてなめられる。それでまあ、ひとつぐらい自分の武器を完璧に磨き上げようじゃないかと思い勉強をはじめることにした。

ちなみに私の勉強法は、以前にもすこしここに書いたが完全に実戦型である。英語でニュースを見る、英文サイトを読む、日常的な読みもののほとんどを英語にする。とにかく、頭のなかでぶつぶつつぶやく独り言さえ英語になるぐらい日常を英語漬けにする。時間を区切りロジカルに文法を構築しながらこつこつ勉強していく、という方法論のほうが効率が良いのだろうが、自分にはそれが不向きなことを知っている。だからとにかく傷だらけになりながらも体当たりの実戦学習である。

さてそんな学習の日々に、とても役だつツールがあ。Kindleだ。夜寝る直前に読んだことは、記憶中枢に蓄積されるとなにかの情報で聞いて、毎晩床につくまえに英文を読んでいるのだが、このとき紙の本ではなくなるべくKindleで読む。するとわからない単語があればすぐにパソコンで辞書検索できるし、関連性のある情報はWikipediaなどで調べることができる、また続編を読みたいと思えば、すぐにAmazonからダウンロードして読みすすめられるので、とても快適な学習ツールなのだ。日本でも早くすべての書籍が電子化されればいいのに、と思ってしまう。

ただKindle学習で気をつけなければいけないのは、すぐに興味が脱線すること。先日などある小説の一節にバッハのパルティータについて描写するくだりがあり、そこからパルティータってなんだと検索し、その音楽を聴くためにYoutubeに飛び、そこでグレン・グールドのとんでもない演奏にぶつかり、その後小一時間にわたりグールドのバッハ演奏をYoutubeで聴きつづけてしまった。はた、と気づいたときには英語学習ではなく音楽鑑賞に走っている。こりゃいけない、と思いその後、とりあえずNY Timesのレファレンスサイトで、グールドのレビュー記事を読んだりしてみた。が、そのときにはすでに夜中の二時で頭がおねむで英語についていかない。果たして脱線する好奇心を制御するべきかいなか、他人にはどうでもいいことだろうけど、個人的にはいま本当に悩んでいる。

(April 25, 2010)

Posted by iwaki : 12:04 | Comments (0)


パリ・メモランダム

「ところであなた、フランスで何見て来たの?」と、このところしばし人に訊ねられる。なのでとりあえず備忘録兼公開レポートとして、見て来たもののいくつかをリストアップ。詳しい感想などは後日つけたすとして、データ情報だけでも先に参考にしていただければ。


(1) MEMBROS / MEDO @ La Vilette
ブラジル出身のコンテンポラリー・ヒップホップ・グループ「MEMBROS」による最新作。母国のストリートにおける性暴力事情を題材にとる、かなり過激でポリティカルな作品。開幕と同時にひとりの女性が男性群にいきなりだだだっと襲われて、素っぱだかに服を剥ぎとられる。その横では青姦がはじまるは、男性がマスタベーションをはじめるは。最後には、女の服装とメイクを身につけた男性が、つまりは「女性性」をまとった男性が、凶暴な女集団に暴行をうける。ダンスとういより肉体表現として、獣のような欲求が(演出的には逆にわりとクレバーに)体現されていておもしろい作品。

16-03-2010-53141-1.jpg


(2) Claudia Castellucci / HOMO TURBAE @ Maison des Arts de Créteil
日本でも近年上演作がつづいて話題の演出家ロメオ・カステルッチのお姉さん、クラウディアによるダンス作品。エドガー・アラン・ポーの小説『群衆の人』を題材にとる。ダンスではなくイタリア語の「Ballo」(より空間性を考慮にいれた舞踊)を舞台上に生み出すというコンセプトらしく、様々な民族舞踊(アイリッシュ、ターキッシュ、ジャパニーズ)とミサを融合させたような、年代も国籍も不明な宗教儀式のごとき舞が薄暗闇のなか淡々と続く。

event_142_image_1_.jpg


(3) Philippe Quesne / L' EFFET DE SERGE @ Centre Pompidou
セルジュという名のフランス版だめ男ーー卓球台での晩酌と、ラジコン遊びと、ピザの宅配しか楽しみがないようなだめ男が、毎週日曜日に近所の人を自宅にあつめては、超アナログ仕掛けの脱力ショーを次々にみせる。たとえば、窓の外に止まる自家用車のヘッドライトを、ワーグナーの「ワルキューレの騎行」にシンクロさせてただ点灯させたりとか。平凡な日常のなかにひそむ演劇性を実験的にさぐる、英国のForced Entertainmentとかとちょっと似た作品。

2849398777_285f630b1a.jpg


(4) Yoji Sakate / LE GRENIER @ Thèåtre du Rond Point
坂手洋二作『屋根裏』の仏版。演出Jacques Osinski。キャストを8人に簡易化し、スピード感も若干減速。駒のようにきびきび動く体が登場した日本人版では、役者の匿名性が際立ち、それがひとり何役も演じる作品の特異性にうまくマッチしていたが、フランス版ではあくまでも8人の役者それぞれの顔が見えてくる。(とはいえ、さほど個性際立つ役者たちでもないのだけれど)。日本の集団プレーに、フランスの個人プレー。お国柄が見える。

redim_proportionnel_photo.jpg

(April 15, 2010)

Posted by iwaki : 00:02 | Comments (0)


花見の色彩

日本の桜は、この時期特有の青空にとてもにあう。手つかずの早朝の湖面のような水色にのる、やわらかな桜色。そしてちらほらと顔をあらわす、あどけない新芽の緑。淀みのない水彩画が、あたたかな光をあびて輝いている。お堀沿いの大学では新入生をむかえるサークルの呼び込み声がにぎやかに響き、川べりのボートには学生カップルが浮かぶ。たわいもない話しでクスクスと笑いあう、彼らのはしゃぎ声が聞こえてきそう。空をみあげれば、幼稚園児がクレヨンをつかんで描いたような飛行機雲。景色のすべてが陽気でのんき。


DSCF0711.JPG


DSCF0706_2.JPG


DSCF0704_2.JPG

(April 9, 2010)

Posted by iwaki : 23:57 | Comments (1)


完全精度の人工物

日本に帰国して、そのまま荷もほどかずに仕事場に直行。自分がいかに、のほほーんと野放図に、ネイチャーな大樹のように、外国で生きていたかを実感する。「日本の仕事場では、人は神じゃなきゃいけないんだから」とある人に言われたことに深々と納得がいく。それぐらい、みんな一点の濁りもなく完璧な仕事人間。まあ、そうじゃない人もいるけどね。基本的にはとってもまじめ。いきなり四角い鉢植えのなかに盆栽として植え込まれてしまったかのように思えて、少し肩が凝る。わたしも基本的には数年前まで、この日本型まじめ人間だったので、その精巧な腕時計のような感覚にたやすく染まることもできる。でもそうすると、じつは仕事の要領が悪くなることも最近知った。融通が利かなくて、まわりの人との衝突も多い。だからもっとリラックスして、視野を広くして、呼吸して、生きていく。そっちのほうが案外、長時間自分をたもったまま仕事にむかえる気がする。自分たちは仕事人間であるまえに人間である、この大前提を忘れずに。だから、今月のわたしの課題は自分をよくみせるために取りつくろうのはよすこと。そうしないとこの完全精度の人工物である東京の街のように、自分も人工物になってしまう。うん。

(April 5, 2010)

Posted by iwaki : 23:24 | Comments (0)


混沌社会ビセートルと自由権

パリ郊外のクラムラン・ビセートルという町で暮らしている。
かつてマルキ・ド・サドが入院したことで有名なビセートル大病院が近くにあり、アパルトマンのテラスからは、ラジオロジー(放射線学)やカーディオロジー(心臓学)などの専門学校がみえる。サン・ジェルマン・デプレやシャンゼリゼの華やぎこそがパリだと思っている人からすると、おそらくここはまったくの別国。週末に近所の大通りにならぶマルシェをそぞろ歩いていても、白い肌の人にはほぼ出くわさない。辺り一帯にはクミンやらサフランやらカレーやら、さまざまな国のさまざまな香辛料の匂いがフンプンと漂い、それら商品にキャラメル色からダークチョコレート色の肌の人々が次々に手をのばしていく。

露天商たちが売りさばくものも、日本では見たこともない食材が多い。アフリカホウレンソウ、カボチャの葉、ピンク色の塩。ちなみに今日の夕食は、マルシェで2尾4ユーロで購入したティラピアのソテー。この魚、アフリカでは日常的に食す廉価な淡水魚だと聞くから、日本で言うところのサンマのようなものか。となると日本人が紅葉の季節が近づくと「そろそろサンマのおいしい頃だわねぇ」と顔をほころばすのと同じように、アフリカの人は「そろそろティラピアに脂がのる季節だぞ」とほくほくするのだろうか。個人的には全然ホッとできない味だったけれど。

さて、日々こんなカオス渦巻く町で生活していると、フランスの「自由」について考えさせられる。誰もが知るようにこの国は「リベルテ(自由)、エガリテ(平等)、フラテルニテ(友愛)」を、人間の基本的人権として掲げ、またこの並び順にそって、リベルテをもっとも重んじるといわれている。フランス人権宣言には「自由とは、他人を害しない全てのことをなし得ることである」と明解に記されており、人々はこの宣言どおり、あるいは「他人を害しない」という一文を無視しかねない勢いで、個人の自由を謳歌している。

真っ昼間からガードレールに腰かけ、なにをするわけでもなく日がな一日、会話を楽しむアラブ人たち。警察がすっ飛んできて(ちなみにこちらの警察はローラーブレードやマウンテンバイクでもパトロールする)、「君たち、そこからどきなさい」なんて注意することはない。地下鉄のなかでいきなり、バイオリンのフィドル演奏をはじめる東欧系のおっさん。わたしはいまだに「うるさい、やめろ!」と文句を叫ぶパリ市民を見たことがない。(あまりに日常的行為で、言ってもきりがないとあきらめているだけかもしれないけど)。あるいは先日は駅のホームで、点滴針を腕に刺し、かつ点滴スタンドをがらがらと転がしながら、妻とおぼしき女性とともに地下鉄に乗りこむアフリカ系男性を目にした。あまりのことに私は唖然としたが、周囲の人々はさほど驚いているようにはみえない。点滴スタンドを持って地下鉄に乗っても、他人に害が及ばなければ、それは個人の自由なのだろう。

いうまでもなく日本国憲法でも自由権は保障されている。けれどもニッポンでは「国家が付与する自由権」よりも「世間の目による自主規制」のほうが、人々の意識に強くはたらいているように思えるの、ことがある。

たとえば知人と、羽田空港で待ち合わせしたときのこと。朝寝坊した私は、朝食を家でとる時間をなくし、キオスクで買ったあんぱんをモグモグとつまみながら待ち合わせ場所に向かった。すると知人は私の様子に気づくやあきらめに近い笑みをうかべ「あなたは外人だわね」とつぶやいた。その後、彼女は私のことをつねに日本人ではなく異邦人扱いする。あんぱんを食べながら、たとえば総理大臣に会いに行ったら、それはまあ確かに無礼かもしれないけれど。それなりに知っている人間と会うのなら、それは個人の自由なんじゃないの? と、ちょっと心が窮屈になった瞬間だった。そんなちいちゃな「窮屈」を、日本にいるとよく感じる。

もちろん、日本人のこうした自主規制は美点でもある。誰もがちょっとずつ窮屈さに耐えているからこそ、あれだけの秩序社会が成りたっているのだ。これは日本社会ならではのすばらしさだ。でも、でもでも、やっぱり個人的には、秩序・協調性・均質さよりも、カオス・独立性・多様さを、好んでしまう。フランスの自由で個人主義でカオティックな空気に染まって暮らしていると「なんだか、らくちんだなぁ」と意味もなくなごんでいる自分がいる。年単位でこちらに住んで、この気楽さに安住してしまったら、それこそ日本社会に日本人として帰国できなくなってしまいそうで……怖い。

追記:そんな「自由」にまつわるいろいろを、フランス在住歴ウン十年の日本人女性と話していたら、フランスには「表現の自由」があると同時に「ユーモアの権利」もあるのだという情報を得た。なるほど、ユーモアが国によって保障されているのか。これはこれでオモシロい考察が書けそうなので、また別の機会に。

(March 31, 2010)

Posted by iwaki : 07:04 | Comments (0)


論理力の壁

人にはそれぞれ欠点がある。わたしのそのひとつは論理力だ。こうして文章を書いていても、人と話をしていても、哀しくなるほどロジックが足りない。それで活字をまえにして、思考の筆がA点からB点にスムーズに進まずいらいらしたり、あるいは対話者をまえにして、自己流の感覚でしか語ることができず(ゆえに相手にうまく話の筋道を説明できず)その会話の雑さに自分でへきえきしたりする。なぜ、こんなに論理力が欠けちまった人間になったのか、最近よくよく考える。というか、悩む。

まずひとつ原因として考えられるのは、自分の思考や感情をアウトプットする訓練をさほどしてこなかったことだ。ふわんふわんと浮かんでは消える思考の切片が頭のなかに漂うにまかせ、そこにあえて筋道をもたせて人に語ることをしてこなかった。またさらに、わたしは論理人間ではなく感覚人間だから、と開き直っていた面もあるように思う。これはひとえに自分に対しての甘さだ。で、ここにきて、そのつけがまわってきている。クリエイティブなものであれジャーナリスティックなものであれ、あきらかに論理力がない読みものは読みづらいし、さらにいえば論理の明解でない文章は美しくない。また海外に来ると会話も、日本人同士のようになあなあな理解ですむことがないため、ロジックをきちんとゼロから伝えていかないと、相手の頭のなかに「???」とはてなマークがいっぱい浮かぶことになる。そして、変なアジア人として処理されてしまう。だからいまのわたしは、喉から手が出るほど繊細でストロングな論理力が欲しい。

それに今後、三十代、四十代と人生経験をつみかさねていくうえでも、論理力が、なによりものを言う気がする。系統だった知識も、誠実な思想も、わかったふりして間柄を過信せずつねに刷新していけるような人間関係も、論理力がないことにはきちんと構築していけない。トライ&エラーがぶれるのだ。謙虚な観察にもとづく論理力を培えれば、ぶきっちょな感覚だけでは突破できないさまざまな壁を越えられるように思う。とにかく能力不足は能力不足として認めたうえで、日々反省を重ねつつ、こつこつトレーニングするのみだ。

(March 30, 2010)

Posted by iwaki : 06:20 | Comments (0)


ナンパ師と世界の救世主

パリの街をたびたび訪れるようになり、世界にある千差万別なナンパ方法を知った。「お茶をしませんか」なんていうナンパ目的ばればれな言葉をかけてくる未熟男はこの街にはいない。できるかぎりナンパ目的であることを、ターゲットに最後まで気づかれぬために、あの手この手で仕掛けてくる。もっともベーシックな手口は、なにか「困ったふり」をして話しかけてくる輩である。今日もメトロの駅でNAVIGOというパスモのようなカードをリチャージしていたら「すみません」と、もっさい小熊のような見てくれに、どこの国のチームだかもわからぬサッカージャージをまとった白人男性が話しかけてきた。
「すみません、ランビュトー駅に行くにはどうすればいいのでしょう」
「ああ、ランビュトーだったらプラース・ディタリーで乗り換えて……」と道順を説明していたら、その男は失礼にも会話の途中で別の質問を投げかけてきた。
「その赤いタイツいいですね、ランビュトー駅の近くで売ってるんじゃないですか?」
「は?」
「どこで買ったんですか、友人へのプレゼントにしたいんですが」
「はあ」
「もしお店を知っているようだったら、いっしょに行ってくれませんか。僕は地方から出てきたばかりで、パリには不案内なんです」
ここではたと気づく。こいつは困ってなんかいない、と。あるいは現に困っていたとしても、地方から都会に出てきて、独りで寂しいということに困っているだけなのだと。そもそも本当に買い物に困っていたら、もっと見るからにフランス人っぽい人間に話しかけるはずである。アジア人のフランス語がからっきしわからぬ女に話しかけている時点で、この小熊男の放つメッセージは「ヘルプ」ではなく「ナンバ」である。

もうひとつ手口として多いのが「日本好き」をよそおう輩である。いまはちょうどポンピドゥー・センターで『北野武レトロスペクティブ』を開催していることもあり、日本人だ、と言うたびに「キタノ、キタノ」と口走る男が多い。ただ本当に力の入った日本好きの手あいもいて「クロサワ、オヅ、ミゾグチ」といった大御所だけでなく「石井聰亙、是枝裕和、三池崇史」なんかの名前もだしてきたりする。それらの名前に「うんうん」とおざなりに肯いていると「隣駅にメゾン・ド・ラ・クルチュール・ドュ・ジャポンがあるから、いっしょに行こう、おもしろいよ」といってにこやかにバイクのメットを手わたして二人乗りをすすめてきたりする。あの、あなたにはほんの五分前にこのカフェで出会ったばかりなのだけど、と気の弱い日本人気質なわたしはそこで身を引いてしまう。

とまあ、かなり奇妙なナンパ師が入り乱れるパリの街だが、今日、ラファイエットからの帰路に話しかけてきた男は群を抜いてぶっとんでいた。最初は彼もお約束通り、困ったふり。まずは道を尋ねて来て、その後に「学生ですか」「フランスにはなぜ来ているんですか」とあたりさわりのない質問を続けていく。私もそのころには彼の目的に気づき、ああもう面倒くさい、無視をして巻いてやろう、と思いはじめていた……。のだが、そのとき、写真家見習いで、モデル見習いで、僕はサイモンという名だ、とひととおりの自己紹介をすでに終えていた彼は、予想外の言葉を吐いてきた。「僕の隠されたミッションは世界を救うことなんです。いっしょに世界を救いませんか」。目が点になるわたし。新手の宗教の勧誘か。

見たところは、小ぎれいななりをしたお坊ちゃんタイプのフランス人。ポール・スミスのジャケットなどを羽織っており、外見からはどこぞの不思議くんのようには思えない。おそらく「壺を買いませんか」と言ってくるようなこともないだろう。と、危険がないことをさとり、好奇心をそそられたわたしは、同じ方向の地下鉄に彼が乗りこんできたことをいいことに「なぜ世界を救いたいんだ」「なぜ自分が救えると思うんだ」と、いろいろと質問をしかえしてみた。するとサイモンくんは、訳がわからぬながらも彼なりに理の通る答をするすると返してきた。
「僕は民主主義というものは信じない。この政治システムが世界を崩壊にみちびいている。ぼくは立憲君主制の時代に世界は戻るべきだと考えていて、そのために自分ができることは(省略)……つまりは、あなたと僕が電話番号を交換して世界に立ち向かうことなんだ!」
下手に知識武装しているぶん、最後の一文が爆笑ものなオチに聞こえてくるスピーチ。そんな言辞を彼は大まじめに熱心に説いてきた。だが三分たち、五分たち、さすがに私がにやにやとした笑みの下に半信半疑な心を隠し、自分のスピーチが完全に「のれんに腕押し状態」であることに気づくと、サイモンはある名言を残して去っていった。「あなたは世界に対して失礼な人だ」。ナンパを断ると世界に対して失礼な女になるなんて、初めて知った。

(March 25, 2010)

Posted by iwaki : 09:20 | Comments (0)


英国観劇メモランダム

忙しないイギリスの旅に終わりをつげ、ようやくパリに到着。空がぬけるような晴天。朝のニュース番組でも「プランタン・エ・タリヴェ(春の到来です)」とキャスターが笑顔で報じている。だがそんな陽気のなかで「やれやれ」と人心地つこうと思ったやさき、昨晩から、とうとつに滝のように鼻水がながれる鼻風邪に襲われる。結果、頭のなかを真綿でぎゅうぎゅうにされたかような不快感がつづき、ものごとをクリアに考えることができない。仕事をする気がさっぱりおきないので、とりえあずロンドンで見た舞台のいくつかについて、メモ書きを記しておくことにする。

3月6日 フィリップ・リドリー作『Moonfleece』@ RICH MIX
日本でも『宇宙でいちばん速い時計』や『ピッチフォーク・ディズニー』などの作品で知られる、イースト・ロンドン在住作家フィリップ・リドリーによるできたてほやほやの最新作。4日まえにこのRICH MIXという、作家の地元の映画館の4階にある小屋で幕を開けたばかりだ。客席に入ると観客はぜんぶで10人ほど。目のまえには安っぽい書きわりのようなセットがあるだけで、役者も出てくる男の子や女の子がみな高校生ぐらいの歳にみえる。一瞬「しまった、リドリー作品を勝手に上演する高校演劇を見に来てしまったか」と戸惑うも、ものの10分も芝居を見続けていると、役者の力量が軽く高校演劇の域を超えていることに気づかされる。そして休憩なしの1時間半の芝居が見終えるころには、観客の誰もが前のめりになり、リドリーの言葉の魔力に震えながら呑みこまれている。私もイースト・ロンドン訛りのブロークン・イングリッシュと格闘しながらも、最終的には大げさでなく、ここ数年来のベストの出来映えの演劇をこんなちいちゃな劇場で目撃できたことに心から感謝していた。物語は、主人公カーティスとその亡き兄との絆を縦糸に進んでいく。兄を心から愛するカーティスは、以前家族全員で住んでいたイースト・ロンドンのアパートの一室で、霊媒者を介して兄の霊を呼びもどそうと試みる。その場に集まってくる彼の個性的な友人たち。そして少しずつ少しずつ、兄の死をめぐる真実がひもとかれていく。横糸となるのは、近年現実にも大躍進を遂げる極右政党・英国国民党(BNP)をほうふつとさせるカーティスの義理の父の選挙運動と、そこから端を発する、人種、権力、性差別といった諸問題。極右政党の支持者のひとりが幕切れ近くに印象的なセリフを語る。「なにが真実でなにが真実でないか、俺たちは人生で混乱することがたくさんあるだろ。そういうときは、どうするか知ってるか? 俺は父さんに聞くんだ。それで父さんが言うことが、なんであれ……、それが真実なんだ。人生はそのほうがシンプルだ」。この末恐ろしい思考停止と、その先にある傲慢さと偏見。戯曲ではもちろん世界観がいささか誇張されて描かれているものの、当たらずとも遠からずな恐ろしさをロンドン滞在中に痛いほど感じた身としては、かなり心に響く芝居であった。見事な観察眼で現実社会を描ききったリドリーの最新作。社会に鋭い矢を放ちながらも、全体的なトーンとしては、夜、月明かりの下で子どもに語って聴かす夜伽話のような詩的美しさに満ちていた。


3月8日 ルーシー・プレブル作『Enron』@ Noel Coward Theatre
2001年12月に起きた負債額400億ドルともいわれる巨大企業エンロンの破綻劇を、かたくるしいドキュメンタリー演劇にすることなく、歌あり踊りあり「スターウォーズ」のライトセーバーありの娯楽作品にしあげた、最近の英国演劇界の大ヒット作。観劇前はちんぷんかんぷんな経済用語を並べ立てられまったく意味がわからないかと危惧していたが、はじまりから終わりまで、まったく迷子になることなくすんなりと理解することができた。それ自体は素晴らしい。ただこの作品、芝居の核心部が何なのかがよくわからない。たしかに現実的で、タイムリーで、いま誰もが興味をもつ不景気の原因の一部を作った首謀者たちの話を描いてはいるものの、作家がこの題材のなかでなにを個人的に伝えたいのかその腹が見えてこない。だから全体的な印象としてはゴージャスな「サルでもわかるエンロン破綻講座」といった感じで、ユーモアに溢れたわかりやすい経済講義がずいしょに織り込まれ「へ〜」とは思わされるのだけれど、だからといってエンロン破綻劇の首謀者で、本作の主人公であるジェフリー・スキリング (素晴らしい演技をみせるサム・ウエスト) が、どうしてこのような常軌を逸した儲けばなしに走らざるをえなかったのか、その心理的衝動がいまひとつ深みをもって迫ってこない。もしわたしがこの芝居にテコ入れするならば、舞台上で描かれるエンロンの破綻劇を、もうすこし一般社会に敷衍して物語を伝えると思う。たとえば人間が自分の手に追えないほどの巨大な富をもつこと。それは明らかに自然の摂理に反しており、結果的には他者や自分を偽ることになること。そんな基本哲学をもうすこしクリアに伝えると思う。ああ、でも、もしかすると……、それを伝えたところでロンドンの観客の心にはあまり届かないのかもしれない。銀行口座の残額がどれほど底をつきそうでも、あるいはどれほど巨額の借金を抱えていようとも、それを隠しとおして「いっぱしの成功者を装うこと」がよしとされる資本主義社会では、エンロン事件の粉飾や装いは、生き方の"根本悪"として観客には届かないかもしれない。


3月11日 Shunt 『Money』@ Bermonodsey Street, London
ロンドン・ブリッジ駅近くに拠点を構える小劇場カンパニー「Shunt」の最新作。彼らの本拠地から5分ほど歩いた場所にある廃屋煙草工場を、夜10時に訪れる。エミール・ゾラの小説『金』を土台におく本作。だがこの作品の何よりの見どころは、テキストでも、それを翻案した作家でも、それをしゃべる役者でもなく、煙草工場のなかに作りあげられた三階建てのホーンテッド・マンションである。まるでアウシュヴィッツのガス室のように風が吹きこまれる暗闇の小部屋にぎゅうづめにされたかと思うと、その数秒後にパッと明かりがつき、さながら英国の下院議場を思わせるオーク材の部屋の中央に観客は立たされている。その部屋はちょうど建物の2階にあたり、上の階から『ロード・オブ・ザ・リング』の登場人物ゴラムのような宇宙的な生きものがロープを使って降りてきたり、床板がバンッと開き下の階からトルコ式風呂ハマームから出てきたばかりの半ば裸の男が登場したりする。この部屋を後にすると、次に観客はさらに上階にのぼり、シャンパンをもてなされ、3階に案内される。そしてさながら天井裏から他人の生活を覗き見するかのように、芝居を見続けていく。視界に飛び込んでくるのは庶民的なユダヤ人一家の生活と、ハマームに横になり汗をかく男たち。ぶつぶつとつぶやかれるセリフはほとんど聞こえてこない。ただ、天井から他者の生活を覗きこむというその非日常的行為にちょっとばかり興奮する。1時間強の全行程を終えてようやく解放されるとーーフランス人と、ユダヤ人と、ホビットが共生する、ゾラ的というよりもカフカ的なポップ・アップ・ブックから脱け出したばかりのような不思議な感覚におそわれる。ただアトラクションとして面白かっただけに、テキストの内容にもうすこし実があれば(あるいは逆にまったくテキストを使わないという潔い行為に出れば)、手の込んだ外装と同じほど内容も充実して楽しめたかもしれない。

(March 18, 2010)

Posted by iwaki : 06:49 | Comments (0)


ブライトン・ブルー

ロンドンから南に60キロほど下った場所にあるブライトンの街に到着。いつもは、海と音楽と学生たちの活気で溢れるエネルギッシュな街らしいが、私が訪れた日は運悪く雨模様。世界全体が藍色のペンキをばしゃりと頭からかぶったような寂しい色合いに染まっていた。道行く人々の表情も、天気になにか恨みがあるかのごとく険しい。ただ曲がりくねる細道のそこここに愛らしいカフェなどが隠れていて、太陽が出る季節に来たらさぞ居心地のよい街だろうなと思った。大都市にはないのんびりな空間がここにはある。イギリス観光の折には、ぜひ足を伸ばしてみてください。ロンドンから電車で50分ほどで着くので。

DSCF0682.JPG

DSCF0684.JPG

DSCF0695.JPG


(March 14, 2010)

Posted by iwaki : 21:44 | Comments (0)


「Behave」の文化

ザ・ロイヤル・オペラハウス、つまりは王族お墨付きのオペラハウスに連日通いつづける日々も終了。昼間は「さっきピーター・ライトが打合わせしていた部屋」や「ウェイン(マクレガー)がリハーサルを終えた稽古場」でダンサーたちに取材をし(本当にこういう言い方で部屋の説明をされるのだけれど、よそ者のわたしにはその情報がこれっぽっちも役にも立たず困ったりする)、夜は夜で、葡萄酒色と黄金色に染まる贅の限りを尽くした華麗な殿堂で、分不相応にいい席でバレエを観劇させていただく。見わたせばまわりは六十代以上が圧倒的多数で見るからに富裕層なかたばかり。誰もかれもが知り合いなのか、そこここでラブリーでブリリアントでゴージャスでハウナイスな挨拶が交わされている。

そんなこと言われても日本にいるかたには「それってどんな挨拶よ?」と何のことだかさっぱりだろうが、こちらの人、というよりもこのシェイクスピアの国の特に中高年層は、とにかく挨拶ひとつとっても豪華絢爛な形容詞で言葉を着飾るのだ。「ハーイ、あなたに会えてとてもラブリー(な気分)だわ。お元気だったかしら。そのドレスを着たあなた、本当にゴージャスに見えるわ。なにかブリリアントにいいことでもあったんじゃないかしら?」。大げさでなく、こんな特大級のおべっか挨拶がそこらじゅうで交わされている。わたしも「ハーイ、キョウコ。あなたに会えてラブリーだわ。ハウナイス・トゥー・シー・ユー」なんて言われると、同じように孔雀のようにすました挨拶を返さねば英国的作法に反するのかと、最初のうちは同じような挨拶を返そうと努めていたが、日ましに肩がこって疲れていく自分がいるのでやめた。そうするとわたしは正しい「Behave」ができない不作法アジア人になるのかもしれないけれど。でも……Behaveするのってそんなに大事か? 

今日も近所のチューブ(地下鉄)の駅で「Behave youself」と子供をたしなめる母親を見かけたのだけれど、むしろBehave yourselfよりもBe yourselfのほうを先に人間として学ぶべきなんじゃないか。大英帝国に来るたびに、なんだかこのBehaveの呪縛にいつも肩がこってしまう自分がいる。そして個人的にはBehaveが上手な大人ばかりに会うと、とても空っぽな気持ちになる。ロンドンの人たちは、仕事仲間や友人たちといるときはいつもとてもにこやかに振る舞っていて、それは洗練された大人の社交術として身につけるべき文化のひとつなのだろうけど、それでいざ一人になったとき孤独の抜け殻のような心に襲われたりしないのだろうか。まあ、アウトサイダーのこんな勝手な省察は本当におおきなお世話だろうけれど。たまにロンドンの仕事環境に転入させてもらうとそんなことを考えてしまう。

明日はイースト・サセックス州にある海と音楽と同性愛者のコミュニティで有名な街、ブライトンに移動。ロイヤル・オペラ・ハウスの広報担当の女性によると「冬場はAwfuly Coldだけれど、海辺はいつでもWonderfuly Beautiful」な街なんだそうだ。さて、どんな場所か楽しみだ。

(March 12, 2010)

Posted by iwaki : 10:34 | Comments (0)


愉快なロンドン観察記

タイラゲテヤロカ。機内で隣の中年女性が実にとうとつに話しかけてきた。タイラゲテヤロカ。タイラゲテヤロカ。まるでラマやアルパカを放し飼いにして生計をたてる(ことをしていそうな)、遙かアンデス地方の古代の呪文をつぶやくかのように、彼女はゆるやかな笑みを目にうかべて同じ言葉を魔術的につづける。タイラゲテヤロカ、タイラゲテヤロカ。半月状に歪む彼女の目が、私のまえにいすわる食べ残しのトレーにそそがれていることに気づき、ようやく呪文が解読される。
「たいらげて、やろうか」
どこぞで覚えたその日本語を、彼女は、病にぐずる我が子に聴かす母親の子守歌のようにやわらかにくりかえしてくる。たいらげてやろかあ。ただ「はい」と答えれば赤の他人に残飯処理を頼むことになるし、「いいえ」と答えれば彼女のまったく邪気のない親切心をふみにじることになる。風貌から察するに、彼女はどこか南米系の土地の人だろう。もしかすると彼女の故郷では、残りものは災いのもと、みたいな教えがあるのかもしれない。でもここは近代的なエールフランスの機内なのだ。私は「はい」とも「いいえ」とも口にすることができずに混乱の極みで言葉を失っていた。

と、その女性は一瞬の沈黙ののち「ヨカ」と一言つぶやいたかと思うと、素手でわたしの前にあるアルミニウム皿をひっつかみ、吉野屋の牛丼をかっくらうかのごとく残飯を一気にたいらげた。そして吸引作業が終了すると「オイシネ」と優雅に微笑み、中世の宮廷婦人にでも給仕するかのように丁寧に皿をかえしてきた。あまりのことに、私は言葉を失いつづけている。やはり「ありがとう」と答えるのも「すみません」と答えるのも、なにか間違っているように思える。こんな非常事態、ならず異常事態に、返すべき道徳的回答を私は今までの人生で培ってきてはいないのだ。

長い十三時間のフライトを終えて、ようやくロンドンに到着。翌日オペラハウスに向かい仕事の用向きのバレエを観劇する。ときおり襲来する時差ぼけの睡魔と格闘しながらも三幕物のゴージャスな舞を堪能し、夜11時、賑わいを見せるピカデリー・サーカスから地下鉄に乗りこむ。週末金曜日の夜だ。車内の扉近くには、これから踊りにくりだそうという服装のティーネージャーの集団がむらがっていた。外は霜の降りそうな零下の気温だというのに、女の子たちはタンクトップにミニスカート。しかも素足だ。またどうおおめにみても「美」の基準値をはるかに超えて「歌舞伎」の域に入りつつある極彩色の厚化粧が夜の蛍光灯に浮いている。薄着に浮かれた彼女たちを横目を、上から下まで黒づくめでむくむくのダウン姿の私は、紛々たる白粉の香りをくぐり抜けて空いたシートに腰掛ける。ふう、とようやく一息。だがふと前席をみあげると、そこにまたじつに「ロンドン、夜、金曜日」な酔っぱらいが座っていた。

アーミージャケットに黄土色に変色しかかったブルージーンズ。80キロはくだらないだぶついた巨漢で、水揚げされたばかりのワカメのような髪の下で、夏祭りの屋台で売られるアンパンマン風船のように顔を赤くふくらませている。両膝のあいだには、2リットル大の水のペットボトル。うつらうつらと半睡状態の意識の波間をただよう彼は、たまにウプッと口をすぼめなにかを吐き出しそうになり、私も含め半径1メートル四方の人間を一瞬おびやかしたかと思うと、2秒だけ真顔に覚醒してボトルの水をごくりと飲む。見れば、額にはまるで蛭に血を吸われかたようなマヌケな跡が。こくりこくりと前に垂れつづける頭を自力で支えることができない彼はどうやら、ときおりその栓の開いた手持ちのペットボトルの口を額にあてがい、暫定的な安定ポジションを保っているらしい。こくりこくり、うぷっ、水をぐびり、おでこで栓。そのくりかえし。いつ目の前でその男が逆噴射するかもしれない恐怖におびえながらも、あまりにおもしろすぎるルーティーンから目を離すことができない。こいつ失恋したのかな、いやいやこの風貌で恋人なんてありえねぇよ、だな、と隣の男子学生二人組がこの酔っぱらいをネタにひとしきりもりあがっている。その会話には「俺らのほうが、何倍かいけてる」という男子特有の優越感がまざる。でも、そいつらもしたたか酔っているうえに女っ気がまわりにないわけだし。たまに、ちらちらと例の薄着の女の子たちに意味ありげな視線を送っていた。

さて、いまはイースト・ロンドンのカフェに座りながらこの文章を書いている。隣のラブラブカップルは、なにかの手違いで息継ぎができなくなってしまい窒息死寸前の曲芸人のように、喘ぎ、もだえ、長時間キスをつづけている。なにかの極限パフォーマンスなんだろうかーー。しかしまあ異国に来ると、ただごとでない人間によくでくわす。べつに蝋人形館などに金を払って赴かなくとも、おもしろい見世物はいっぱいある。

(March 8, 2010)

Posted by iwaki : 03:18 | Comments (0)


心の垢すり、再び海外へ

ここ二ヶ月ほど働きづめに働き、心がぺしゃんこにしぼんだ餅のようになったので、少し息抜きもかねて旅に出ます。もちろん旅先でも仕事はもりだくさんですが、環境が変わるだけで、おもしろいほど心はふくらむ。いうなればオートマティック・モードに入っていた自分の思考回路が、外国に行くことでいちどマニュアルに切り替えられるため、行動にたいして自覚的になり気づきや喜びが増えるのです。実際、スーパーで牛乳を買うことも、駅の窓口で外国語に手こずることも、慣れない町をさまようことも、脳にこびりついた「垢」のようなものを落としてくれる浄化作用がある。そして、その垢すり作業が進むとともに、脳の処理速度もあがっていく。それはパソコンに古くて余分なデータが溜まっていると、処理速度が遅くなるのと同じこと。先日Macbook Airを購入し、ぎりぎり必要最低限のデータだけを移行する作業を終えたところなのですが、わたしの脳みそも同じように、必要最低限のデータだけを見極めて無駄なく蓄積していきたい。旅のおともにもっていく本は、須賀敦子と村上春樹とロア・シーガル。美しい町で美しい活字を読んで、心の垢を落としてこよう。

(March 4, 2010)

Posted by iwaki : 15:53 | Comments (0)


英国Twitter世代演劇

夕食後、肘掛椅子に腰かけゆったり何時間も本を読む。そんな時代はいまや昔。現代では夕食後、あるいは夕食と平行して、パソコンやケータイでSNSを楽しんだりネットサーフィンに興じる人のほうが多いだろう。テクノロジーの変化に応じて、生活形態や娯楽は変化する。それはあたりまえの話だ。だからたまに半日がかりの歌舞伎や、六時間のシェイクスピアなんてものを観に行くと、自分が旧石器時代にタイムスリップしたかのような感覚をおぼえる。しかもその芝居がいけてるならまだしも、あくびを噛み殺さねばならぬほど退屈だった日にゃ、もう開演後十分で、多動性障害の子どものように落ち着きがなくなる。正直じっと我慢して、どこぞの人が作りあげたものに大人しく何時間も堪えることは、Twitter、Facebook世代の人間にはかなりしんどい。おもしろくなきゃ他のことをしたいもの、さらにいえば自分でおもしろいことに参加したいもの。ねぇ、そんな「辛抱弱い」現代人でも楽しめる芝居はないの?

そんな問題意識というか不満意識を抱えて世界を飛び回っていたら、イギリスで、まさにTwitter世代にうってつけのインタラクティブ演劇が流行っているという情報を耳にした。いやいや、それは果たして「演劇」と呼んでいいものなのか。なにせ役者がいっさい稽古をしない演劇や、客が役者をやらされる演劇、あるいは客の足をただ入念にマッサージするだけの「マン・ツー・マン演劇」なんてものまであるのだ。CONEYという演劇グループなどは、自設サイトで<アドベンチャー・ロト>(www.takemeonanadventure.net. )なるプロジェクトを立ちあげ、ロトの当選者に、彼らの趣味や夢にもとづいてオーダーメイドされたアドベンチャー旅行を太っ腹にプレゼントしているという。要するに彼らへんてこイギリス人たちは、演劇というメディアを、もっとずっとパーソナルに参加できる体験に変化させつつあるようだ。

ちなみにきたる3月には、これら「Tweitter世代演劇」のうち二演目が初来日。都内でパフォーマンスを行う。ひとつは英国人俊英アーティスト、ダンカン・スピークマンによるSubtlemob(サトルモブ)というイベント。これは街頭演劇と、ライブインスタレーションと、音楽鑑賞と、あと、なんの変哲もないただの散歩をすべていっしょくたくにしたような作品。いっとき欧米を中心に”フラッシュモブ”という名のゲリライベント(SNSサイトの呼びかけで集まった人々が街頭でいきなり枕投げ大会をはじめたり、下着姿で電車を占拠したりする)が流行っていたが、それの「Subtle=控えめ」版だと思ってほしい。つまり観客は、奥ゆかしくも控えめなかたちで、街を占拠していくことになる。客は事前に指定されたMP3ファイルをダウンロードしておき、その楽曲を当日指定された場所で再生。と、そこからは音楽と物語と行動指事が流れはじめ、その指事に従って30分、町を散策することになる。MP3ファイルには2種類用意されているため、観客はおのずと半々にわけられ、ときに観客になりときに演者になる(恥ずかしいことは何もやらされないので大丈夫)。でもそれはあまりにも控えめな演技なため、果たしてその人が参加者なのか、ただの街ゆく人なのか最後までわからない。ただ実感できるのは、街がいつもより少し「愉快な場所」に見えてくるということだ。

もうひとつは、Stoke Newington International Airport(ストーク・ニューイントン・インターナショナル・エアポート)によるかなり奇抜なパフォーマンス演劇。その名も「Live Art Speed Date(ライブアート・スピードデート)」という題名のとおり、彼らは一夜の合コンイベントをアートにしたててみせる。合コンの参加者は、もちろん私たち好奇心旺盛な観客。恋のお相手は個性的な20名のアーティストたち。彼らが、ときに個室で、ときにテーブル越しに、ときに部屋の暗い片隅で、本気なのかセリフなのかわからぬ言葉であなたを熱心に口説いてくる。もちろんその演技者と現実の恋に発展することはない(と思う)けれど、ここでは参加者同士の交流イベントもいくつか仕掛けられているため、そこで未来のお相手に出逢うこともあるかもしれない。

なかなか言葉でそのおもしろさを説明することが難しい、英国初インタラクティブ演劇。ぜひ参加したいという方は、以下のサイトまでどうぞ。今日はいつになく本業に近い内容のブログでした。

■「あたかも最後の時であるかのように(サトルモブ)」

日時:3月2日 / 3月3日
会場:池袋
詳細:http://subtlemob.com/

■「ライブ・アート・スピード・デート」
ストーク・ニューイントン・インターナショナル・エアポート

日時:3月1日・2日・3日
会場:スーパー・デラックス
詳細:http://lasdtokyo.wordpress.com/live-art-speed-date/

(February 27, 2010)

Posted by iwaki : 12:37 | Comments (0)


質問を投げるピッチャー

質問力について考える。職業柄、質問の精度をあげることには日々苦心している。なぜなら、これは数年来の仕事経験のすえ辿り着いたテーゼなのだけれど、質問の精度が高ければ解答の精度も高いから。「この作品のテーマはなんですか?」なんて漠然とした質問を投げかけても、相手もその球をどう打ち返したらいいかわからない。し、打ち返す気も失せてしまう。この球は俺に向かって投げられているぞ、と思わせる適確な質問を投げなければダメだ。

また要点を得ずにしゃべりはじめ、最終的になにが問いなのか分からないダラダラトークをつづけるのも困りもの。Clear(明解)に、Concise(簡潔)に、Correct(適確)に。これが質問力には肝心。CNNジャーナリストのクリスティン・アマンプール氏の質問など、この3つのCを完璧にマスターしていて非常に勉強になる。ただ彼女の作法はすこし米国的なアグレッスブさが強すぎるように思えるので、日本社会で採用する場合には、個人的にこの3つのCにもうひとつCompassionate(思いやり)を付け足すようにしている。

ちなみに、質問をする際にもっともやってはいけないことは何か。それは自我をひけらかすことだ。知識を吹聴するため、意見を誇示するため、むりやりそれを質問に仕立てて相手に身勝手にぶつける。これは絶対にやってはいけないマナー違反である。情報処理レベルの質問は別にして、情緒レベルの質問というのは、相手に明解に気持ちよく話してもらうための行為であって、自分が気持ちよくなるための行為ではない。でもそこのところをきちんとふまえずに、質問ボールと「エゴボール」を混同して投げてしまう人が意外に多い。

先日あるパフォーマンスのアフタートークを聞いていて驚いた。あまりにもこの手の「エゴ・クエスチョン」をする人が多いのだ。たしかにその場には、学のある、知識のある、質問が豊富にとびかっていた。だが残念なことに実際に質問された解答者は、どうしたらいいものやらしゃべりづらそうだった。最近は若年層におけるコミュニケーション能力の劣化が嘆かれて久しいけれど、その能力低下の原因は、むしろ発言力よりも質問力の低下にあるのではないか。いい球を投げるピッチャーがいなければ、会話という名のゲームさえはじまらない。ーーと、そんなことを考えながら風呂場で強烈な睡魔に襲われ溺れかけた今夜。文章がいつもよりキレがないけれど、しょうがない、もう寝よう。

(February 22, 2010)

Posted by iwaki : 00:32 | Comments (0)


文体と身体のリレーション

人よりもいくぶん身体的な物書きなんだと思う。なにかについて「書いてください」といわれ「はいわかりました」と電話をきり、それでその足で喫茶店にむかって二時間足らずですらすらと書きあげるということは、私の場合ない。ではなにをするのかというと、まずはプレパレーションをする。それは物書きがよくする下調べ、という意味でのプレパレーションとは別もので、そうではなく、その文章を呼吸するためのプレパレーション。体中の細胞がその文章を呼吸するようになるまで、肉体の準備を整えるのだ。

アラン島の自然美について書いてくれと言われれば、苔むすように悠然とした時が流れるヴィクトル・ユゴーの小説を読み、シューベルトの子守歌に静かにひたる。下北沢の若手作家によるアングラ芝居について書いてくれと言われれば、漫画喫茶におもむいて普段はあまり手にしないギャグ漫画なんかをぱらぱらとめくって、ついでに松屋で牛丼を食べてみたりする。要はアラン島であれアングラ芝居であれ、その地に棲息している人たちが吸うのと同じ空気を呼吸する。そうして体の状態を変えることで、文体もおのずと変わっていく。それはいささか非生産的で儀式じみた馬鹿げた行為に思えるかもしれないし、ともに生活をする家族や友人には七面倒くさいことかもしれない。そして自分でもたまに変身の飛距離に眩暈を覚えることがある。上方の大御所歌舞伎役者から、ドイツのアカデミックな演出家を経て、フランスのコンテンポラリーダンサーに飛んだときには、日替わりで改宗しているようで辛かった。(それに彼らは宗教と同じぐらい自分の芸術観こそ絶対だと思っていた)。けどやっぱりその肉体準備行為は、私にはとても大切なことのように思える。もちろんすべての文章に同等の労力を費やせるわけじゃない。でも大切ななにかを届けたいときには体から頑張る。長距離走者には長距離走者の、短距離走者には短距離走者の、それぞれに適した体があるように。ある種の文章を書く物書きにも、それに適した体があるように思える。

それで最近は、食事に気を使ったり、ヨガをしたり走ったり、挙げ句には断食道場に行こうという計画までもたげてきたり。とにかくなるべく体をニュートラルな状態に保つように心がけている。それはつねに家を整理整頓して清潔に保つ行為と似ている。ホテルの一室に独り夜中にぽつんと座りこんでいると、聖書は聖書、バスローブはバスローブ、剃刀は剃刀の、あるべき場所にすべてが置いてあり、そのまったく誤差のない秩序のなかで、いつも以上に生産的に思考がまとまっていくことがある。そんなときにふと思う。体にしろ環境にしろニュートラルであることとはつまり、思考のフットワークが軽いということなのだと。作家がホテルに缶詰にされるのも納得がいくってもんだ。

先日、箱根に住む心理療法士の友人に会いにいった。彼女の家は、家というにはあまりになんというか除菌されすぎていた。真っ白で大判のテーブルに、向きを整えて置かれた同じ型のペンが数本と、その横に置かれた匿名的なリングノートと、文具に除けものにされたようにひとりぽつんと置かれたクリーム色のマグカップ。机の横の本棚には、専門書全集が巻数の昇順にならべられ、文庫本でさえもその背の色によりあるべき場所に配置されていた。「乱れたものがあるとクライアントに影響が出るのよ」。彼女はその部屋でたまにクライアントとの診療セッションも行うのだが、室内の乱れが不安定なかれらの心を乱してしまうのだという。そしてそのノイズ障害によって、プリサイスな診療結果を得ることが難しくなるのだ。そのときのわたしは「ふーん」と適当な相づちを打ち話を終えてしまったが、のちのち体と文章のソマティックな相互作用について考えるにつけ、彼女の言葉が不思議な温度でふたたび染みわたってきた。そろそろ新たな文章プロジェクトもはじめることだし、もうすこし、身体と文体の関係性について考えてみようと思う。

(February 13, 2010)

Posted by iwaki : 22:55 | Comments (0)


仮想リクルーティング活動

わたしの職業は素浪人だ。誰にも仕えず何処にも召し抱えられず、刀一本、いや筆一本で世を渡り歩く。これは自分で選んだ生き方で、それをかなり好いているわけだけど、たまに自分が社会フロウからはじき出された心持ちになる。ひとりで調査し、取材し、執筆し、記事がようやく刷り上がる。それでもちろん社会人としてのペイを頂いているわけだけど、あまりに独りで居続けるため、たまに自分が世に本当に貢献できているのか疑問に思えることがある。わたしはちゃんと大人としての基礎戦闘力を培えているのか。どうなんだ。

そこでここ一週間ほどある実験に出た。素浪人であるわたしの実力は、一般市場でどれだけ有用価値のあるものなのか。簡単にいうなら就職活動をしてみることにした。とはいえ本気で将来の職場探しをしている新卒採用の子たちに混ざって企業廻りをするような、無礼なふるまいをするわけではなく。主にインターネットを使って海外や日本の企業に、自分がいままで培ったスキルである「文章」「知識」「語学」などを売ってみることにした。本業も忙しい日々がつづいていたけれど、気分転換として、英文の履歴書を書いたり、英語で文章を書いたり、目的がはっきりしているため学習効果も高くて作業は楽しかった。そして、レスポンスを待つこと数日。結果からいうと、いまだに新卒採用が主流な日本市場からはまったく音沙汰がなく、スペインとインドから仕事のオファーが来た。特にスペインのほうは、アディダスのプロジェクト・チームに入らないかというオファーでなかなか楽しそうに思えた。本気で逡巡した。一ヶ月ぐらい、試しにやってみてもいいかもしれないと思った。

その仕事を受ける受けないはべつにして、自分が社会に通用する人間になれている、という事実が嬉しかった。そんなもん対外評価がなくとも自分でわかって進んでいけよと非難されるかもしれないし、それはそのとおり全くごもっともなのだけれど、試しにバーチャル・リクルーティングをしてみたくなったのだ。まさか本気で採用されるなんて九割がた思っていなかったので、正直驚いた。この不景気のどん底のさなかに、そんな馬鹿げた動機で就職活動しやがって、とボコボコにされそうな話をして本当にごめんなさい。陳謝です。明日からまた、独立独歩、きちんとプロの文筆家として精進していきます。

追加余談。ナイトヨガをはじめたのだけれど、ある一定の種類の基本ポーズがどうしてもできない。原因をもろもろ考えた結果、わたしは身長比に対して腕が異常に短い事実が判明。別の名を借りるなら、これは胴長ともいう。

(February 4, 2010)

Posted by iwaki : 23:42 | Comments (0)


平和なカフェと戦争

執筆のためによく喫茶店を利用する。スターバックスやセガフレードなど何処にでもあるチェーン店だ。日本では喫茶店という呼称のもと認知される店に入ると、どうしてもゆっくり長居できない。うちの自慢の珈琲を味わって一息ついたら「ご退席下さい」という婉曲的圧力をーーたとえばお冷やをそそぎに来るタイミングなどに感じてーーなんとも落ち着かない。し、愛用マックブックを開いて仕事をするなど、たまにやるけど、かなり度胸がいる。そこへくると時間単位のシフトで働くバイト君たちが店を仕切るチェーン店はじつに気楽。ラテ1杯で何時間でも放っておいてくれる。

さてそんな自由空間にまっぴるまから長居をしていると、仕事現場では会うことのない、実に雑多な人々に遭遇する。校則ぎりぎりのラインでどれだけ長い「まつげエクステンション」をつけられるかに一時間も悩む女子高生たち。自分がどれだけ東京の道路事情に詳しいかを自慢しあう免許取りたてと思しき男子大学生たち。その横で席のうえにあぐらをかき食い入るように求人情報誌を睨みつづける三十代男性。じつにすべてが日本的だ。そんなおり、偶然にもとてもとても興味深い議論に出くわした。わたしの隣に着座した、三十代前半の男子と四十代のおじさん。ふたりは同郷の知り合いらしく、東京で久方ぶりに会ったよう。若いほうはネルシャツにジーンズ、冴えない風体でフリーターとして東京で暮らしている。中年のほうはグレーのスーツに水玉ネクタイ、出張で一時上京中だ。

「夢を持てよ」と、おっさんは若者をいきなり鼓舞しはじめた。夢を持てよ、まだ若いんだから。なんだってできるじゃないか。フリーターは確かにきついかもしれない。でも働きながら週末に好きなことをして夢を叶えるやつはいるよ。俺の知り合いでもそうして作家になった奴がいる。すごいんだぞ。広告会社で働きながら、しこしこ週末に原稿を書きつづけたんだ。おまえ、建築家になりたいって言ってたじゃないか。なにか勉強してるのか?

若者の返答は、じつに現代東京的。夢どころじゃない。夕方から夜勤に出て朝帰宅して、午後まで寝ての繰りかえし。週6日それで働いて、月に13万しか給料が入らない。一人暮らしもできないし、彼女もできない。その年齢でなぜ親元を離れないんだ、とまわりには白い目で見られるけど現実問題むりなんだ。それに建築家云々はもう若いときの話だよ。いまは普通に家庭をもって普通のしあわせを手にいれたい。でも、その未来も僕には思い描けない。

この嘆きに対してまたおっさんが「辛気くさいことを言うな」と喝をいれ、その言葉に対して若者が「でも」とさらに沈んでいく。歩みよりも解決もない永遠のリピテーション。

さて、この無限会話の何がそんなにおもしろかったのか。端的に言うならそれは「おっさんが夢の不在を嘆き、若者が希望の不在を嘆く」その世代的な価値観のちがいにある。おじさんが社会に出たとき、世はおそらくバブルだった。平日仕事をしていれば、週末に夢に打ち込むことも可能だった。普通に生きていれば普通に給料がもらえ、その経済力で余暇をまわせた安楽な時代だ。ひるがえって若者は、現代の暗黒不況に生きる。氷河期に就職活動をするも内定をもらえず、非正規雇用で今まで食いつないできた、だが働けど働けど自立した生活が望めない。普通に生きたいという希望さえ叶わない。いわんや、その先にある夢をや。

と、いきなり若者が妙に明晰な口調で暴言を吐き隣席のわたしを仰天させた。
「戦争がおきればいいんだ」
戦争がおきれば、世のすべてが崩れる。そうすれば僕にもチャンスがまわってくる。英雄にだってなれるかもしれないし、退屈な日々はとりあえず終わる。まるでフリーター論客のひとり赤城智弘さんが語る世界転覆願望そのものだ。東京ではいま、三十代までの若者の三人にひとりが非正規雇用労働者だ。にもかかわらず就業時間はヨーロッパより年500時間ほど多く、年間三万人以上が自殺する。そんな夢も希望も持てない世界では、若者は平和より戦争を望むのか。甘えたこと言うんじゃない、自己責任だろ、働けよ、前進しろよ、と社会基盤が安定した場にいる大人が叱ることはたやすい。でも本当にこの隣席の男子は、戦争という未来にしか希望が持てないのかもしれない。彼にとってそれは極論ではなくいたく現実論なのだ。明るくないブログを書くのは嫌だ。でもこの平日の平和なカフェの一角でひたひたと進む末期症状は、さすがにロスジェネ同世代として看過できないように思う。非正規雇用を増やすスタバではなく街の喫茶店に、少しけむたくても行くべきなのかもしれない。

目をおとせば手元には寺山修司。
「僕はいまできることでこの生ぬるい湯気みたいな平和に抵抗するしかないんだ」

(January 29, 2010)

Posted by iwaki : 22:10 | Comments (0)


エンデと望郷の想い

ミヒャエル・エンデの『遠い旅路の目的地』という短編小説を読んだ。
母の顔を知らず、父から愛されず、ただうなるほどの金と地位を与えられ、精神が生活から孤絶した状態で育ってしまう少年。表情に乏しく世のなににも動じない彼は、まるで薄い皮膜の向こう側で、全世界の傍観者になってしまったかのようだ。そんな彼があるとき「故郷」という言葉に出逢う。そしてすべからく人は故郷を語るとき、表情を和らげ頬をほてらせ興奮することに疑問を抱く。果たして人の心をあたたかな色あいに染めあげるこの「故郷」とはいったいなんなのか。彼の明晰な頭脳は単語の概念を理解することはできても、その概念をどうしても生理と結びつけることができない。そして少年は故郷と呼べるなにかを探すべく永く遠い旅路に出る。

エンデの小説はいつもこうして、ひとつのささやかな疑問からはじまる。彼自身のなかにもおそらく明解な答はない。ただ子供のように放逸な好奇心でもって「故郷とはなんだろう」と読者に問いかける。そして子供向けにつづられた平易な言葉でもって、油断のならないアバンギャルドな哲学を打ちだしてみせる。それこそ凡人がゆったり腰を落ちつかす平穏な既成概念を粉みじんに打ち砕くような、なかなかに危険な結末に達したりする。

この短編にしても読者は、文章に目を通すまえまでは「故郷とは故郷と呼べる土地のことだろう」と信じて疑わぬ無批判な常識をかまえているはずだ。辞書をひもといても「故郷=生まれ育った土地、ふるさと」と解説されている。だが作品を読み進め、エンデの疑問提起にのることにより、故郷という概念に対して根こぎ状態に陥るような思考を強いられることになる。果たして故郷とは本当に土地のことなのか、その土地と結びつけられた人のことなのか、あるいは土地も人も関係なくのちの人生で出逢う芸術や宗教も故郷になりうるのか。実際この小説の主人公は、最後まで人や土地に故郷と呼べるぬくもりを覚えることができず、一幅の絵に故郷を見る。

ときを同じくして唐詩選を精読していて、いかに望郷の念を詠み上げる歌が多いかに驚いた。いまどきのぞろっぺえな言葉でいうならホームシック。つまり故郷を恋しいと想う心は、恋愛や別離と同じように、歌にせずにはいられないほど烈しく詩人の心を揺さぶってきたのだ。けれどこのとき詩人たちが詠んだ「故郷」とはいったい何だったのか? ある一定の土地だったのか、ある独りの愛する人だったのか、あるいはすべてが想像上の美化された追憶にすぎなかったのか。

わたし自身は土地に望郷の念を抱いたことはない。東京に生まれ海外もふくめ幼少期に引っ越しを七回もしていては、どこを故郷と呼んでいいのかわかりゃしない。では家族は故郷ではないのかと問われると、それはイエスでもありノーでもある。やはりこの年齢になると、父と母が作りあげた家族は本質的には彼らふたりのものであり、自分はすこし余所者だ。もちろん大切な存在ではあるけれど海外に出てホームシックになることはない。さてそうなると、わたしの故郷はどこにあるのか。答えは「いまだみつからない」。そして二ヶ月前のブログにも書いたけれど「おそらく人にある」。エンデがつぶさに描写したように、ふとした瞬間に想い出すだけでふわりと笑顔を浮かべてしまう、その温かななにかこそが故郷と呼べるものになるはずだ。三月からすこし長く海外に出る。そうした異質な時間を持てばまた、故郷に対する考えも変わるかもしれない。

(January 24, 2010)

Posted by iwaki : 01:31 | Comments (0)


雲南省と文学とマルジェラ

いつになく忙しい日々がつづく。悪くはない。忙しくしていると善いことがふたつばかしある。ひとつは無駄なあれこれを考えすぎず時間を有意義に埋めていけること、もうひとつは金を使う暇さえないため預金がオートマティックにたまること。もちろんこうした労働コンベアー状態が長くつづくと、心がからっけつになってしまうので、あるときには休止し、ぼんやりと考えごとにふけることも必要。でもいまはこうしてまとまった時間を労働に費やすのも悪くないと思える。この不況のさなかとりあえず路頭に迷う心配をしなくてすむ、どころか、あと一月か二月おなじ勢いで働きつづければ下半期は遊んで暮らせるかもしれない。金の真の強味は、金のことを考えずにすむ時間をもたらしてくれることなのだ。

そんな仕事三昧の日々のさなか、雲南省から来た天才舞踊手ヤン・リーピンを取材する。彼女の出身地ではいまだ二十五もの少数民族が肩をならべ暮らし、北京や上海といった資本主義に汚染される都市とは異なる有閑な時がつづくという。蟻のジグザグ行進を子供たちが追いかけ、ちゃぷりと小川にひたる水牛の足下を魚がとおりぬけ、暮れていく赤い夕陽に孔雀が悠然とはばたいていく。ほんとうに美しい場所なんですよ。そう語る彼女の笑顔も、年齢不詳の楊貴妃のように美しい。ある国の大富豪に見初められいっとき結婚した経験もある彼女。「幸せはお金にはないですね」というクリシェにも強さが宿る。

取材後、いいかもねえ雲南省、とわたしの旅好きの虫が騒ぎはじめる。そして早速ネットで航空券を調べる。どうやら成田から上海まで飛んで、そこから国内線で雲南省の省都・昆明を目ざすのが正攻法らしい。上海までの航空券は、時価二万から三万。ヨージのセーターを一枚我慢したらいける値段だ、よしよし。そしてお次は中国のドメスティックフライトを調べる。上海から昆明、でポンと検索。出てきた価格に……愕然、いや啞然とする。往復1120円。なんど確かめても単位は「¥」だ。いやあ、そういえばヤンさんまわりのスタッフが、市内バスは一日乗り放題で1元(約13円)だと言ってたな。その物価でいくとこの価格も、ありえない話じゃないか。でもな、飛行機に乗る人間はおそらく村民じゃないわけだし。となるとこの価格は……と、両目をしばたたかせ画面上の数字に困惑しつづける。そして脳内は、ふたたびお金についての思考を廻りはじめる。

新たなプロジェクトの勉強に励もうとスターバックスに入ればコーヒが420円。ようやくセールだ万歳、とネットショップで英国製ランジェリーを購入すれば3200円。iTUNESをとおしてハイチ地震の救援金を寄付すれば2500円。日本、英国、ハイチと、落としたお金が辿りつく国はそれぞれ異なるし、同じ100円でも、それぞれのお金がもつ価値も異なる。べつだんハイチに寄付することが、無条件に価値が高いことだとも言いきれない。わたしにとっては女をあげるランジェリーに費やすお金も等価に大切かもしれない。要はその100円の使い道で、自分がどれだけの満足を得られるか。どれだけの幸福を得られるか。だから人は大金を持ったときに本性が明らかになる。怖いことだけれど、金の使いかたで人生観がおのずと暴露されるのだ。

昆明行きの航空券とにらめっこすること、10分ほど。わたしの指は「航空券予約」をクリックする2ミリ前まですすむ。が、ここは念のため、別サイトでもういちど調べてみる。その検索結果、1120元。……元。つまり1万5千円。なんだ、わたしがいま勉強資料として狙っている文学全集とほぼ同じ価格じゃないか。いや、マルジェラのセクシースカートも同じくらいの値段だったか。いやいや、洋服なんて俗な消費物に費やさず、やはり昆明、昆明。いやいやいや……。さてどうすることやら。雲南省で得られる幸せと、マルジェラで得られる幸せと、文学全集で得られる幸せ。わたしはどれを選ぶのか。

(January 17, 2010)

Posted by iwaki : 23:11 | Comments (0)


第三次突発性コウモリ症候群

それはあるとき突然、訪れる。昨日までは日常であると信じていた場所が、あるときふいに日常でなくなる。環境は変わっていない、そこで生きる人も変わらない。にも関わらず、その中央にたたずむ自分だけがふわふわと空間に浮遊している。そして浮遊感のただなかに「変だ」という違和感だけが言語化され、自分のなかにずんずん沈殿していく。

変だ、変だ、変だ。

なにがどう変なのか具体的にはさっぱりわからない。けれどその体感は圧倒的な絶対感であり、仮にたとえるなら、あのイソップ寓話の『卑怯なコウモリ』よろしく、鳥の一族にも獣の一族にもなじめないでいる孤独感に近い。こんな突発性コウモリ症候群に、わたしはオリンピック周期ぐらいの頻度で襲われる。そしてここ一年程おそらく、成人してから三度目の、重度突発性コウモリ症候群に罹っている。いや症候群、などというと誤解を招く。この言葉にはなにか、早いところ治療して元通りにならないと、このあとの人生をずっと神経衰弱の瀬戸際で生き続けなければならないぞ、という息苦しさがただよう。でもわたしにとってはむしろこの病は、健康の兆候。心が健全に機能しているからこそ、なんらかの意味で毎日が機械的すぎる退屈さに支配されると、心のアラームが警笛を鳴らし始めるのだ。

ただ二十代までの私は、このアラーム音が作動しても、それをなるべくミュートに近づけるべく必死に抑制してきた。変だ、と叫ぶ自分の心はひとときの衝動に過ぎない。名づけようもない焦燥のせいで、自分がいままで築いた人生を、投げ捨ててしまうなんて馬鹿げている。そう自分を大人顔に戒めていた。でも今回のコウモリ症はいつもとはちょっとばかし異なり、抑制ではなく肯定感が、自分から導き出されてくる。「感情にきちんと目を向けて、自分の行動を考えなさい」とある大切な人に言われたことも大きく作用している。またそれなりに歳を重ねたことで、心を欺いて何十年と生きつづることに、リアルな恐れを感じられるようになったことも影響している。

変だ、という警告音の裏にはひとつの事実がひそむ。それは自分のなかでの価値観が大きな地殻変動を起こしたということだ。そしてこうなると、それまでの日々の常識会話が、偏見の集積会話に聞こえてきてしまう。仕事相手とのおさだまりな挨拶のしかた、家族内での暗黙なる相づちの打ちかた、ある業界内での善とされる価値観への盲目さ。すべてのことに無数の「なぜ」の疑問符が浮かびあがる。「常識とは、十八歳までに蓄えられた偏見の集大成である」とアインシュタインは語った。つまりは幼少期に受ける、ゆるやかでたえまない家庭内洗脳が、常識とよばれるなにかにいつのまにか成り代わるのだ。が、あることをトリガーに脱洗脳がはじまると、それまでの自分の常識基盤がいかに偏見の寄せあつめであったかがまざまざと見えてくる。そしてこの澄みわたる眼を持てたときこそが、孤独でいておもしろい、一時的な世界からのコウモリ状態になったときなのだ。

常識が偏見だと暴かれ、いままでの自分のかたくなな阿呆さに愕然と気がつくと、いくつかの溜め息ののちに、気持ちがおのずと謙虚になる。わたしはいまこの謙虚さを大切に、自分の内から響く「変」にじっくりと耳を澄ましている。それが、いったい自分になにを伝えようとしている音なのか。心の警告と世界の歩調、ずれてしまったふたつの位相が、あたかもライヒの楽曲のように再同期するときまでーー辛抱強く待ってみたい。

(January 9, 2010)

Posted by iwaki : 01:09 | Comments (0)


活字を書きながら年越し

時間というのは不思議なものだ。勝手きままに、長くなったり短くなったり。やっつけ仕事に追われているまに「ああ、もう一週間っ!」なんて週末にふと思ったときには、働き雀な生き方が身体に三十年ぶん染みついてしまったのかと、ちょっぴり情けない気分になる。そこで今年になって、いつ頃だったか、もうせこせこ生きるのはやめようと決断した。自分の時間感覚で生きよう。そもそもフリーランスっていう肩書きなんだし。そう思ってから、意図的に、時間の手綱をなるべく自分で握るようにした。のんびりしたいときは存分にのんびり、あくせくしなきゃならないときは割りきって働く。そうやって、今っと思ったらすぐに過去になり、ずんずんむげに流れ去っていく無制限な時間というものに区切りをつけて生きるようにした。もっと簡単な言葉でいうなら、時間を一色で埋めつくさないようにした。

そうした信念を時間にたいしてもったら、より「生産的に」生きられるようになった。家事を営む時間があり、愛をつむぐ時間があり、仕事に打ちこむ時間があり、学業にふける時間がある。いろいろな色があって、しかもそのすべての色づけに対して、なるべく、能動的。この能動性というヤツがじつは思いのほかくせもので、とくに東京にいると、新しいものがバンバン街中に乱立するため、それにリアクトしているだけで、結構、日々を飽きずに送れてしまったりする。でもそうしていると、わたしは、人に与えられたテンポの時間にあっちからこっちから攻めたてられている気持ちになって、だんだん息苦しくなっていく。

そういえば先日、コム・デ・ギャルソンのデザイナーの川久保玲さんが「価格が三桁のジーンズなんてありえない」と発言をして、ネット上で物議をかもしていた。「安さ、早さ、だけを求める商品を作るとその工程で誰かが泣いているかもしれない。いいものには、人の手間と努力がかかる。だからいいものは高いし欲しくなる」というのが彼女の意見の大筋。おそらくこれはユニクロ・デフレなどといわれている一連のあこぎな不景気商売に対して批判の矢をつがえているのだろう。そしてこれに対して勃発した反論の多くは、おもに最後の一節に対して。「安くて良い物を作るという価値観はないのか」というユニクロ商売肯定的なものだった。もちろん、不景気になやまされる消費者の立場からすればこの反論は一理も二理もある。けれど、川久保さんが言いたかったことは、消費や景気や価格のことだけではなく、生き方の本質にたずさわることではないかーー。

いいものには、人の手間と努力がかかる。この川久保さんの言葉を我流に拡大解釈して語るなら、いい仕事をしようと思えば、いい政策を導こうと思えば、いい人間関係を築こうと思えば、やっぱりすべて手間と努力がかかる。その必要な時間を惜しんで、結果、売上げ、成果、成功、ばかりをババッと求めやっきになって生きていては、人間、長い目でみたらだんだん息苦しくなる。作ったら捨てる作ったら捨てるの文化では、いうなれば砂上に、時間の楼閣を建てようとしてるようなもの。いつ強風で吹っ飛んでしまうかわからないその生き方に、不安を覚えない人間はいない。願わくば誰もが、嵐が来てもビクつかない太い根のある日々を送りたい。そしてそのためには、自分はなにに時を費やし、時を積み上げて生きるか、能動的に考えていく必要がある。

とにかくここで言いたいことは、来年もひきつづき、というかふんばってよりいっそう、時間を「生産的に」紡いでいきたいということ。ユニクロ的な生産性ではなく、ギャルソン的な生産性で。それは辛抱と規律としつこさが必要な地道な作業で、無鉄砲に突進しすぎッと人に突っこまれるわたしにとってはなかなか苦手な創造作業だけれど、来年こそもうちょっと安定してこつこつと根を伸ばしていきたい。もうすぐ新年です。新しい年がみなさんにとって、喜びと愉しみとすこしの哀しみと、人間らしい感情に満ち満ちたすばらしい一年でありますように。

(December 31, 2009)

Posted by iwaki : 23:30 | Comments (0)


京都で呼吸しつつ想う

呼吸の勉強をしていて学んだことがある。吐けば自然の摂理でエネルギーが入ってくる。だから呼吸においては、吸うことよりも吐くことが大切。吐ききればスペースができて、そこに自然と新たななにかが充ちてくる。ふむ、確かにそれはそうかもしれない。

そう思いつき、思い立ったが吉日と、いろいろと身辺を簡素にしてみた。
衣服を捨てる、書籍を売る、家具を買い換えて整理する。その過程で、たとえば五年前に読んだにもかかわらず、漠然としたあらすじさえ記憶に留めていない書物に出逢い、いかに自分がいらぬ知識武装をしていたかを呆れるほど実感する。逆にここ最近読んだ書物は、日々の変化と綱渡りの連続を生き抜くため、すがるようにして読んでいる書なため、活字が細胞のすみずみまで異常なほど血肉化している。なるほどね。読書も、人生も、量じゃなくて質なのね。20年より2年、20冊より2冊のほうが、比重が大きくタメになることはある。そしてこれからは、サバイブするために必要じゃない知識は「捨てていこう」という結論にいたる。無駄に知識を入れこんでも、処理せねばならない情報だけが多くなり、不安にもなるし、行動への第一歩が鈍る。おそらく蓄積することによって固めていく安定ではなく、捨てることによってブレない骨組みの安定を得るほうがいいのだ。余剰時間、余剰消費、余剰知識。そういったものをなるべく捨てて本質だけで生きていこう。

そんなことを考えていたおり、祖母が突然亡くなった。そしていま葬儀のため京都にいる。92歳の大往生だったため葬式じたいは哀しくも幸せなものではあったが、いまこのタイミングで「死」というものを突きつけられると、わたしは人生の最後に、なにを持っていたいんだろうとド真剣に考えてしまう。未来をフォアキャストするのではなく、死からバックキャストしていくかたちで、じゃあ今をどう生きていきたいのかと考えてしまう。

それに久方ぶりに親戚一同などに会うと、人はこうして子どもから大人になり老人になりタダ死ぬのだな、という「生の道筋」が気持ち悪いほど明解に見える。その容赦のない一本道に怖ささえ覚える。だから個人的にはなるべく、危険にいっけん思えても、その一本道から脱線していきたい。また変にモノや財産や場所などに馴れあいから固執せずに、それこそ毎日の呼吸で、新しく細胞を生まれ変わらせながら気持ちよく前進しつづけていきたい。わたしが92歳になったとき、誰を想い、なにを抱き、生きているのかは正直分からない。でも、旅は行先がわからないからこそスリリング。人はそれを無邪気すぎる無鉄砲さだというかもしれないけれど、わたしはそれを蛮勇ぎりぎりの勇気だと思いたい。

(December 23, 2009)

Posted by iwaki : 18:34 | Comments (0)


誕生日と男女共存論

精神ー生活、絶対性ー相対性、社会ー家族、
能動ー受動、計画的—即物的、理性ー感情。

前者が男性にあてはまる項目で、後者が女性にあてはまる言葉。
これら対比は時のまにまにわたしが考えたことだけれど、何も改めてここでいわずとも、古代中国の陰陽道からユングのアニムスとアニマ論にいたるまで、男性と女性とに生得的な差違があることは、洋の東西を問わずさまざまな賢人が語っている。

だがいまは男女同権の時代。誰もが平等に働いて稼いで家事をする、男女で五分な生活が理想とされる。けど、わたしはこれにとても懐疑的。時代を逆行するような物言いかもしれないが、男性には男性の女性には女性のそれぞれの美点があり、双方は補いあってはじめてひとつの球体になるのだと思う。

わたしのまわりには、二十代から四十代の独身女性が大勢いる。なかにはいちど結婚をして、早くも離婚して独り身を満喫している強者もいる。そして職業も国籍も男の趣味も違う、彼女たちが同じように口にするのは「ひとりはラク」ということ。男に気をつかって生きるなんてもうこりごり、一歩身を引いて男をたてる時代なんて石器時代の昔よ。そう、あっけらかんと笑う。そして年末年始には気の置けない女友達と、上海、ソウル、グアム、台湾、香港と経済不況でも気軽に行ける海外旅行をエンジョイする。じつになんとも逞しい。いまは草食系男子という言葉が巷間をさわがせているが、それに比例して、女性マチズムとも呼べる現象があきらかに増えているように思う。

しかも彼女たちは、本当に、強い。社会的成功をおさめる男性マッチョたちが、いざ縁の下の力持ちな女の存在がいなくなると、とたんに折れる内的脆弱さを抱えていることが多いのに対し、女性マッチョたちは誰の力も借りず、独りで立ち独りでへいちゃら。でも、ここにひとつ見過ごせない弊害がある。たとえどれほど独りでいて平気でも、独りでいつづけると女は精神的に無精になってゆく。わたしはこれでいいのよ、わたしはこういう人間なのよ、と自分の煩悩のままに生き続けるようになってしまう。そしてこれが数年放置されると、自分への戒めも込めていうのだが、多くの独女は女でなくなる。社会的には女という区分けで分類されながらも、無性の動物と化していく。

だから、女は女で居つづけるために男が必要だし、男は男として逞しく生きるために女が必要。これがわたしの男女同権論ならぬ男女共存論。目は二つあってはじめて、世界の奥行きを認識できる。それと同じで、男と女も二人でいるからこそ、世界や社会や自分への理解が深まっていくように思う。ラクというのは「なにもなくて平穏」という生き方だ。だが信頼があれば「なにがあっても平気だ」という二人の生き方ができるように思う。まあ。これはとても実現がむずかしい究極の理想論かもしれないけれど。

今日でわたしは32歳の女になった。でもまだ完全な一個の球体にはなれていない。その事実に対しての深い深い自責の念と、愛を信じつづけたい絶望ぎりぎりの希望と、たまに災いを招くわがままな頭脳と無技巧な心をうまく制御して、これからまた新たな1年を過ごしていきたいと思う。

(December 19, 2009)

Posted by iwaki : 23:47 | Comments (0)


思考と表現とシエンツァ

最近、東京はずっと天気がいい。そして、太陽を浴びているとなぜか思考が止まらない。
そこで日光量と集中力の関係性について考えはじめてみる。次に、仕事環境とストレスについて考える。ストレスから、良質な睡眠について考える。またiPHONEアプリケーションのスリープサイクルで自分の睡眠サイクルでほぼレム睡眠がないことについて悩み考える。夜、恋愛について考える。ポルトガル人の知人が「愛されたい、恋愛受動態男子が増えている」と話していたことについて考える。でも愛されることより愛することが、生きがいを充たしていくんだろと漠然と考える。みぢかな人間関係の客観性について考える。理性の基盤となる謙虚さが自分には足りないことに気づき考える。サン=テグジュペリの「夜間飛行」と孤独感について考える。モリエールの「成り上がり者」で「ひとは食べるために生きているのではなく、生きるために食べているのである」という一文について考える。その流れで身体づくりのため、新しいジムを選び通いはじめる。そして走りながら呼吸法について考える。よい呼吸ができているときは読書が捗ることについて考える。フランス語の教師と「読書」についての日仏での意識的差違について語り考える。教師の持ち馬ロッキは寒いほど乗馬コンクールで好成績を残せるらしく、冗談で地球温暖化と乗馬成績の相関関係について笑い考える。デモが続くコペンハーゲンのCOP15と、いまの東京の九月の秋晴れのような天気のよしあしについて考える。

考える、考える、と書いてみたが。これだけいろんなことを上辺意識で考えていると、じつはなにも考えていないのではないかとも思えてくる。あるいは、その底になにかひたひたとすべてがつながる統一欲求があるのではとも思えてくる。考えることは愉しい。頭脳労働はわたしの仕事の一部でもある。だがそれをなにか形にして生産しないと、煙のように思考が流れては次の瞬間には消えてしまい、なんだか不毛な気持ちにもなる。急ぎすぎてかたちにすると、自分の思考を裏切ることにもなるため気長に待つことも必要。だけど待ちすぎて完璧を望みすぎても、せっかく溜まった思考の流砂をむだにしてしまう。小さくてもいいから「どう、これ私が作ったのよ」と主張する砂山を作ることが大切。ダ・ヴィンチもこんなことを言っている。「考えているだけでは不充分で、それを口であろうとペンであろうと画筆であろうとノミであろうと、表現してはじめてシエンツァ(知識)になる」。

(December 14, 2009)

Posted by iwaki : 22:42 | Comments (0)


神谷美恵子と前進の日々

神谷美恵子の著書でおもしろい事実を知った。そこに書かれていたのは、安定への欲求と自由への欲求、という人間が抱えるふたつのアンビヴァレントな行動指針に関する一文。噛み砕いて語るなら、人はどうしても生き物として、このふたつの要素を天秤にかけると、ゴロンと怠惰に安定のほうに傾いてしまうよう設計されているのだという。なぜなら「生物の系統発生的な進化の序列のなかで、あとから発生したものほどモロい」という事実があるから。安定への欲求は脳内の旧い皮質で司られ、自由への欲求は大脳皮質でももっとも新しい前頭葉から指示で司られるため、どうしても安定が勝ってしまうのだという。そしてその安定欲が満たされたのちに、はじめて、自由への欲求の枝葉がのびのびと広がっていくのだそうだ。

これはとても納得がいく。精神面であれ、健康面であれ、経済面であれ、人は何かが大きく揺らいでいるときは新しいチャレンジなどとうていできない。バランスを保つので精一杯で少しでもつつかれたらグラついてしまう。「よしここは安定しているぞ」と信じられるベースキャンプがないと、様々な困難が待ち受ける山頂へのルートなど目指せないのだ。ただ、ここにはひとつ落とし穴がある。ここは安心だぞと分かったとたん、その場で毛布にくるまり、ながながと居座ってしまいたくなる思いもたまに出てくるからだ。それはそれで避けねばならない。なぜならいくら食料がふんだんにあるキャンプでも、いつかは物資の底は尽きる。やはり人生は新たな天地をめざして、たえずタフに前進していかなきゃならないようできているのである。

それに、前進するのは苦しくも楽しい。ここ三日ほど「思ったことは全部やる方式」でバシバシ行動する日々をつづけていたら、逆に自分はちょっとネジが足りないんじゃないかと思えるほど、頭がからっぽに清々しくなった。そして予想以上に前進できそうな自分に妙な好奇心が湧いてきた。ところで最近、やや自己啓発的なブログになっていることが我ながら気になる。放っておくと生活がおろそかになり精神に傾いてしまう癖がわたしにはあるので、今後もうすこし、政治や文学や経済などについて学んだ知恵も書きつづっていこうと思う。ちなみにいまは宮台真司さんと福山哲郎さんの共著『民主主義が一度もなかった国・日本』を熟読中。無駄な文がまったくない社会知が詰めこまれた新書。日本で生きる大人として、きちんと信頼にたる基礎知識をかためておきたい。

(December 10, 2009)

Posted by iwaki : 00:23 | Comments (0)


ーーーー

アイルランド大使公邸のパーティに呼ばれていってきた。そこでひとりの男性にあった。知らない人である。彼は一時間あまり自分のことをずっと話していた。とても気持ちがよさそうに話していた。切るに切れなくなってしまった。彼は最後に「ありがとう」といって去っていった。私はなんとも言いようのない寂寞たる気持ちになってしまった。ありがとう、って確かにあなたはそうかもしれない。でもわたしはあなたの何なのさ。こちらの今日という日に、どんなことがあったかも知らない人間にこれだけ無防備に話せるってすごい奴だと思った。でも私はわりとこういう目に会う。どうしようもない男のたわごとにつきあわされる。それを切ることができない。完全な自分の弱さである。怒るという正当な感情、が生み出せるようになるまでには時間がかかるのかもしれない。でも私にはそれが足りない。怒りを論理化できない。すこし支離滅裂なブログです。支離滅裂なときに何かを語るのは危険なので、すこしブログを閉鎖します。書くことが感情的でなくなったら、また再開します。

「理詰めで物事を考えることによって、
 新しい発見をしたことは、私には一度もない」(アインシュタイン)

「幸福が、それを喚び起させた欲望のうえに
 ぴったりと重なることは極めて稀だ」(プルースト)

「理性は公平な判断を下すことを望むが
 怒りは下した判断が公平に見えることを望む」(セネカ)

(December 5,2009)

Posted by iwaki : 00:31 | Comments (0)


お金と人間の主従関係

「デッド・キャット・バウンス」(死んだ猫の跳ね返り)という奇妙なネーミングのアメリカ+ドイツ合同ユニットによるパフォーマンスを観た。これは「金融ドキュメンタリー演劇」とでも名づけられる見世物で、公演当日、その日のボックスオフィスでさばかれたチケット代が、舞台上でネットを通じてすぐさまロンドン証券取引所に投資される。目標は、公演終了までに1%の収益を出すこと。よって観客は1時間半にわたり、株式トレーダーが使用するダイアグラムやグラフの映像とにらめっこ。自分たちが投資した株銘柄が、1ペンスあがれば喜び1ペンスさがれば悲しみ、喜怒哀楽がふんだんに取り込まれた即席ドラマのいっちょあがりというわけだ。

そんなあけすけにお金のことで感情を高ぶらせるなんて、と思われる方もおられるかもしれない。けれど当日、劇場にいた客は誰もが少なからず金に心を乱されれていた。そして引きこもりのような生活を送るデイトレーダーが、一日中いっさい社会と関わりを持たず誰とも口を聞かずに働きながら、運のいい日には「並のサラリーマンの3ヶ月分の給料を稼ぐ」と聞いて、労働の対価として金をもらうという経済システムが完全崩壊していることに怖気を覚える。しかし本当にいったい、お金ってなんなんだろう。

たいがいの人は生活費を稼ぐために仕事をする。でないと、食事をしたり、家賃を払ったり、旅行に行ったり、衣服を購入したり。つまり生活をそれなりに人間らしく送れないからだ。けれどたとえば、ダンナさんが地方に単身赴任をしている夫婦の場合。互いにひとりぼっちはやはり寂しい。じゃあ赴任先でいっしょに住めばいいじゃない、と思う。けれど奥さんも東京に仕事場があったらそうもいかない。こんな事情が、現代ではあたりまえのように存在する。でも本当にこれは「あたりまえ」として看過すべきことなのだろうか。

ショウペンハウエルは「すべて物事を局限するのが幸福になるゆえんである」と説いた。噛み砕いていうなら、できるだけ行動範囲を狭くすることが幸福への早道だよといってるわけだ。現代は情報に溢れている。日本の寒村で暮らす男の子が、インターネットで情報を得てスウェーデンの家具職人を目指すことも可能だ。けれどこのポテンシャルの無限膨張化のすえ、人間関係の物理的距離が遠く離れてしまうことがある。端的な例をあげるなら、このあいだ知りあったオランダ人女性は、3人の子どもたちがそれぞれ、アムステルダムと、東京と、ニューヨークに散らばっていて、パートナーとも離ればなれで月末にだけ会うのだと話していた。「仕事場がそれぞれ別の場所にあるから、しょうがないわよね」。確かにそうだ。仕事は人生の大きな部分を占める。でもこんな話を聞くとたまに、人間はお金によって生活を「コントロールして」いるのか。あるいはお金によって生活を「コントロールされて」いるのか。金と人間の主従関係に、疑問に抱いてしまったりする。お金と権力にコントロールされない生き方を選んでいきたい、とつねづね思う。そして自分の愛する人たちに囲まれて、日々を楽しく過ごしたい。

ところで話は変わるが、最近、日本における輸入チョコレートの物価高に驚かされている。フランスで買うと200円ぐらいの板チョコが日本では480円。単なるスーパーの板チョコが、日本では高級嗜好品だ。この頃、毎日ダークチョコの欠片を味わうことが些細な幸せにつながっているのだが。買うべきか、買わざるべきか。ちいちゃなところでも人は、お金によって悩まされる。ああもう、めいっぱい美味しいチョコが食べたい。

(November 27, 2009)

Posted by iwaki : 14:16 | Comments (0)


NYとアートと七つの大罪

先日、ニューヨーク在住の知人からメールをもらった。現在<PERFORMA>というほぼ無料の巨大パフォーミング・アーツ・フェスティバルが開催中で、毎日、街中のいたる場所がちょっとクレイジーなことになっていて「おもしろい」のだという。少し調べてみたところ、この基礎予算額150万ドルの低コストフェスティバルは伝説的なカリスマ美術史家で、NYの前衛劇場Kitchenのキュレーターとしても名をはせた、ローズリー・ゴールドバーグ女史が04年に立ちあげたビエンナーレ・フェスティバル。11月現在、マンハッタン&ブルックリンで100以上のアーティスト集団が、130以上のプロジェクトを、約80箇所で、2週間にわたって開催しているようだ。そしてニューヨーク在住の彼の情報によるとタイムズスクエアで行われたオープニングイベントでは「アート・リンゼイが50人のトレンチコートを着たダンサーに、携帯音楽でダンスを踊らせた」らしい。ふむ。この情報を聞いたとき、たしかに興味深いフェスティバルではあるのだろうけど、やや状況に懐疑的になった。なんだか少し、本来の意味でのアートとは異なる消費社会の匂いがするのだ。

数日後ーーこのわたしのぼんやりとした懐疑心を、さらに輪をかけて懐疑的にする底抜けな情報を得た。このタイムズスクエアのオープニングイベントに先駆けて「500人のお偉いさんだけを対象にした、会費300ドルのディナー・イベントが行われた」というのだ。しかもそのおもてなしぶりが、暴食で強欲で虚飾で傲慢で、七つの大罪ここに健在ともいうべき酒池肉林ぶり。詳細を語るなら、その宴席ではまず、貨物エレベーターいっぱいに埋め尽くされたアルコールドリンクで客はもてなされ、メインコースにはひとりあたり20000ポンドのバーベキューがふるまわれ、デザートには林檎の木が2本室内に担ぎこまれると同時に、ジェフ・クーンズの風船うさぎを模した巨大チョコレートが登場したという。しかも極めつけには、天井からつねに蜂蜜がたらたらと垂れ流されていたというからーーバカげている。

たとえディナー会費がそのままフェスティバルの運営費にまわされるとはいえ、また国家が芸術支援に熱心な欧州とは異なり、企業や個人資産家から予算投資してもらわなければフェスティバルがきりもりできないとはいえ、果たしてこんな遊蕩ディナーパーティーでお偉いさんをもてなす必要があるのあろうか? 個人的な推論をいうと、数ヶ月前にひさびさにニューヨークに降り立ち街を見てまわったときにも漠然と思ったことなのだけれど……、この街では「アートがファッション化している」ように思えてならない。つまり金がうなるほどある一部資産家が「セレブぶるための道楽」として、アルマーニのドレスやルブタンの靴を入手するのと同じように、アートというステータスシンボルが存在しているように思えてならないのだ。

だからかこのPERFORMAの取材記事も、とても知的でおもしろいプログラムも組まれているものの、どこか「びっくりニュース」的な報道をされていることが多い。NY TIMESの記事でさえ、一部、オモシロちゃんたちがオモシロいことをやってるらしいわよ、という下世話な匂いがドコカする。きちんとアートそのものを、フェスティバルそのものを、アカデミックに真摯に評価している記事というものはあまり目にしない。

そもそもオバマ大統領の専属アートコンサルタントに、女優のサラ・ジェシカ・パーカーとVOGUE編集長のアナ・ウィンターが選出されるような国である。この国では、アートがファッションとして消費されるのではなく、純粋にアートとして思考されるのは、予想以上に難しいのかもしれない。

PERFORMA >> http://www.performa-arts.org/

(November 22, 2009)

Posted by iwaki : 08:18 | Comments (0)


耳たぶと朝靄の孤独

朝だというのにまるで黄昏時のような薄暗い陽がさしこむ異国のアパートで、女は、男の耳の裏を眺めていた。厚くぽってりとした愛嬌のある耳たぶと、生まれたての赤児のようにうっすらと産毛でくるまれた耳殻。静寂の室内に響く厳かな彼の寝息とともに、僅かながらその耳がぷるると振るえる。その臆病なうさぎのような振るえを目にして、女の目には涙が浮かぶ。この愛しい生命とわたしのあいだには腕一本の物理的距離もない。なのにそれに触れることができない。ちくしょう、ちくしょう。なにかくだらない呪文を信じるかのように、女は、相手と自分の呼吸を布団のなかで無心にあわせてみる。吸って吐いて、吸って吐いて。ばからしい。だからといって相手と自分の体があわさるわけではない。声をださずに「さびしい」とぶっきらぼうにつぶやいてみる。その行き場のない言葉は、いまの空気にそぐわぬほど陽気な、亜熱帯な南国果実の匂いのする男の脇下あたりに無残に吸い込まれていく。

眠りたいわけではない。だが、女はふたたび目を閉じて睡眠に身を任せてみようと試みる。そうすることでなにか問題が解決でもするかのように。無意識の闇に逃げこもうとする。けれど両目を閉じても、光の透ける瞼の裏にはつぎつぎと乱雑な思考が擦過するばかり。平穏な眠りは遠のいていく。女の意識が、女自身を決して静寂のなかに落ちつかせてくれない。いや、もっと真剣に、丁寧に、集中力をもって瞼を閉じればこの凍えるような冷たさが身から去ってくれるはずだ。そう思って再度、目頭にぎゅんと力を入れてみる。だがその眉間の無為な努力で得られる成果は、眠りとは真逆のやぶれかぶれな意識の覚醒だけ。なんてサガンのように孤独な朝だろう。と、阿呆みたいにセンチメンタルな言葉を心で漏らす。そのやさきに、なぜか、向こう岸から、なかば無自覚な男の腕が女の肩を引き寄せる。あ。声が漏れる。

その声が、室内にたゆたう朝靄と埃のなかに完全に消えてなくなるまえに。女のうちで、優しい涌き水のようななにかがみちてくる。さきほどまで鋭く痛々しく存在したあの孤独のかわりに、大地のような許容と、それを追う小さな拒絶が、心のなかで揺れうごく。そして女は、強烈に、一心に、まるで子どものように不器用に祈る。これ以上の拒絶はいりません。束の間ののち、温かな受容の海がすべての複雑さを呑みほしてくれますように。

(November 20, 2009)

Posted by iwaki : 23:38 | Comments (0)


基礎練習と検定試験

時差ボケで最も烈しい睡魔に襲われる時間帯に、フランス語検定試験というものを受けてきた。試験なんて十年ぶりぐらい。でもせっかく日々、フランス語に触れる機会が多いのだからこれを機にしっかり身につけてやろうと、嫌いな試験を受けることにしたのだ。いちばんの収穫は、試験に受かる受からないではなく、バットの素振り練習のような基礎練習に打ち込む期間を設けられたこと。つまり、文法や、動詞変換や、基礎単語といった、単純で退屈だけど、とても大切な知識を身につけられたことだと思う。

わたしは天の邪鬼な性格もあって、誰かに教わったり、学校で習ったり、ということをされたとたんに勉強する気が失せてしまう厄介な人間。自分の意志で、やりたいことをやりたいようにやる。それを続けることが、自分にとっていちばん効率がいいということがよくわかってきた。そこでここ数ヶ月ほど、好きなようにフランス語を勉強していたのだけれど、そうするとどうしても即戦力な勉強方法に偏ってしまう。会話をしたいなら、誰かフランス人をつかまえて話す。本を読みたいなら、自分の好きな作家の小説を無鉄砲にも原語で読んでみる。いうなれば、最低限の防具一式も揃わないうちに戦場に出てしまうわけである。

でも、これはやっぱり戦いづらい。ちっぽけなハエ叩きしか持ってないのに、刀剣をもった相手と五分に渡り合おうとするのだからあたりまえだ。で、検定試験一週間前になってはじめて嫌いな文法に手をつけてみる。動詞変換も地道にノートに書き写してみたりする。と、これが意外におもしろい。あっ、このあいだの会話で使ってた、あの単語はこういうふうに書くのね、なんて耳から入ってきた生半可な知識がひとつずつ血肉化していく。

そしてなんであれ基礎練習は大切であることを再認識。わたしはいつも、とりあえず実戦の場に出て痛い目を見て、それで自分の足りないところを後追い的に勉強することが多い。それで、とりかえしのつかない過ちを犯すこともしばしある。だから、もういい大人なんだし、あまり痛い目をみないですむように、もう少し段階を踏んだ勉強方法を試みてみるのもいいかもしれない。

まっすぐ勉強して、まっすぐ知識が身につくのはとても気持ちがよい。
そもそも私は不器用だから、どんなことも、人よりもいっぱい勉強して失敗しないと、
あたりまえのことさえ身につかないのだ。謙虚にこつこつ進んでいこう。

(November 15, 2009)

Posted by iwaki : 20:51 | Comments (0)


帰国、しきる

ロンドンとパリの旅を終えて、これから日本に帰国します。
ここ二年半ほど旅人のような人生を送ってきましたが、
その考えを少しいま見直そうかと考えています。
だから今回は、いちじ帰国ではなく、帰国しきります。
そして腰を据えて、自分の人生になにが必要か見直そうと思います。

海外生活をつづけて、気づいたことは以下のようなこと。
1 どこにいても自分からは逃げられない
2 故郷とは、土地ではなく人のこと
3 日本の利便性と欧州の時間感覚の両方を愛している
4 短期的な刺激物に溺れず、仕事や人間関係を長期的に構築することが好き
5 人は自分と違うものを見ている

ぜんぜん、たいしたことに気づいてない。あたりまえのことばかりです。
とにかく、心に余裕のある女になれるよう努力していこうと思います。

(November 12,2009)

Posted by iwaki : 02:49 | Comments (0)


二年前のロンドン

英国ロイヤルバレエ団の取材にくるのは約二年ぶり。たったの二年という時間だというのに、それがとんでもなく大昔に思える。きのう、同じコヴェントガーデンにある、同じカフェで、同じようにエスプレッソをたのんで考えごとにふけっていたのだけれど。いやはや、二年前の自分はバカみたいに子供だったねぇと、とんまな記憶がよみがえってきて、ひとり阿呆みたいに薄笑いをうかべてしまった。

ただ二年たっても変わらないのは、どうにもこうにも、個人的にこの街が好きになれないということ。どうしても人が、自由に呼吸して生きている印象がしないのだ。それは日本人の不自由さとはまた違う窮屈さ。日本人は、いまめいっぱい自由に呼吸したら「死んでしまうのではないか」と思って、逆に呼吸を止めることでいっそう苦しくなっているような感じを受けるのだけれど。このロンドンの街の人たちは、いっけん自律的に呼吸はしているように見えるのだけれど、そのじつその酸素のすべてが人工呼吸器から送りだされているような印象を受けるのだ。

たとえば経済に関していうなら……時間を金のために切り売りして生きている、いや、切り売りして生きるよう制御されているような恐ろしさを感じる。金を得る手段にはおもに三つ。1)時間を売る方法、2)創造物を売る方法、3)利子で儲ける不労所得の方法。そしてこの街では3の人たちが、1の人たちをコントロールして儲けていて、しかも2のカテゴリーの人たちが自由に生きる空間があまりにもない。だからせっかく、ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツに現代彫刻家アニッシュ・カプーアの個展を見に行ったりしても、その作品が純芸術的な意味で圧倒的な美しさをたたえているだけに、そのまわりの些細なところで資本家の匂いを嗅ぎつけると、なんとも厭な思いにつつまれたりする。

また、この独特の窮屈さは、長きにわたりキリスト教の宗主国であったという宗教観とも関わるのかもしれない。行きの飛行機で、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、という世界で幅をきかせている三大一神教の本を読んでいたのだけれど。読後、キリスト教原理主義者のもっとも恐ろしいところは「自分はまったく変わらずに、他者を変えようとするところ」にあると感じた。しかもそれを完全なる善行だと思っている。

けれど、もちろんイスラム教のほうでは「別に変えなくてもいいじゃん」と思っている。なぜならイスラム教にはカダル(天命)という考え方があるから。もし神様がすべてイスラム教になるべきだと考えているなら、今の世界はすべてイスラム教になっている。でもそうなっていないということは、それも神様の思し召しであるから。ほかの宗教にも存在意義があるし、それはそれで共存して生きていけばいいじゃないと思っている。

またユダヤ教のほうでも「別に変えなくてもいいじゃん」と思っている。そもそも自分たちは絶対神エホバに選ばれし民で、ユダヤ人ならみな無条件に神に救われるという選民思想があるから。神の息子イエスを崇めるキリスト教徒に手をさしのべてもらわなくても、いっこうに構わないと思っている。

だけど、キリスト教では、たとえばすべてのユダヤ人をエルサレムに集めて改宗させないと「救世主が再臨しない」という不都合な考え方があったりするから。必死にいま米国の福音派クリスチャンたちなどがユダヤ人をイスラエルに集めたりしている。本当はむちゃくちゃエゴイスティックな自分たちの利益のためなのに。善行ぶって親切の手をさしのべている。

話が長くなったけれど、私はロンドンで、このキリスト教的な宗教観と同じうわべの親切心をよく感じる。もちろん心から親切にしてくれる人たちもいる。とくに田舎に行けば大勢いる。けれどもここロンドンでは……、なんだろう、やっぱり、そういう計算高くない素朴な英国人にはあまり遭遇しない。自分たちは絶対に正しくて、相手を変えることで、世界をよりよくする。よりよくしていると思いこんでいる。そういう環境に対する順応性のなさ、力ですべてをねじ伏せようとする態度が、なんとなく、経済システムとはまた別のところで、この街の人々の生き方を窮屈にしているように思えてならない。

私はこの2年で、他人ではなく自分をささやかに変えてみた。
そしたら世界がささやかに変わった。
他人ではなく自分を変えたほうが、世界は早くよくなる。

(November 3, 2009)

Posted by iwaki : 17:59 | Comments (0)


遊び上手は仕事上手

気づいたら今月は二日に一本のペースで原稿を書いている。いくら書くことが好きだからといって、これはやりすぎ。さすがにパソコンに向かうことが億劫になってくる。そして億劫になると文章もろくな代物じゃなくなってくる。それが分かっているので、最近は疲れたらあえて気晴らしをするようにしている。

別にたいしたことをするわけじゃない。部屋にある巨大窓を全開にグータラに半刻ほど昼寝をしたり、まえまえから興味のあった源氏香のワークショップに参加してみたり、豆乳をつかったスムージーをみずから開発してウマイとほくそ笑んだり、デヴィッド・リンチの映画を見返してパトリシア・アークエットの淫靡なおっぱいに同性ながらに惚れぼれしたり。とにかく自分がここちよいと思えるひとり遊びに耽る。そうするとエネルギーが充填されて、さっきまで書いていた原稿にも新鮮な気持ちで向かいなおせる。昔は締切が迫っていると、たとえなにも文章が頭に浮かんでこなくとも「パソコンのまえに座りつづけていなければ」と強迫観念にかられていたけれど。最近は逆に、気分を切り替えて15分でも30分でもいいから真剣に遊んじゃうようにしている。

つまりなにか脳内に、適度な、快楽物質が放たれる行為にいそしむのだ。すると不思議や不思議、爽快なスタートを切ったアルペンスキー競技者のように、すいすいと筆が運びはじめることがある。遊び上手であることは、仕事上手につながる。これは最近のわたしの勝手な仮説だ。

最近ニュースで日本人の年間労働時間は1900時間にものぼると知った。ヨーロッパのそれが平均1300時間なので、その差はなんと600時間! 一日七時間労働だとすると、日本人はヨーロッパ人よりも、約85日分も多く働いていることになる。これは一年の約1/4の日数だ。でも労働時間がただ多いことが、生産性をあげること、あるいは経済を活性化することに、そのままつながるかと考えるとちょっと疑問。最近、会う人会う人、金と時間のなさにちょっぴりヒステリックになっているので「少しぐらい気晴らしに遊んじゃったほうが、気持ちに余裕が出ていいなじゃいの?」とノー天気な私は無責任に考えてしまったりする。まあこれは個人的な意見なので、全員にあてはまるとはもちろん思わないけれど。今日の東京はピーカンの晴天。こんなにお日様がごきげんなときに、カフェテラスでおいしいコーヒーを飲む時間も持てなかったら嫌だな。

(October 27, 2009)

Posted by iwaki : 22:21 | Comments (0)


いまどき大学生雑感

大学生という人種に、ひさびさに接してきた。
主目的はある大学教授を取材するため。そのため四谷にある大学キャンパスを訪れることになったのだが、この取材仕事とは別に、天気もいいことだしキャンパス内をほっつき歩いてみることに。そして観察すること数十分。この大学だけの特徴なのか、いまどき大学生全体にいえることなのか、なかなか興味深い特徴が見えてきた。

まず、男の子と女の子が別々に歩いている子たちが多い。特に男子の二人連れ。男女混合グループというものがあまり見あたらない。また予想外に独りで歩いている子の数も多い。ふーん、なんだか私が大学生だったころとは違うな。昔は、それがいいか悪いかは別にして、もっと大人数で群れているグループとかを目にしたけどなぁ、と不思議な感想をもつ。

観察だけでは好奇心がおさまらなかったので、のちに、キャンパス内の関係者に少し質問をしてみることに。「最近の子たちは、あまり群れないんですか?」すると「いちがいには言えないけれど割とそうかもしれないですね」との曖昧な答。まあ、そりゃそうだ。でもそれじゃ答えとして物足りないので、少しつっこんだ話をすること数十分。「あ、それはおもしろい」と聞いていて思ったのは、現代っ子たちのコミュニケーション法についての分析であった。

まず特徴としてあげられるのは「自分から意見を言う子が少ない」こと。そしてさらにおもしろいのは、意見を求められて意を決してそれを口にすると、その意見が、かんちがいだろうが間違いだろうが「絶対意見として頑なに曲げない子が多い」ということ。つまり、ディスカッションをすることが不得手な子が増加しているのだという。

かくいう私も、あまり人とディスカッションをするのは得意ではない。反対意見を言われると、つい最近までぷんすか頬をふくらまして、ふて腐れたりすることもあった。でもそれじゃ世の中まわっていかない。ということに、最近ようやく気づく。

自分の考えを自分の言葉でつむぎ、しかもそれを相手に届ける。それができないとコミュニケーションは成立しない。なぜなら会話とは、発話者の放つ言葉ではなく、受信者に届く言葉で質が決まるから。とはいえ、これが言うは易しで非常に難しい。私も大学生のときに、下手に頭でっかちな学問をまなぶより、こういうストリートワイズな知恵を積んでいれば、大人になってからもうすこし痛い思いをせずにすんだかもしれないのにと考えてしまう。

つい先日、大女優の草笛光子さんに取材をさせていただいた。そのとき草笛さんが印象深い言葉を語ってくれた。「私は劇作家の菊田一夫先生と、いちばん喧嘩をした女優だと思います。喧嘩をして干されたりもしました。でもそのぶん互いに愛情も深かった」。真っこうから自分の意見を言う喧嘩をして、それでいて後腐れがない。むしろ縁が深まっていく。そんな情の深い昔気質な人間関係に、草笛さんの話を聞いていて、私は密かな憧れを隠せなかった。けれど、いまの大学生たちを見ているとそんな時代が返り咲く可能性は今後も少ないような気がする。

敵味方で対峙するのではなく、考えなしに同調するのでもなく、また醜く自己顕示欲を垂れ流しにするのでもなく、ただまっすぐに気持ちの良い会話がしたい。「会話」をしたい。

(October 15, 2009)

Posted by iwaki : 00:34 | Comments (0)


イニシュマン島の静寂 1

極東から極西へ、アイルランドの西の果て、アラン諸島へ旅してきた。芝生が生える音が聞こえるかと思えるほど静かであり、虚勢や見栄や尊称といった対外的な利益のためにおこる争いごとから無縁に穏やか。ただ人々が太陽が昇ってから沈むまでの時間を丁寧にすごしているだけの僻地の島。否応なく「Living」という単語の意味をあらためて考えさせられざるをえない、純精神的に充実した旅をすごすことができた。さてこの清心な感覚がすっかり自分の身から抜け落ちてしまわぬうちに、文字に書きおこしておこうとおもう。

まずは島の概要から。アラン諸島とは、イニシュモア(モア=大きな島)、イニシュマン(マン=真ん中の島)、イニシュエア(エア=東の島)の三島からなる小島群。「ゲールタクト」という現在ではアイルランドでたった2%しか残存しないゲール語使用地域として有名で、喉の奥で微かにうめくような持続低音を響かせる「グラマハァグットゥ」という鈍色の挨拶があちこちで交わされている。旅の初日に降下したのは、三島のなかでも約160人ともっとも人口の少ないイニシュマン島。本土コネマラ空港からエアー・アランアイランズの小型プロペラ機でたった7分の飛行時間で、「飛ぶ」というよりノミのように「撥ねて落ちる」感覚で岩盤の大地に降りたった。

タラップを降りると、そこには不純物のいっさいない完成された静けさがあった。
目にまばゆい真昼の海の群青色の水光りと、島中に積まれた石垣のあいだを吐息のように吹き抜ける風の音、そしてアイルランド語で「神様の涙」という名を持つ真紅の野花にたかる蜜蜂の羽音。「Silence is Golden(沈黙は金なり)」という警句はここアイルランドが発祥の地だと聞いたが、この島に降りたって、なぜ人々がかほど沈黙に価値を見いだすかが身に浸みてわかった。俗な無駄口を叩くだけで辺りいったいの空気が乱れてしまうのではと思われるほど、島全体をつつむ静寂に清らかさがあるのだ。

その静けさは、ヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂に張りつめる厳格で重厚な静けさとも、都内の漫画喫茶にただよう退屈腐臭と同義の無音とも異なる、軽やかに自然と調和したうえで口を噤んだ賢明な大地。島に降り立ちものの一分で、この静けさを破壊せずに暮らすことが島民の暗黙知のように思えてきた。これはなにも人間だけに言えることではなく、島で飼われる家畜や家禽たちにも同じ知がうかがえた。牛であれ、馬であれ、アヒルであれ、イニシュマンの静謐さのなかでは無駄な言葉を漏らさないのだ。孤独に慣れ親しんだ動物たちは、なにも用がないときにはただ黙る。そして用事を訴えたいときには、人が来るまで単調に控えめに啼きつづける。

たとえば散歩途中にたまたま出逢った一頭のまだら模様の乳牛は、石垣に囲われた放牧地のなかで、五分に一回「オォーイ」と、丘向こうの飼い主になにか不意の事態を訴えるかのように、脳髄が漏れるような大声で定期的に呼び声を張りあげていた。なにかことが起こるかと、こちらも半時間ほど石垣に腰掛け眺め続けていたのだが、飼い主があらわれる気配はなく、されど彼は焦る様子もなく両足を大地にふんばり辛抱強く呼びつづけていた。あるいは、民宿前の電線に朝9時になると定期的に留まりにくる数十羽のコマドリたち。彼らはピーチクパーチクありきたりな鳴き声をいっさいあげることなく、等分に配列され糸を通された美しい首飾りのように横一列にならび、穏やかに日光浴を愉しむかのように数分休息しては去っていった。私は、これほど意志と秩序のある賢い動物たちを目にしたことがない。

どうやらイニシュモアの一日を満喫するためには、まず自分の内面を凪いだ静寂に変えてみせる必要があるようだ。そこからしか体感できない美しい何かがこの島には確実にある。


写真入りの旅行記はこちら >>http://kyokoiwaki.com/ARTicle/

(October 10, 2009)

Posted by iwaki : 01:56 | Comments (0)


アラン諸島と精神美

海と石と蘚苔しかない人口数百人のアラン諸島から、ゴールウェイというこぢんまりとしたアイルランドの町と、イギリスのロンドンを経由して、フランス・パリに文明帰還して今日で二日目。急激な情報量の変化に脳の処理速度がおいつかず眩暈を覚え、サラダ・コンポゼの野菜に死んだ物体の苦味を感じ、自分の五感がいかにアラン諸島で研ぎ澄まされていたかを実感しているしだい。実際、この島ではかつて修道僧たちが自分の身を浄化するために7年ものあいだ孤独に滞在したという。いわば島全体が、体と頭を浄化するためのデトックス禅寺のように機能していたわけだ。

島から文明回帰して、都会の定義、としてまっさきに頭にうかんだこと。それは人が人を信じるのではなく、疑うことが先にたつということだ。人口が増えれば知らぬ顔も増える。不可避的に信頼関係を築くよりも、危険回避が至上命題になるわけだ。だからアラン諸島からフェリーとタクシーを乗り継ぎ、ゴールウェイに足を踏み入れて、監視カメラが設置されていたり、警官が闊歩していたり、また信号が忙しく点滅していたり、……という都会ではあたりまえの日常風景に新鮮な驚きをおぼえた。そうか、人は人を傷つける可能性があるんだ、というアラン諸島ではきれいさっぱり忘れていた「都会モラル」がちくちくと痛む棘を伴いながら体にはいりこんでくる。

島で話をしたパドレイクさん(アイルランド語読みではポーラクさん)という、かつてドゥーン・エンガス(高さ約90メートルの断崖絶壁にある先史時台の砦)という観光名所で働いていた男性の話によると、アラン諸島にも警官の存在はあるもののほとんど仕事はないという。「あえていうなら、ドゥーン・エンガスの石垣の石を、観光客が崖っぷちから海に放り込むのが困ることぐらいだね」。いかにも平和な島である。

人は都会にいくにつれ、社会との摩擦がふえて暴力的になるのかもしれない。
今日はパリの13区で、ヨーロッパ全土の移民問題を改善するためサルコジ政権とまっこう対峙するNGO団体CIMADEの広報関係者に取材をしてきたのだが、彼女は「人を人として扱わないこと。それが暴力の源になる」と語ってくれた。

たしかに人は、たとえちょっとしたことであっても、人に軽視されたり、見下されたり、侮蔑されたりすると、えもいわれぬ怒りを覚える。階級、見栄、名声、地位、といったちっぽけな勲章にすがるために人は人を傷つけるのだ。だが村中の人たちが知り合いのアラン島では、虚勢をはって生きても意味がない。人を拒絶して生きても意味がない。

「人は裸で生まれて、裸で死んでいくの。だから私にとってはどんな人も同じひとりの人間。相手を許容して、一緒に生きていくだけよ」

これは島でいちばんのアランセーターの編み手であるメアリーさんの人生哲学。彼女はこの哲学どおり、自分のセーターショップにシャロン・ストーンがお忍びで付き人と訪れたときにも、まったく同じように対応したという。それどころか、自分のセーターをセレブ自身は実際に手にとりもせず、付き人にすべてをまかせて購入していったため、いままで出逢ったなかでも最も礼儀をわきまえぬ非人間的な人間のひとりだと言いきった。

おそらくシャロン・ストーンは、パパラッチなどに追われる「人を信じられない」都会文明をたずさえたままアラン島に漂着してしまったのだろう。それでは、せかくアラン島を訪れても、この島が二十一世紀において奇跡的にたずさえている疑いのない「精神美」を吸収することができない。都会文明を身に纏ったまま戦利品のようにアランセーターを購入して帰って、それで果たしてアラン島を訪れたと言っていいものだろうか。

いろいろ、まだ頭のなかがごちゃごちゃと整理されていないが。言いたいことは「虚飾にみちたシティ・ライフと人間の暴力性」の関係性について、もっといろいろ考察したいということ。私とまったくかかわりのない場所で今日パリ・コレクションが開幕した、忙しない消費文化の大都市で、もう少しアラン島の時間感覚をたずさえたまま、思考をめぐらせてみたいと思う。

DSCF0598.JPG


DSCF0627.JPG


DSCF0647.JPG

(September 30, 2009)

Posted by iwaki : 21:19 | Comments (0)


文明からの隔離

原稿執筆に追われるうちに、疲労困憊し、熱に倒れ、なんとか復帰し、明日アイルランドへ。なんとか仕事も片が付いた。とりあえずよかったけれど、わたしは忙しくなると、頭のなかの整理棚が煩雑になり、行動も、会話も、仕事も、しっちゃかめっちゃかになる人間としての無精さがある。今はまさにそんな状態。なので、いったんきちんと、海外に出て頭脳を整理整頓してこようと思う。しかも明日から飛ぶアラン諸島は、そうした行為にはうってつけ。なんとインターネットが民宿ではまったくつながらず、しかも島全体でネットカフェなるものも一軒だけ。日本からもっていく携帯電話も不通状態だという。完全なる情報隔離状態。パソコンを1日とて離せない私としては、かなりの恐怖でもあるけれど。脳をリセットするには最高の環境だ。寂しくなりそうだな。本をいっぱいもっていこう。それでは現代社会のみなさん、一週間、隔離されてきます。

(September 21, 2009)

Posted by iwaki : 22:13 | Comments (0)


不景気駄文

現在の東京の失業率は5%ほど。そんなのたいしたことないじゃん、とこのブログでほんのひと月まえに書いた。だが、その言葉を書いた舌の根も乾かぬうちに真逆のことをいう。すみません。このデータはある面からみると嘘っぱちで、実はとてもたいしたことらしい。

というのもまずこの失業率というものが、よくは知らないのだが、日本では計算的に低く統計が出る仕組みになっているらしい。さらにここには「求職活動をあきらめてしまった人の数」は入らない。また「家事手伝い」といった肩書きの人間を「職がある」と捉えたうえでの計算になっている。だから、この表面的な失業率の影には潜在無職人口が氷山の底岩のように隠れるわけだ。

また失業者でなくとも、ワーキングプアの数は目にみえて(私のまわりでも)増えている。とにかく東京は人件費が安すぎる。一日必死に働いて、それで食えない最低賃金とはいかがなものか。しかも経営者はそれでもバイト代が高いと思うのか、このごろはサービス業の単純労働の多くが機械にとってかわられている。たとえば最近は、無人レジのコンビニやスーパーが徐々に普及していると聞いた。客が自分で商品バーコードを読みとって、自分で金を払って帰るのだ。二年ほどまえにイギリスで、これと同じシステムの、無人スーパーを見たときに恐れおののいた記憶があるけれど。まさかそれと同じシステムが日本でもこれほど早く導入されようとは。スーパーのパートのおばちゃんは、いったいどうやって食っていけばいいのだろう。

今日はいつになく駄文だ。でもあることに腹がたちすぎて、寝るに寝られない。怒り顔で床につくと美貌によくないと聞いた。朝、般若顔で起きるのは嫌なので、とりあえず怒りを活字として吐き出してから睡ろう。

(September 18, 2009)

Posted by iwaki : 00:08 | Comments (0)


先史時台へのトリップ

アイルランド最果ての地におもむくことになった。そのまえに原稿をしこたま書き上げなければならないため、最近、夜睡るころになるともうパソコンを見る眼がしょぼんでくる。気づけばずいぶんブログを書いていない。しかしアイルランドである。そして行く場所は、ダブリンでもコークでもなくちいさなちいさなアラン諸島。最近ではマーティン・マクドナーの戯曲でいちぶ演劇好きの耳にはなじみのある(しかし多くの人にとってはまったく知られていない)、イニシュモア島、イニシュマン島、そしてイニシィア島の、三つの小さな孤島からなる灰色の地を訪れることになる。三島のうちで最もおおきいイニシュモア島でも、人口800人ほど。イニシュマン……にも確かいく予定なのだが、ここはその半分も人影がないと聞いた。要は人より、牛や羊のほうが多いのだ。しかも石灰岩の岩盤でできた大地は、海から落差200メートルの断崖がそそり立つ不毛の地。島民たちはうっすらと地面のうえに敷かれただけの土が、強風で飛ばされてしまわないよう、必死に石垣を築き上げるという。いったい、どれほど未知の文明が残る国なのだろう。先史時台の巨石文化、いまだゲール語を話すケルト人たちの文化、寂しい波音と海藻の匂いと風の叫びにつつまれた吹きっさらしの大自然。期待はふくらむが食べ物はまずいらしい。来週出発。まずは、とりあえず原稿を書き上げねば。

(September 16, 2009)

Posted by iwaki : 01:09 | Comments (0)


ベルヴィーユと寿町

パリ11区、ベルヴィーユ。そこには女性誌などがイメージ戦略的に紹介する麗しのパリとはまったく異次元の、曰わく言いがたい黄土色の濃厚世界が広がる。マグレブ系、アフリカ系、アジア系と種々雑多な肌色の移民たちが路上には溢れかえり、まっぴるまから何もすることがないのか、玄関先やら路上ガードやらベンチやらに、いかにも冴えない男たちが腰掛け何人かでつるんでダベっている。なんだか見覚えのある情景だなぁと記憶の糸をたどると、そうだ、これはまるで家に帰ることから逃避している放課後の中坊そっくりだ。ただ唯一異なるのは、彼らは中坊ではなくいい歳こいた中年だということ。男はいくつになってもなんだかなぁ……と、この街を歩くたびに考えさせられてしまう。と同時に、いくらなんでも日本にはこれほど仕事のない男たちが群れる場所はないよな。日本にはサン・パピエ(労働許可証を持っていない移民の呼称)がここまで大勢いないからなぁ、と考えていた。つい、昨日までは。

そう、私の自国に対しての認識はあまりにも浅かった。昨日、今日と、ある取材で訪れた横浜の寿町。ここは東京の山谷、大阪の釜ヶ崎とならび「日本三大ドヤ街」と言われる場所で、かつては日雇い労働者の町として活気に溢れていた地域。だがいまでは、その半数が60歳以上の高齢者で、8割が生活保護受給者。ほとんどが独身男性で、薄暗いドヤの三畳間にひとりで暮らしている。結果として彼らは、路上をリビングルーム化していく。つまり道ばたに座りこみ、人によっては寝っ転がり、仲間たち数人と昼日中から酒をあおる。400メートルトラック2個分ほどしかない小さな区画に、6500人もの男たちが文字通り肩を並べて暮らし、年間500人もの人間(単純計算でも1日ひとり以上)が部屋で孤独死していくのだ。案内人をつとめてくれたある男性はこの町にきて「死体の匂いが識別できるようになった」とつぶやく。救急車もあまりに日常茶飯事なことのため、この町にだけはサイレンの音を消して進入してくる。取材時にも、ふと気づけば背後数メートルに救急車が。音もなくひたひたと進入してくる救急車とは、なんと冷たく恐ろしいものかと肌が震えた。

だが予想外に町のおっちゃんたちは、表面的には穏やかで機嫌がいい。余所者な私にも「おっ、なんだ寿町見学会か」「おねえちゃん、どこかの役所の人?」と話しかけてくる。おじさんたちが普通に暮らすドヤも覗かせてもらったが、思ったよりも廊下や共同キッチンは清潔に保たれていて、挨拶をしてくるような丁寧な方もいる。ただ日が暮れて夜ともなると話は別で、そこらで嬌声を発する人、小競りあいを始める人、また袖口から立派な彫り物をのぞかせて歩くお兄さんの姿もちらほら。「夜はひとりで歩かないほうがいいですね」。そう案内人の男性に告げると、まだ月初めだから今はいいほうですよ。飲み代が底をつきたころ、月も半ばを過ぎたころに来ると、呑み屋からあぶれたおっさんたちが路上にうようよしていますから、という返答。孤独をまぎらわすために、多くの人は酒に逃げるのだ。だがそんな中でも、愛らしいミニチュアプードルなどのペットと暮らし気持ちを保つおじさんもいるし。また外部からボランティアでやってくる英会話教師のレッスンに参加する前向きな人たちもいる。ここ数年、寿町のドヤ街が、外国人バックパッカーの常宿として機能しはじめていることもあり英語を習う人々が増えているようだ。

さて、最後にこの寿町の物価についてお伝えしたい。ほとんどの人が月13万ほどの生活保護で暮らしているだけであって、この町の価格破壊はとんでもない。たとえば韓国系の人間が経営するちいちゃな食料品店を覗けば、一食分の食費がだいたい300円ほど。五分刈りならぬ「五厘刈り」を売りものにする床屋の価格は1200円。そして極めつけは自販機の缶コーヒー50円也。この町に来てPASMOの電子マネーで、缶コーヒーを買おうとした私がバカだった。パリとはまた別の理由で、職に困る人々が日本にも大勢いる。まだ私の知らない未知の世界が、国内にもいっぱいある。横浜市の行政は「臭いものには蓋」の感覚で寿町のことにはほとんどノータッチだそうだが、そんなときこそ、私のようななんの身分もない素浪人ブン屋がきちんと現状を伝えるべきだと思った。

(September 4,2009)

Posted by iwaki : 01:22 | Comments (0)


学習の花を咲かせる

南仏アヴィニヨンの町で、からっきし英語が通じなかった。そこで当座のまにあわせとして、私のむちゃなフランス語で日々をのりきることに。あたりまえだが言外のニュアンスというものが会話からどんどん抜け落ちてゆき、些細な齟齬から日本人に対するよくない誤解を招くことに。あまりにも悔しくて情けなくて、ちくしょう、次に来るときまでにはフランス語を絶対にマスターしてやると歯ぎしりしながら強く決意。帰国後、鉄は熱いうちに打て、とすぐさま行動を開始した。

そして現在ーー性格的に生真面目すぎてヨーロッパ人のノリがあわず「日本に逃避してきたの」と語るスイス人女性との対面式レッスンと、マルセイユ近郊の田舎町で「毎朝起床と同時に愛馬にまたがり遠乗りに出る」と笑う有閑マダムとの週2回のスカイプレッスンをはじめている。これが本当に楽しい。進歩が実感できて嬉しい。自分で言うのもなんだが、やはり学習というものは明解な目的があると上達も早い。また、もっと広く深く探求したいという欲もおのずと生まれてくる。そしてなんであれ、学習ではこの「欲望の錨」をがっしりと出発点におろすことからすべてがはじまるように思う。

話は飛ぶが、最近無謀にも、ダンテの『神曲』についての解説文をフランス語で読み進めている。とはいえもちろん、第一線の学者が発表している超高度な研究論文ではなく、私のフランス語力でもぎりぎり太刀打ちできるリセの生徒のために書かれた解説文。で、これがべらぼうにおもしろい。なにがおもしろいって、もちろんフランス語の知らない単語をぐんぐん学べるという愉悦もあるのだが、それ以上に、向こうの十代の学生さんの「学習方法」が把握できておもしろい。そこに提示されている学習スタンスは、あきらかに日本のそれとは異なるもの。テキストに書かれている文章が、すでに一方通行ではなく双方向性というか。つまり日本のように教師が生徒にただただ一方的に教え込むために書かれたテキストではなく、教師と生徒が会話を交わし子供たちの学習の「欲」を触発するように書かれているものなのだ。具体例をあげるなら、たとえば次のような質問が生徒には投げかけられる。

「ダンテの神曲『煉獄篇』では当時実在した、作家、画家、詩人、役人、政治家、などが数多く登場します。なぜダンテが彼らを煉獄におとしいれたのか考えなさい。またその同じ考えに沿って、現在あなたが知っている有名人のなかで誰が煉獄に落ちるかを考えなさい」

ね、おもしろい。私はこの一問だけで、三時間は思索的に贅沢な時間がすごせる。煉獄について考えたいという、学習の「欲」がむくむくと湧いてくる。黒縁メガネの無表情な先生に「煉獄とはこういうものですから、試験前に覚えるように」と、淡々と定義だけを教え込まれるのとはあきらかに異なる次元の学習がここには存在する。

ある脳科学者によると、学習は、インプットではなくアウトプットされたときに、最大限の効果を発揮するという。またかのベンジャミン・フランクリンも「知識は実行されたときに、はじめて力となる」と語っている。いま私は身をもって、これらの言葉は正しいと言いたい。またさらに、根に強い「欲」をもつ学習は大輪の花を咲かす、とちょっとカッコ良くつけくわえたい。

(September 1, 2009)

Posted by iwaki : 01:01 | Comments (0)


男女の俗説を論証する

「男ってもんはさぁ」「女って本当にさぁ」。
町のカフェや居酒屋でいつ終わるともなく繰り返される男女論。こうした愚痴話を耳にするたびに、最近、私のなかではあるひとつの欲望がむくむくと湧いてくる。確かに男と女は違う。思考方法も、行動指針も、現実の切り取り方もすべて違う。じゃあ、なんで。その「なんで」の部分を、男女の居酒屋レベルの俗説に終わらせるのでなく、あえてアカデミックに追求してみたい。せっかくみんな必死になって男女の溝についての会話を交わすのだから、それをもう少し体系立てて説明できたら、よりおもしろいんじゃないのか。そんな知的好奇心が否応なく湧いてきて、最近の私は、時間が許す限りさまざまな視点からの男女論を読み漁り中。自分としても切迫した衝動からはじめたことなので、みるみる知識が知恵となって体に染みこんでいく。

そんななか、あるユング心理学の本で非常に興味深い一文に出逢った。ユングさんは、男女間には生まれながらにして身体的な差違があるのと同様に、精神面でも生まれながらにして違いがあると説いた人。男女平等を訴えるフェミニストたちから、いっせいに噛みつかれそうな論理だが、私は彼の考えは間違っていないように思う。以下に、その一文を抜粋。

<女性の意識的態度は、一般的に男性のそれにくらべてはるかに個人的である。女性の世界は、父親と母親、兄弟と姉妹、夫と子どもたちから成っている。(略)本質的には自分自身にしか興味をもっていない。男性の世界は、民族であり、国家であり、利益コンツェルンなどである。家族は単に目的のための手段、国家の基礎のひとつにすぎない。妻は必ずしもその女性でなければならないわけではない。普遍的なものの方が男性にとっては、個人的なものよりも切実な問題である。>

なんだか、観念的すぎて「よくわからない」という人もいるかもしれないので、具体例をあげて少し補足。たとえばある年若い男女が、それぞれの将来のヴィジョンについての言葉を交わしているとする。だがこのとき言葉は交わされていても、言葉が共有されることは(皆無とはいわないが)めったにない。なぜならユングが言うように男は社会的で、女は個人的な生き物だから。おそらくこのとき男性側は「仕事で昇進したい」「自己実現を果たしたい」「社会で存在を認めさせたい」といった”一人称で社会とどう対峙するか”といった能動的な欲求を多く口にするはずで、逆に女性側は「愛する人と一緒にいたい」「友人との時間を増やしたい」「仕事場で楽しくすごしたい」といった”一人称と社会をどう融合させるか”といった許容的な欲求を多く語るはずだ。

もちろん、これは一般論なのですべての人に当てはまるとは言わない。でも私が個人的に会う機会のあった身のまわりの人々、大学教授、大学院生、大学生、アーティスト、サラリーマン、自由業者、フリーターの、男女を思い浮かべてみると……、かなりの確率でこの一般論があてはまることに恐ろしさを覚える。ちなみに私自身は、女性的な個人レベルの欲求が基底にありながら、厄介なことに、男性的な社会レベルの欲求も少なからずある人間。だからすべての話を「家族」や「子供」や「自分」に収束させ、しかもその道徳観を無自覚に聖化する女性に会うと腹の底からイラッとするし(大人げなくてすみません)、逆に自分を社会に役立てるミッションを掲げて生きなければ絶対に人として美しくないと鼻息を荒くする男性に会ってもドードーといさめたくなる。難儀な性格だ。

でもいずれにしろ、男も女も自分の世界の見方こそが絶対善だと思わないこと。互いに白とも黒ともつかない不確かな余白を持って接することによって、はじめて対等なコミュニケーションが生まれてくる。私は、さも真実のすべてを握っているようなしたり顔で語る人、常套句やブルジョワの良識を疑いもなくふりかざす人、広いオフィスで7時間働いてそれだけで自信満々に生きている人が、嫌いだ。自分を愛していられるだけの自信を崩さぬことは大切だけれど、自信を持つことで自分を育む謙虚さを失う危険があることも忘れてはならない。今後は自戒の念もこめて、私は女である時点で、ある種のバイアスがかかった世界しか切り取れていないことを考えながら生きていきたい。

(August 28, 2009)

Posted by iwaki : 23:32 | Comments (0)


博多商人の街は健在

天災と同じくらい早起きを嫌悪する私が、朝7時という残酷なフライト時間に打ち勝って、久しぶりに福岡空港に降り立った。まあ朝いちの仕事なので致し方ない。だが開始時刻が早かったため、午後に少し時間があくことに。昼寝をするのももったいないので、少し街の様子を見てまわることにした。すると、ふと気づいたことがいくつか。

まず異常に多くの質屋の看板が目に飛びこんでくる。しかもシャネルやグッチといった超一流ブランドよりもやや価格帯が下の、伊勢丹系のブランドを扱う若者層がターゲットの質屋。それらがいっけん代官山にあるセレクトショップのような風情を装い表通りに軒を並べている。これはどういうことなのか。今日は折しも都合よく多くの二十代男女と話す機会に恵まれたので、さっそくその理由を事情聴取してみた。すると面白い回答が。彼らの世代にとっては質屋にいくことは、さほど後ろめたいことでも、日常から遠いことでもなく、普通にあまり使用しないヴィトンの鞄や、マーク・ジェイコブスの靴や、ギャルソンのシャツなどを、換金しにいくコンビニエントな場なのだという。使わないものは価値が落ちないうちに売りさばく。さすが博多商人の街。商売っ気がいまの若者にまで難なく浸透している。もしかすると、ある面では消費の回転率が東京より早いのかもしれない。

もうひとつ気づいた発見は、人と人とが「対面で会う」ことに絶対的な価値を見いだしていること。とりあえず「何か一緒にやろう」となったら、電話やパソコン上でのやりとりはさほど信用せず、まずはなにをさておき直接会う。できれば酒を酌み交わしながら会う。そして相手が発言する内容云々以上に、やる気や覇気や男気を買ったぞ、となったときにはじめて実際のプロジェクトが動きだす。だから今日会った若者たち数十名も予想以上にアナログで、ネット上でコミュニケーションが完結してしまうような仕事は「信頼できなくて怖い」という発言が頻発していた。私なんて最近では、発注相手の顔も見ない声も聞かないで原稿を請け負うこともしばしば。それを彼らに伝えたら、異星人を見るような目で驚かれた。ちなみに本日の個人統計によると、福岡でのiPHONE使用率は二十代の若者11人中ひとり。Googleで検索以上のことができることを知っている人は11人中2人。SKYPEを知っている人はゼロ。私のほうが驚いた。

(August 24, 2009)

Posted by iwaki : 00:39 | Comments (0)


精神的な受動態からの脱出

夏バテの疲れからか思考が断片化して、きちんとまとまった文章が頭から出てこない。そんな今日このごろ。机に向かうのが億劫でしょうがない。ただこれはここ数年来の文筆家業で確立された教訓なのだが、どんなときでも、どんな状態のときでも、とりあえずなんとか頑張ろうと試みてみる。最初の一文をひねり出してやろうと努力する。で、この苦しいときの頑張りが、文章のアベレージをあげていくコツではないかと思う。気分が向いたときだけ、風の吹くまま気のむくままに、なにかに取り組んでいるのでは趣味の域を出ない。

思考力が絶好調のとき、体調が絶好調のとき、環境的に最適なとき、諸条件が整ったとき。そうやっていろいろ自分に条件づけしていくと、身動きがとれなくなってしまう。また苦しいときには休んでいい、というルールづけを自分でしてしまうと限界値がなかなかあがっていかない。昔、十年ほど、踊りをならっていたときにもこれと同じルールがややあてはまったのだが、身体が重いな、やる気が持てないな、と思ったときでもとりあえずレッスンに向かう。そうすると、体調が悪いときの悪いときなりの是正方法が分かってくる。しかも努力をすることが習慣化されていって、特に努力が苦ではなくなっていく。むしろ日々の自分を定点観測することが、生活にリズムを与え楽しくなっていったりもする。

ここ数年ほど私は、精神的に、気分の赴くままな生き方をしてきた。行動面では、人に気づかされることもあり、それ以前よりかなり能動的になれていたのだが(そしてその変化が自分でもとても嬉しかったのだが)ーー「精神的な受動態」は抜け切れていなかった。だから日々の努力が蓄積していかない感覚があって、ものすごい不毛感に襲われたりもした。つまり行動しても行動しても、それが自分の精神的な軸に沿ったものなのかどうか今ひとつ確信が持てなかったのだ。だから文章を書きながら、資料集めをしなきゃと思い、資料集めをしながら、次の旅取材のアポイントを入れなきゃと思い、アポイント入れをしながら、もっと図書館で勉強しなきゃと思う。つねに自分のなかで、いろんな人間が、口々にやりたいことを気分の赴くままに発言するのだ。これはカオスだ。

ただ考えてみると私はこうしたカオス状態と秩序状態を、数年ごとに、行き来する傾向があるように思う。カオス状態でいちど自分の価値観をできるかぎりフラットにのして、そのあと新たな秩序を作る。そして、その新たな秩序で意図的なリズムを刻み始める。私はいまちょうど、この端境期にいる。だから夏バテのせいで思考が分断されると冒頭で言ったけれど、それだけでなく、根本的にまだ新たな自分の思考体系をまとめきれていない面がある。

でもそれでも日々とりあえず、ペンは持つ。すると文章が自分の鏡になる。自分がどれだけ乱れているか、軌道からずれているか、秩序をとりもどしてきているかを、活字が教えてくれる。なにかひとつのことを続けるというのは時には苦しいことだけど、不安な自分を安定さえてくれる人生の支柱にもなる。そうしたものを、ひとつでも手放さずに持ち続けることはいいことだ。だから今日も私は机に向かう。打率1割5分の体調だとたとえわかっていても闘わねば。

(August 21, 2009)

Posted by iwaki : 01:27 | Comments (0)


家族と彼氏とプティタミ

明治末頃から日本には「家族あわせ」というカルタ遊びがあった。一家族、各四枚。トランプのように対戦者数人と車座となり、札を配布し、隣人に見られぬよう手元で持ち札を確認する。そして「山井さん家のお母さんをください」「ありません」「民尾さん家の息子さんをください」「はい、どうぞ」と、淡々と家族を交換していく。勝敗は、誰よりも早く同じ苗字の父・母・娘・息子の札を手元に集めることで決まる。四人揃えば「一丁あがり」。実に素朴な子供遊びだ。

学生時分、私は、裏千家の分家筋にあたるという、ある立派な門構えの友人宅でいちどこの遊びを体験させてもらったことがある。夏のさなか。降りしきる蝉しぐれ。茜色にくれなずむ美しい空を縁側の向こうに見上げながら淡々と札をきる。お母さんをください。お父さんをください。最初は物珍しさからこの遊びを楽しんでいたものの、なんだか途中から、そうした言葉を発すること自体が不気味に思えてきた。父、母、娘、息子。一家そろえば、それであがり。きちんとあるべき札が揃わないと「一家」として認めない。きちんとした家族であらなければ世間様になにを言われるかわからない。そんな個人よりも世間体を気にする実に日本的な心裡を、端的にこの子供遊びがあらわしているように思え、私は途中で札を投げ出し離れの手水場に逃げてしまった。自分が幸せだと思うなら娘4人で「あがり」でもいいじゃない。あるいは、友人4人、男1人に愛人3人、老人1人に犬3匹、なんて「あがり」があってもいいじゃない。そんなセンチメンタル・リベラリストな女心を根に持つ私には、かなり堪える遊びだった。

さて最近、そんな心の奥にしまい込まれていた記憶がふと蘇る事件にたてつづけに遭遇した。まずはある二十代後半の男性。彼は優秀な四大を卒業し、働きながら暇を見つけては勉学に励み、毎年司法試験を受けている。だが彼は真面目すぎて、視野が狭くなりすぎてしまうことが玉に瑕。このところ彼女がいないことに非常に引け目を感じているらしく、試験に自分が受からないのは「彼女がいないからだ」と突然告白してきた。いい年をして彼女がいないから、俺は勉強に身が入らないんだ。私には、まったく理解不能な価値観で唖然としてしまった。

また、ある三十代前半の学歴の高いインテリ女性。彼女は数ヶ月前に「婚活」というものに目覚め、以後、月に何人もの男性と食事を繰り返していた。そして最近、努力の甲斐あって、ある方とお付き合いを開始。それは良かったと、私も朗報に心をなでおろしていたところだったが、数週間後、彼女からの怒りの電話が鳴り響いた。「聞いてよ、あの人ったら私の彼氏なのに、私の誕生日にプレゼントをくれなかったのよ。別れようと思うわ」。いったい彼女は三十年も生きてきて「彼氏」というものに、どんな定義をほどこしてきたのか。誕生日を忘れると、プレゼントをくれないと、一人前の彼氏にはなれないのか。おそらく彼女は彼を愛しているのではなく、彼氏という「札」が欲しかっただけなのだろう。自分の常識こそが正義であるという、視野狭窄なエゴイズムが見えて哀しくなった。

蛇足だが、フランスでは恋人のことを「mon petite ami」モン・プティタミという。直訳するなら、私の小さな友達。日本の「彼氏」にあたる単語はないと地元の大学生に聞いた。(もちろんMon amourモン・アムールという単語を選ぶ、一部情熱的な人たちもいるけれど)。と同時に、フランス語では「mon ami」モン・アミといえば親友、「un copain」アン・コパンといえば友達、「un pot」といえばスラングで壺のなかにいっしょくたに入れるような不特定多数の友人のことを指すという。友達にも淡彩画のような微妙な色分けがある、というこの発見が実におもしろかった。と同時にそれに輪をかけて、そのグラデーションの濃淡の一部に恋人が取り入れられていることが興味深かった。恋人を人間関係の別枠にカテゴライズするのではなく、いちばん今のところ濃密な関係性を持っている友人として位置づける。つまりフランスでは「友達」の札が、あるとき「恋人」の札にもなりうるわけで。その逆も、またしかり。愛は束縛ではない、というルールをきちんと心得ているのだ。おそらくこの国の人々に「家族あわせ」の話をしたら、目を剥いて驚くことだろう。

*人に指摘されたので追記。フランス語でも「mon cheri」という「彼氏、彼女」にあたる言葉があるそうです。失礼しました。

(August 13,2009)

Posted by iwaki : 02:33 | Comments (0)


集団失業ヒステリー

アヴィニヨンとパリでぼやぼやして、日本に帰国して一週間。ぼんやり思うことがいろいろ。まずなぜみんなこんな必死に働いているのに、誰もが明日に対する不安を抱えて生きているのか。

たしかに今は不景気だけれど、日本の完全失業率はいまだ5.4%。イタリアの友人の情報によると、イタリアには絶対貧困相といものが15%ほどいて、それを除外してもシチリアなどでは30%ほどが失業者だという。他、ついでにユーロ圏のデータを少し調べてみると、スペインが18.1%、フランスが8.9%、ドイツが7.7%。いずれも日本より失業者率が高い。にも関わらず、日本ほど逼迫した風情はあまり日常生活からは感じられない。なぜか。これは憶測にすぎないが、欧州では、金がないならないなりの幸せというものが存在する気がする。パリには、そういう貧乏集団が群れて茶をするダメカフェが至るところに存在する。彼らは朝な夕なに何をするわけでもなく、そのカフェで何かを話している。

日本にもかつては、貧しくも満たされた生き方というものがあったと年上世代の人々は言う。それが本当がどうかはもう少し調査が必要だが、いずれにしろ今は金をあるていど持って生きていないと「落伍者」の判を押され友人知人さえも失いかねない社会状況にある気がする。つまりいま失業率の上がり下がりに一喜一憂している人々は、金を失うこと以上に、社会生活から暗に「破門」されることを精神的に恐れているように思える。

特に私の目から見ると、親にある程度収入があり、四大を卒業してそれなりの教育を受けた、中流階級の子供たちが必死の形相だ。ある程度の生活水準を与えられて生きてきたからこそ、それを失いたくない恐怖から、表だってはきれいごとを装った、でも隙あらば他者を陥れてやろうというがめつさを身につけている。最近、久々に同年代のエリートサラリーマンの友人に会う機会があり驚いたのだが、彼は全身バーニーズの服に身を包み「勝者」を自己演出しつつ、「いかに時代の先を読むか」「いかに市場をコントロールしていくか」という論をとうとうと笑顔で続けたのちに、そういうことができないやつは死んじゃうよね、とピザの最後の一切れを口に入れながら締めくくった。

別に私は彼に日本の経済状況を語ってくれと頼んだわけではない。にも関わらず、口をついてそうした話題が出てきてしまう。おそらく「不況」というものが自分や同僚たちの「共通敵」になっていて、かつて学校でひとりの子を標的にしてイジメを繰り返しストレスを発散したように、その共通敵を語ることで日々の鬱憤を晴らしているのだと思う。ただ彼がその会話を心から楽しんでいるかというと、そうとはまったく思えない。五年前には見られなかった癖、守銭奴のように懐疑的に目を見開き、まぶたを神経質にしばたたかせる癖が気になった。

確かに生きやすい時代ではないし、確かに未来を読まなければ生き延びていけない。でも、つねに周囲に戦々恐々となり、全方位にマシンガンを撃ち続けていなければ、背後から刺されて死んでしまうかも、という恐怖に追い立てられて生きるのは苦しすぎる。どうだろう。全員で一斉にその恐怖感を脱ぎ捨ててみては。いったん武装解除して全員で休息してみては。いまの日本は集団ヒステリーのように、次なる何かを作らねば、新たな市場を開拓せねば、と躍起になりすぎて、グルグルグルグル、回転車のうえを無目的に走り続けるハムスターのよう。ものすごく疲れる。「生きる」ということの本質は、私は女だからそう思うのかもしれないが、絶対に戦うことにはない。

ちなみに8月は東京郊外にログハウスの一軒家を借りることにしました。友人知人で遊びに来たいかたは、ご連絡ください。

Sorry, forgot to write in English also. I have decided to rent a log cabin in the outskirts of Tokyo in August. Those of you friends who want to come visit and chat, call me.

(August 4, 2009)

Posted by iwaki : 01:08 | Comments (0)


Avignon Report ナチェラ・ベラーザ / Le Cri

先日のブログでも発表したように、以下のような内容の記事を、別サイトで書きはじめました。お時間のあるかたは是非、覗いて見てください。

アヴィニヨンの街が気怠さに呑まれる午後三時。さらさらとプラタナスの葉を揺らすローヌ川からの涼風がぱたりとやむ。その風の音にかわり耳に届くのは、日本のそれよりもオクターヴ高いどこか乾いた蝉しぐれ。背後からは白色光線を放つ南仏の巨大な太陽が重石のようにのしかかってくるーー。
「いま外を歩くなんて殺人行為だね」。そうアヴィニヨンの地元人たちが観光客をカラカラと嘲笑する太陽との闘いのような時刻。人も犬も猫も多くは午睡にまどろみ街中はどこか閑散とする。そんなさなか、蟻の巣のように入りくんだ路地を抜けた先にある小さな教会前には、時刻にそぐわぬ黒山の人だかりができていた。チャペル・デ・ペニタン・ブラン。入口を見上げれば跪き祈る二人のペニタンブランたち。かつてフィレンツェからやってきたと言われる「白い衣服の教団者たち」の姿が描かれている。だが太陽を罵倒するような大声で「イル・フェ・ショー、イル・フェ・ショー(暑い、暑い)」と叫びながら居並ぶ無数の人たちは別に、ここに懺悔を告解しにきているわけではない。そもそもこの教会は、この街の至るところにある他の多くの教会と同様、その本来の機能を数十年前になくしている。そうではなくこの汗みどろな人々は今日ここに、ある年若いムスリム女性によるダンス公演を観にきたのだ。

つづきはこちらから >> http://kyokoiwaki.com/ARTicle/archives/195

(July 29, 2009)

Posted by iwaki : 01:21 | Comments (0)


アヴィニヨン

アヴィニヨン初日。南仏特有のてっぺんから炙りつけるような太陽の日差しに、心と体がいっぺんになえて脱水症状を起こしそう。カフェでオーダーするカラフ・ドー(飲み水のたっぷりと入った瓶)も、ひとりでみるみる飲み干してしまう。複雑に入り組んだ小道を攻略すべく午前中から散策していたのだが、1時間も歩くと、玉の汗がじっとり浮き出るまもなく体の水分が蒸発していく。ジワジワと追い詰められるような日本の湿気にみちた夏とはまた別の、太陽との一騎打ちのような夏がここにはある。

話は変わって、まえのブログで告知していたウェブマガジンのベータ版がようやく完成。
プログラミングを大学時代に挫折した私が、なんとか自力で形にした途方もないうれしさ! 

以下からウェブサイトへリンクを張っています。
ブログの粗雑な口調とは異なる、言葉としての美しさを保った、きちっと商品としてなりたつ文章を掲載していきます。
Kyoko Iwaki's ARTicle >> http://kyokoiwaki.com/ARTicle/

アヴィニヨンの観劇記も随時掲載予定。まずは初日にみたナチェラ・ベラーザの「ル・クリ」について近日中にアップ予定。

(July 22, 2009)

Posted by iwaki : 02:40 | Comments (0)


自分でウェブマガジン

出版不況でたてつづけに雑誌が休刊においこまれている。私が執筆している雑誌もマリ・クレールにはじまり、スタジオボイス、エスクアイア、などの良質な雑誌が書店からなくなってしまった。また存続している雑誌にしても、不況のあおりを受けて、「最大公約数」な読者に訴求する記事、つまりパイの大きな顧客を狙った一般向け記事を書くよう求めてくることが多い。舞台芸術でいうなら、ミュージカルや大規模商業演劇の紹介、あるいは芸能人役者のインタビューなどがそれにあたる。これも仕事の一部なので、もちろん興味が向けば快くお受けする。だがこうした記事ばかりになってしまうと、どうにも片手落ちでつまらない。仕事は仕事としてきちんと丁寧にこなしつつ、書きたいことをもっと欲望のままに書きたい。そんなワガママな思いがどんどんつのる。ならば! と、自分でウェブマガジン的な執筆場所をもうけてみることにした。シアター、アート、旅、恋愛、また自分の刺激アンテナにひっかかった人間へのインタビュー記事などを勝手きままに載せていこうと思っている。「有名役者めあてに行ったらぜんぜん面白くなかった」「高いチケット代を払って3時間のエゴにつきあわされた」。よく、そんなシアターアーツへの苦情を友人知人から受ける。そのたびに、心ない提灯記事を載せてしまう雑誌があることを嘆かわしく感じてしまう。情報が過剰氾濫する今だからこそ、情報にもクオリティが求められる。情報のセレクトショップのようにいいものだけを品質重視でお届けしたい。オープン時には、ここでまたアナウンス予定。是非みなさん、このブログともどもよろしくお願いします。

(July 9, 2009)

Posted by iwaki : 01:38 | Comments (0)


学生宣言

人生で初めて本格的に勉強に励んでいる。これはもう本気で。毎日、受験勉強のようなカリキュラムを組んで勉強している。私はわりと一直線に、無駄なく、最低限の労力で、ミッションを達成するために最短距離を突っ走ってきた。それこそ人間ナビのように、目標を立てたら役に立たないと思える時間と行動はすべて切ってきた。それで友人もずいぶんなくした。でも上辺だけでミッションを成功しても、なんとも中身がすっからかんで空しくなることを数年前に唖然とするほど体感した。愛するもののために余裕のある時間を費やせない人間は、世界そのものを愛せないのだということをそのとき知った。

あたらしく連載を担当させてもらうことになった夏木マリさんもおっしゃっていたけれど、私も、テクニックや才能はないくせに夢だけがデカイ人間だ。だからとても苦しくなるのだけど、苦しくウンウン唸っているだけでは、なにも生まれてきやしない。むしろウンウンが自分の身体のなかにどんよりと溜まっていってドンドン苦しくなる。なので、ウンウンは撤廃して、コツコツ地味に励むことにした。ジュウネンかかろうがニジュウネンかかろうが、無数にある夢をひとつずつ達成していくつもりである。

でもこれが、なかなか爽快で楽しい。「体育」なんてカリキュラムを入れて、ジムに行って走ったり踊ったり。「フランス語」の時間を設けて、記憶力が最もあがるという就寝前に呪文のごとく異国語を唱えたり。あるいは「経済補習」なんて日を決めて、一日中、私の偏差値25な経済リテラシーをあげるべく本とにらめっこしたり。でも何より長距離走者の持久力を持って勉強しつづけたいのは、私の専業であるアートについて。これはもう、いくら勉強してもしたりない。もちろん、すべてがすべて前向きに臨めるほど面白い内容ではないけれど(私は歴史とか古典とか、昔の知識をただ単にインプットするのがとても嫌いだ)、仕事の勉強をするのはプロとしての義務である。ちょっと前までは、オタクのように家に閉じこもって本とにらめっこをしているだけでは、完全なるディレッタントにはなれたとしても、何もアウトプットせず世界に働きかけないのだから「不誠実だ」と頭ごなしに思っていたけれど。よくよく考えてみれば、いや考えてみるまでもなく、きちんと努力と労力と金銭的投資を費やしたインプットのないアウトプットほど不誠実なものはないのである。だからもう、いま私は黄色い帽子をかぶりたての小学生のように知的好奇心にあふれている。そうして、自分の書き手としてのフィールドを、いつか、マリアナ海溝のように深めると同時にゴビ砂漠のように広げたい。広めたうえで深める。それが私のいまの合言葉。

こんなことブログに書いても他人からしたら「勝手にやってね」という話だろうけど。私はとても弱っちい人間なので、公の場で宣言することで、やめるにやめられない状況を自分に強いたいのである。だから私はブログに書く。学生宣言を書く。

(June 29, 2009)

Posted by iwaki : 13:27 | Comments (0)


情報センサーを磨く

ハッフィントン・ポスト紙のニコ・ピトニー記者が、アフマディネジャド大統領再選後のイランの騒乱関連ニュースを不眠不休のタイムラインでウェブ上にアップしている。今では多くの全米ネット局が彼のライブ・ブロギング記事を情報源にしてニュースを流している。バシジ(強硬派民兵組織)による暴力的なデモ弾圧や、ネダという少女が狙撃兵に心臓を打ち抜かれて死んだ事実も、私はニコの記事でいち早く知った。最近はこうしたデータソースのはっきりとした「生素材」な情報に触れることが少ない。それこそぐうたらな自分が頭をもたげてくると、テレビや雑誌で事足りてしまう二流情報だけで日常が埋めつくされていく。でもそれはとても怖いことだし、そもそも自分の生きている現実社会に対してあまりに無責任すぎる。自分なりに情報の選択肢を広げ、そのなかから必要なものを選びとっていく。そして、できることならそこにひとつのロジックを通して、自分のなかで未来につながる仮説を生み出していく。収集→判断→論理化という忍耐強いプロセスを踏むことで、現実に対してパッシヴでない能動体質な自分を作り上げていけるように思う。そんなことをふむふむと勝手にひとり合点し、そうだ私もきちんと情報整理をせねば、とコンピューターの初期化を自分の手で試みてみる。なにぶん人手を借りずに試みるのは初めてのことなため、入念な下調べをしたうえでいざ決行。だが……、やはり私の情報収集はどこか杜撰なところがあるのか、初期化後にいろいろな不備や欠損が生じてくる。ああ、もう。情報収集の戦いにのぞむまえの、武具準備の段階で私はめげている。いやいや、めげずに前に進まねば。

The Huffington Post http://www.huffingtonpost.com/

(June 27, 2009)

Posted by iwaki : 16:00 | Comments (0)


温泉バージン

九州は別府に来た。ここは世界的に温泉がとても有名な場所だそうで、会う人、会う人、あらゆる人に「温泉に入って行け」と力強く薦められる。だが私は、実を言うと隠れ温泉バージン。どこかで何かの拍子に子供のころ入ったことがあるかもしれないが、意識的に、友人などと「温泉に行こう」と旅行を計画したことがない。というのも、あのだだっ広い空間で湯に浸かり、はて何をしたらいいのやら。とにかく間が持たないのだ。ただでさえ普段から女のくせに烏の行水派な私。会話の弾む誰かとならいざ知らず、たったひとりで湯につかる愉悦というものが分からない。ただ確かにせっかく来たのだし。なにか湯に入ることで超人的な元気が出るかもしれない。昨晩2時に原稿執筆がようやくあがり、じゃあまぁ、と宿内の最上階にある24時間営業の露天風呂に向かってみた。時間も時間なことだし、風呂場には誰もいない。ゆうに30人は入れそうな大浴場で、ひとり痩せた裸体をさらす私。ひたひたと水に濡れたタイルを歩く足音と、しんしんと寝静まる別府港の夜。そんな闇夜の静寂のなか、ちゃぽんと足先から湯に入る。痺れのような熱さに耐えて、ざらつく石段に生尻で座りこむ。見上げれば、半月が浮いている。
…………5分経過。
足をバタバタ。
………10分経過。
腕をちゃぽちゃぽ。
もういいや、寝よ。
と、そそくさと退散してきてしまった。私の温泉ロストバージンは、湯を味わう間もなく、肩すかしなほどあっけなくおわった。ただ風呂上がりの麦茶だけは、子供のころの夏休みの味がして格別に美味しかった。ああ大人な温泉の堪能法を教わりたい。

(June 15, 2009)

Posted by iwaki : 22:02 | Comments (1)


難儀な三つ子の魂

子供のころ水泳教室に通っていた。完全カナヅチな私にとっては毎週のその時間は恐怖体験に近い。プールに突き落とされるたびに毎回ぶざまに溺れ沈む。でも「あの子、やっぱり泳げないでやめちゃったね」とまわりに囁かれるのはあまりに悔しい。さらにいえば自分が恐怖心を克服できないのはもっと悔しい。なにかに負けたくない一心で、通い溺れつづけた覚えがある。三つ子の魂百までというけど、私の強情っぱりは、このときから始まっている。

この水のなかでの恐怖体験以上に、鮮明に記憶に刻まれているのが、プールに入るまえの準備体操。紺色の水着に着替え、タオルを肩に、プールサイドに子供たちが集まる。そして持参したタオルを目の前の床にポイッとおき、みんなで「おいっちに」と身体を動かしはじめる。けれど私は自分のタオルをどうしても床に置くことができなかった。母親が買ってくれたキキララのタオルが死ぬほど大切だったから。それを床に放置などしたら、他人に素足で踏みにじられるんじゃないかと怖れ、どうしても手放すことができなかったのだ。けどあたりまえだが、この子供理論は先生には通じない。キョウコちゃん、タオルを置きなさい。何度もたしなめられる。それでも、ぎゅうと、タオルを胸に抱き続ける私。困り果てる先生。確かに、それを手放さないことには、ことの主眼である体操ができない。引いてはいつまでたってもプールに入れてもらえないわけで。自分でも馬鹿だと思うけれど、大切なものを過剰に大切に思うあまり、さらに自分を難儀な状況に追いこんでいたわけだ。

大人になってからも、これと同じような状況に、自分を追い込んでいることに時たま気づく。なにかを手放したくないあまり、自縄自縛の状態にみずからを追いやっているのだ。たとえば恋愛。自分が惚れれば惚れるほど、そこには喜びと同時に不安や怖れが起こってくる。でもそれでびくびくしていては、自分もまわりも窮屈になる。相手の目を見て心でゆったり溶けあうように生きられなくなる。相手が好きなのなら、不安だろうがなんだろうがその愛に殉じないとね。いまの私なら、不安をよそに、にっこり笑ってタオルを床に置いてみせる。そんな世のからくりが、ようやく、本当にようやく心に落ちてきた。

(June 14, 2009)

Posted by iwaki : 02:01 | Comments (0)


フィレマトロジー

学問は人の悩みからはじまる。哲学であれ、数学であれ、医学であれ。どうにも納得がいかない解決できない、と人が夜な夜な頭を抱え必死に考えぬいたときに学問は否応なく生まれてくる。そう考えるとなぜこの世に恋愛学というものがないのか。いろいろ調べても、あのフロイトでさえ、恋愛についての持論を語るときには『性と愛情の心理』という言葉をつかってやや及び腰である。古今東西のあまたの芸術家が歌に歌い、絵に描き、言葉につづる、人類普遍の懊悩なのに。なぜ学問にならないのか。恋愛とはどうにも論理では語りきれないものなのか。そんなおり、昨年のいまごろ取材をさせてもらった、ヘレン・フィッシャーさんというアメリカの人類学者の関係で興味をそそられる情報を得た。なんでもこの世には<フィレマトロジー>という耳なじみの薄い学問があるという。これは知る人ぞ知る「キス」にまつわる学問。接吻というものは人類学的な見地からみて、本能的行為なのか後学的行為なのか。進化心理学的な視野からみて、人の心にどのような影響を及ぼすのか。また行動生態学からみて、キスという行為の頻度によって愛情の度合いは推し量れるのか。そのような疑問を日夜真剣に考え、議論を戦わせている学問集団がいるという。おもしろい。

さて、これらフィレマトロジストたちによるとーー、キスには様々な素晴らしき科学的効用が認められているという。まず第一に、唇と唇を重ねた瞬間、愛する者たちの脳内では、テストステロン、ドーパミン、オキシトシンといった数々の快楽ホルモンがどぱっと誘発される。これらはおのおの性的高揚、恋愛心理の増強、親密感の強化、を促すもの。つまりはキスによって人は脳内であらゆる脳内麻薬を放出し、その結果として、人間関係のストレスレベルを軽減しているのだ。ちなみにあるカナダの大学の研究によると、キスをしてから家を出るカップルのほうがそうでないカップルに比べ、欠勤率が低く、収入が25%も高く、寿命は5年も長いという。本当か。さらにギャロップ・サーヴェイによると、14.6%もの女性がキスを飛ばして「次の段階に進んでもいい」と考えているというデータがありながら。その反面、同じく女性は、セックスではなくキスの頻度によってパートナーとの関係性の親密度を推し量っているというファクトもある。愛がなくてもセックスはできるけれど、愛がなければキスはできない。五万の言葉が語りえないことを、ひとつのキスが語りつくす。旧来言い尽くされてきたことだけれど、その感覚の裏にはなんらかの科学的根拠があるらしい。

昨晩ある知人から、まわりの同世代の男女の多くが離婚の危機を迎えていると聞いた。しかも彼らの大半はパートナーに「手をあげてしまって」裁判沙汰になっているという。果たして彼らは日々、愛のこもるキスを交わしていたのだろうかーー。

(June 10, 2009)

Posted by iwaki : 14:46 | Comments (0)


NYストーリー 3

彼女はバーの部外者だった。歳は四十か四十五。赤々と闇夜の摩天楼にたなびく車のバックライト。ドライマティーニにジミー・チューのヒール。そんな都会的表層のさなかにおいて、彼女のまわりだけは、オハイオの煤けたリビングルームが透けて見えた。あきらかに昨晩、埃だらけの屋根裏からひっぱりだしてきた、実年齢にそぐわぬプロムドレスのような衣装。熟しきったフロリダオレンジの色合いが、煌煌と、周囲のモノトーンから浮いている。

突如彼女は、あたかも自分の過去を呑み込むかのように酒を一口あおり、上物のはおりを脱ぐ。そして肩もあらわなドレス姿で、バーの一角にあるソファー席へ。冷静を装いひとり着座する。周囲を見渡せばソファー席一帯は、体と体を密着させたカップルばかり。彼女はそこでもぽつねんと一人孤独に宙に浮く。五分、十分、十五分、ただただ座りつづける。大音量のクラブミュージックも彼女のまわりではコンクリートのように固着する。故ダイアナ妃を意識した、品良くもやや時代遅れなショートカットに指を通すしぐさだけが、不安げに断続的に繰り返される。それ以外、壁の花は微動だにしない。と、あるとき彼女と同年代の、これまたやや時代遅れなサックスブルーのシャツに身を包む男性がふらりと言葉をかけにくる。優雅を装い、彼女はぎこちない笑みを返す。この笑みに彼が応え、彼に彼女が応え、錆びついた車輪のような会話がゆっくりとまわりはじめる。

ニューヨークの酒と夜という非日常感覚を武器に、47丁目のヒップなホテルバーの片隅で、こうして見知らぬ男女がそしらぬ一組のカップルとして結ばれる。もうとうに適齢期を過ぎたから、若者の場に出向くのは恥ずかしいから、恋人を釣りに行くなんてみっともないから。そんな世間の目にびくつく気後れは、彼らかはらほとんど感じられない。女はいくつになっても女を武器にし、男はいくつになっても雄の本能を失わず、互いに真剣にやや緊張の面持ちで、大都会のジャングルのまっただなかで出逢う。彼氏彼女を必死に漁るなんて面倒だよ、とナイーヴに自閉して自分のプライドにめげてしまう最近の若者たちに見せてやりたい逞しさだ。

四十カップルの行く末を最後まで見届けることはできなかったが、たとえ一時の楽しみであったとしても、男と女が男と女として、異性を刺激しあうのは予想以上に人生の彩りを豊かにする。恋愛の達人・宇野千代も語るように「新時代の女性は、その全生涯すべてが適齢期」であるべき。自分で勝手に恋愛放棄年齢をもうけて生きるなんて、人生の色っぽさをみずから捨て去るようなもの。そんなの哀しいしつまらない。

(May 28, 2009)

Posted by iwaki : 14:44 | Comments (0)


NYストーリー 2

時差惚けが尾を引く疲労感が体の底に溜まっていた。両脚が重く、背中が板きれのように固い。古びた背もたれのブルックリンの劇場で三時間に及ぶ芝居を見終え、夜の帳のなか、さあマンハッタンに戻らねばと考えたときには、女ひとり身の緊張感をたずさえ、地下鉄を乗り継ぎホテルに戻るのが、なかなか億劫になっていた。そこで劇場出口からマンハッタン四十七丁目まで直通で体を運んでくれる、安全できれいな直行バスに、やや値が張るものの乗り込むことに。乗車口で係員に7ドルのチケット代を支払い、バス中央部の二人並びの席にひとりゆったり身を預ける。ほっと一息。これで何も考えずホテルの近くまで行くつくことができる。つねに自分の半径数メートルにアンテナを張っていなければ、いつ足下をすくわれるかわからないニューヨークの生活では貴重な安全感だ。同じく芝居を見終えたばかりの、やや年配の男女も、心おきなく観劇仲間との会話に花を咲かせている。

だがこの街では危機は予告もなくやってくる。ブルックリンを出発し、順調にイーストヴィレッジを通り抜け、二十五丁目あたりまで到達したとき、突然、急ブレーキとともに「ゴツン」と何かに衝突する感覚があった。事故と呼べるほど大げさな音ではない。自転車がカーブを切り損ね、近くの電柱にぶつかってしまったほどの軽い衝撃。トラフィックマナーの荒いこの街のこと。あらかた前の車のバンカーにでも、軽くぶつかってしまったのだろう。そう事情を推察して、通路側から前方の運転手を見やる。と、スーパーボウルに出場するクオーターバックのようにアドレナリン全開の運転手が大声で暴言を叫びながらバスを荒々しく降りていく。

「あいつ絶対にカットイン野郎だぜ。ふざけんな、金なんて絶対にやらないぜ」

バスドライバーの文句から察するに、我々のバスはどうやら、この国の当たり屋に狙われてしまった模様。赤信号でバスが停車する直前に、意図的に前方にカットインし、俺の車を傷つけてくれてどうしてくれるんだ、といちゃもんをつけて金をまくしたてるのが目的らしい。その狙いがバスドライバーはよくよくわかっているからか、はなから相手に対して謝罪の言葉をいれやしない。開口一番「ふざけんな」。そして互いに口角泡を飛ばし、相手の鼻先で文句を叫びあう。こうなると、アベニューのど真ん中で、クラクションの絨毯爆撃を受けながらバスは立往生。日本人的にはそんな凶暴な当たり屋は夜の街中に放っておいて、バスをそそくさと発車させてしまえばいいのにと思うのだが、アメリカ人はどちらが悪いか白黒つくまで一歩も動かない。しまいには、バス内の乗客たちもドライバーの援護射撃を買って出て、一致団結バスチームとして、カットイン野郎を攻めはじめる。

だがそこは時間に追われた短気なニューヨーカーたち。五分十分と罵倒合戦がつづくころには、みな口々に文句をぼやきながら夜の闇に消えていく。それはコーヒーマシンが壊れたのなら、しょうがないから紅茶でいいわよ、と気の利かないダイナーで注文を即座に変えるのと同じぐらい日常的な行為。まるで事故などはなから存在しなかったかのように、キャブをつかまえ去っていく。おそらくこのカットイン野郎の話題など、雑音情報の多い彼らニューヨーカーの会話からは、数分後には消失していることだろう。

疲れた体を預けるため、あえてバスに乗車したにも関わらず、結果的には地下鉄以上の労力と金銭力を裂いてホテルに戻ることになった帰路。そりゃこの街の人々はタフにもなるわ。と、ホテルのベッドに倒れこみながら吐息が漏れてくる。しかし東京という名の無菌状態の街に慣れてしまっている身には、逆に、これがほどよい刺激にも思えてくる。自分は自分で生き抜いている。この街に一人でいると、否応なく、そんな奇妙な充実感がもたらされる。これは自宅の脱衣所と同じテンションで街を歩いても何も起こらぬ、摩擦レスな日本社会では持てない感覚。自衛という名の日々の戦いが、心に生の充足感をもたらすのだ。人と人が、車と車が衝突するたびに、やわに心を痛めていては生きのびていけないニューヨーク。ふてぶてしく折れない心が、不夜城の灯火をうけ、いたるところに屹立している。

(May 24, 2009)

Posted by iwaki : 08:07 | Comments (0)


NYストーリー 1

チクタクチクタク。ひさびさに降り立ったニューヨークの街は厳格なデジタル時計に支配されていた。すべての行動が分刻み。たとえば『NY1』のニュースは1分単位のカウントダウンクロックが画面下に表示されていて、その日のトピックを、分ごとに区切って次から次に議題にあげていく。最初の1分はWTCのサミットについて、次の1分はブロードウェイの不況について、さらに次の1分はミシェル・オバマのファッションにうついて、と超音速の早口英語を駆使するコメンテーターふたりが、白の観点と黒の観点の両面から、双方一歩も譲らぬ強固な意見をまくしたてていく。ああなんて、せわしないニュース番組。なんだか見終えたあと、ニューヨークの街中が事件につぐ事件で、つねに追い立てられているかのような印象を覚え、ぐったりしてしまう。

ちなみに、このやや強迫神経症的ともいえるニューロティックなせわしなさは、私が訪れた取材先のクライアントたちにの性格も端的に表れていた。取材の約束時間は午後4時。礼儀正しい日本人らしく5分前に待ち合わせ場所のステージドアに赴けば、先方は時間の30秒前にドア口から「ハーイ」と上機嫌に表れる。そして持ち合わせの取材時間である30分を、これまたカウントダウンクロックがついたトークのように早口英語でまくしたて、きっかり時間どおりジャストに話し終える。そして何事もなかったかのように「バーイ」と一陣の風のように去っていく。

さらにもっとニューヨーク的なのが、取材と取材のインターバル時間の使い方。私は一日に5人のクライアントにインタビューを行ったのだが、たとえ、あいまの休憩時間が10分しかなかったとしても、部外者である私は例外なくいちど取材現場のビルから追い出されることになる。そして「また10分後にステージドアに来い」と申しつけられる。最初はこの待遇に、なんて他人に対して思いやりのない人たちなんだ、10分ぐらい同じ取材室で待たせてくれてもいいじゃないか、とふてくされてしまったが。ある地元民に聞いたところ、逆にこの処置は「10分間も、私の自由時間を束縛するのは申し訳ない」という彼らの思いやりからの行動らしい。

ニューヨークを闊歩する人々は、驚くべきことに3人にひとりは、iPHONEかブラックベリーを持ち自分のスケジュールをコントロールしている。となると10分のあいだに、個人メールをチェックしたり、Fedexの郵送状況を確認したり、Twitterで友人にコメントを送ったりして、有効に時間を費やすのだろう。

そういえば取材に応じてくれた女性ひとりが「ニューヨークにいる限り、退屈することはないわ」と喜々として語ってくれた。だがこちらからすると「退屈することがない」というよりむしろ人々は「退屈することを怖れている」ように思える。それぐらい彼らは日々の一分一分に、可能な限りのアクションとインフォメーションとディシジョンを詰めこんで生きている。ニューヨークは孤独な街。世界中から人々が集まってきては、一期一会で、人々が去っていく。だからこそ、ここで暮らすニューヨーカーたちは、過剰に自分の時間を埋め尽くして、ひとりぼっちになる孤独な時間がふとした日常の隙間から入り込んでこないように自己防御しているのかもしれない。

(May 21, 2009)

Posted by iwaki : 16:34 | Comments (0)


豪州でベッタな街

初夏の日本をぬけだして、南半球の街におりたつ。あたりまえだが季節は逆転、ここは秋の終わり。オーストラリアの乾燥した空気で、水分を奪われ老いた木々が、黄土色の枯葉を路上にはらはらと落とす。だが、これだけの距離を南方に移動してきたにも関わらず、季節の反転以外に、さほど目新しいものがないことに、ちょっとだけがっかり。特にシドニーの街は、ニューヨークとサンフランシスコを半々に混ぜて少し大味にしたような町並みで、ホテルから飛び出して外に出ても、新鮮味がひりひり肌に刺さってきて刺激的だぜ、というよりも、まったく緊張感なくぬるぬるとした日常感覚に近い日々を送れる。なにせ、街にならぶ店がスタバやらマクドナルドやらサブウェイやらなのだ。まあ、そうした店の前の路上にたむろしている鳥が、鳩ではなくカモメ、というところは確かにオーストラリアンなのだけど。グローバリゼーションは文化を壊す、という端的な例だ。

ただ旅初日に、一日だけ訪れた、メルボルンの街はシドニーよりはいくぶん面白かった。
メルボルンのタクシーの運ちゃんの話によると、ここはシドニーとはライバル関係にある街らしく。明日はシドニーに行くんだ、と私が車内でつげると「メルボーン、ズ、ベッタ(Melbourne is better)」とずーずー弁のように訛った英語で街自慢をしてくる。ま、ベッタかどうかは分からんが、確かに日本人からすると、メルボルンのほうが異質さが俄然極端で面白い。まず食べもののほとんどが、水ぶくれした溺死体のように巨大。重量リングのように重たげなドーナツ、犬の餌のように山盛りなフレンチフライ、バナナのようにでぶな寿司の細巻き。はなはだ失礼な話だが、食べもののできが「頭悪そう」。あとなぜかこの街には、中年パンクが多くて、高さ1メートルはありそうなモヒカン頭に革ジャンをまとって、でも「会社帰りでお疲れ」みたいな中年男子がそこここにいる。こういう我が道を行くファッションを貫く人は、多くの人がとても平均値で小綺麗なシドニーでは見られないので面白かった。

街にはそれぞれ個性がある。その街の個性は人が作る。
ただ大きな街になればなるほど、人は自分たちがその街を創りあげているんだという事実を自覚を忘れて没個性化していくのかもしれない。

DSCF0504.JPG
Melbourne
DSCF0507.JPG
Melbourne
DSCF0526.JPG
Sydney
DSCF0528.JPG
Sydney

(May 10, 2009)

Posted by iwaki : 10:28 | Comments (0)


南半球ヘ

今日から、いざ南半球オーストラリアの取材へ。にもかかわらず、朝おきたら、見たこともないようなブサイクな顔が鏡に。あまりにも変な顔なので思わずぷぷっとひと笑い。笑うとさらに変な顔。電子レンジの加熱で溶けすぎた餅のように顔がひしゃげる。別に今日に限ったことでなく、ここ一年半ほど、自分の顔がものすごく日々変化する。昨日はそれなりに見れた顔だったのに、今日は自分でも見たくもないようなこわばった顔をしていたり。しかも長期的なスパンで見ると、以前とは、あきらかに顔立ちが別人。それが嬉しくもあり興味深くもあり。「四十歳になったら自分の顔に責任を持て」とはよく言われることだけど、こんなにコロコロ自分の顔が変わると、どの顔に責任を持てばいいのやら自分でもわからなくなる。現段階では私は、最悪の四十の顔にも、最良の四十の顔にも、どっちにも転びうるということかも。最悪の顔になるのは嫌だから、なにがどう変化してきてるのか顔相学の本でも読もうかな。

(May 5, 2009)

Posted by iwaki : 12:37 | Comments (0)


ナザニーヌの集中力

ナザニーヌ。どこか夜の香りのする美しい名のイラン人女性にパリで出逢った。早くにイスラム文化圏を抜け出し、西欧社会で自律した人生を謳歌してきたという彼女。だからか、その黒薔薇のようにエキゾチックな名前とはうらはらに、風貌やファッションは、どちらかというとジェニファー・ロペスのような西海岸系。まだ25歳。おそらく会話も、オシャレやパーティーやボーイフレンドのことを取りとめもなく話したがるのだろう。そんな軽い気持ちで彼女と会話をしはじめたら、10分後には、その浅はかな予想を完全に裏切られていた。

19歳で大学を卒業し、22歳で心理セラピストの開業医となり、24歳でアッパス・キアロスタミと懇意の脚本家となり、いまは仏料理の名門学校ル・コルドン・ブルーでシェフになるため勉強に励む身だという彼女。25歳にして多くの人が40歳になっても成し遂げられないことを、猪突猛進、成し遂げてきている。経験値だけでいうなら、あきらかに、私よりも数段上。人生密度がそんじょそこらの二十代とは異なるのだ。

そんな彼女と、昨日は30分、今日は1時間、と少しずつ会話を重ねていく。と、彼女がなぜこれほど多くの職業で成功をおさめてきたかが、おのずと理解されてくる。ひとことで言うなら「集中力」の差。もう少し的確に言うなら「集中力の入れどころ」の差。たとえば会話作法ひとつとっても、ナザニーヌは無手勝流。さきほどまで熱心にこちらに耳を傾けていたかと思えば、5分後には窓外で巣作りする鳩を見てひとり物思いにふけっている。まるで瞬間瞬間、自分の好奇心のおもむくままに行動する五歳児のようなのだ。

だがそんな彼女だからこそ、ひとたび好奇心のアンテナがびくんと反応すると、他人の視線や周囲の景色が吹っ飛び、とにかく自分自身の欲望のタンクが満たされるまで集中しつづける。たとえば、ある映画話をしていたとき。なにか彼女のレーダーに引っかかる話題であったのか、極上の餌を見つけた魚のように話題に食いついてきた彼女は、こちらが「もういいだろ」と音をあげたくなるほど執拗に、そのテーマについて話しつづけた。おそらく1時間は同じテーマについて話していたように思う。

でもこのしつこさこそが、彼女の成功の秘訣。こちらがくたびれてしまうほど、ひとつの議題を思考しつづけることにより、倫理感や道徳心といったジェネラルな価値観とはまったく異なるオリジナルな哲学を自力で発見していく。そしてその自分哲学を信じて、まっすぐに行動に移っていくため、誰よりも早く自分の得意分野で成長をとげていくのだ。まあ、あまりにも周囲を顧みない彼女の行動は人に憎まれることもあるだろうし、得意分野が多ければ欠落部分も多い凸凹人生だとも思う。だが私としてはその度を超して無我夢中な生きかたに、気持ちよさを覚えてしまう。

ニュースで読んだ話によると、現代人の多くは、メールや携帯電話やSNSなどの雑音に数分ごとに気を削がれるあまり、集中力が著しく欠如してきているのだとか。そして集中力の欠如は、人生に対する、その場しのぎな不毛感を生む。これはデジタルライフを享受する世界、特に東京のように忙しなく生きることを余儀なくされる世界においては、豚インフルエンザ以上に留意すべき、恐ろしい風土病なように思う。30分、全身全霊でひとつのことに集中してみる。いざ実際にやってみると、一貫性のある思考を保つことがどれだけ大変か気づくはず。使わないと即座に衰える集中力。ナザニーヌに学んで、日々これを鍛えていこう。

(May 1, 2009)

Posted by iwaki : 19:13 | Comments (0)


UK, France, Netherlands

芝居やダンスの取材をコツコツこなしながら、イギリス・フランスそしてちょっぴりオランダに寄ってようやく先日帰国した。走馬燈のように移ろう景色の変化とともに、人生観も変わるような怒濤の毎日で、刺激のシャワーを浴びつづける身体性に、あきらかに思考速度がおいつかず、ブログを更新する余力がなかった。とりあえず時差惚けがなおって頭がすっきりしてきたら、きちんと整理して書くべきことを書こうと思う。

今日は帰国便のエール・フランスに
心に残るウィリアム・ブレイクの言葉が載っていたので、
それだけとりあえず。

「He who desires and acts not breeds pestilence」
(欲するのみで実行せざる者は、悪疫を発生させる)

心から自分が欲っするものがあるのなら、それを手に入れるために全力で行動する。欲しいと思うものが別の安易なものであると勝手に心のなかで妥協したり、欲しいけど無理だと自分を丸めこんで行動するまえから諦めたりしていると、のちのち、自分自身を裏切りつづけた反動で、心がとんでもない謀反を起こし精神が膿みはじめる。

自分に嘘をつくことが上手なのは、周りに迷惑をかけないニッポンの優等生の条件かもしれないけれど、心がはちきれそうなほどの楽しみと喜びに笑って幸せに生きる条件じゃない。ウィリアム・ブレイクの言葉に従って、欲望を発火点に行動を推し進める。それはちょっぴり怖いことだけど、実際にその行動におそるおそる出てみると、これほど心が爽快になることはないと分かる。すべて自分の好きでやってるんだから、と勝っても負けても心から気持ちよく生きられる。そんなことをここ数週間で身をもって体感した。

(April 23, 2009)

Posted by iwaki : 03:20 | Comments (0)


中学生の一人旅

中学生がありったけのお小遣いを握りしめて両替所にならんでいる。
お願いしますと言って、19000円を手渡す。
かえってくるドル札を大事そうに手にする。
聞けばはじめての一人旅らしい。
行き先はロサンゼルス。
手にした金額でどれだけいつづるつもりなのか。
毎日毎日学校に行くことに疑問を持って、
ちょっと旅をしてみることにしたらしい。
がんばれ男の子。かっこいいぞ。
私も今日から、一人旅だ。がんばろう。

(April 1, 2009)

Posted by iwaki : 20:02 | Comments (0)


めんどうくさいの罪

めんどうくさい。この感情ほど厄介なしろものはない。人間は日々なにかしらの目標を掲げて生きていく。が、たいがいの目標は、この黄土色のぬり壁のように分厚い「めんどうくさい」のまえに無残にも倒れる。英会話の習得だろうが、プログラミングのスキルだろうが、フランス文学の教養を独学で身につけるのであろうが。どれほど頭で「やろうやろう」とあくせくしても、腹の底からふつふつとめんどうくさいの灰汁が湧いてくる。正直なところ、この厄介な感情が湧いてくるときは、たいがい人は本当の意味で掲げた目標に身を投じようと思っていない。その技術が自分にとってさほど重要なものだとは思えないため、まあいいか、と道半ばで放り投げることになる。そして放っておけば人はどんどん、らくちんなほうに流れていく。子供のころ、倒れても倒れても、まだ前に進もうとしたあのころの健気さを失って、ぬくい湯船のような現状に耽溺してしってしまう。

禅寺の坊さんに以前、座禅では我慢が基本だと言われた。いきなり甘い汁だけど吸おうと思っても無理。苦い水を飲み続け、我慢をしたのちに、本当の意味での心やすさが訪れる。なかなか真理をついた言葉だと思った。でもこの小忙しい現代において、日々の情報の嵐に流されず、じっと根を張り我慢をするという能力は、本当にまれ。国宝級にまれな才能のような気がする。

そもそも、現代人はずいぶん昔に、言葉で何かを伝える努力さえも「めんどうくさい」と放棄してしまった気がする。そして、なるべく省エネに、なるべく衝突を避けて、らくちんに日々を過ごしていこうとしている。

人間には言葉にできない感情がある。確かにそれはそのとおりだ。けれどこの事実を無敵の印籠のようにたかだかと掲げ、はなから感情を言葉にする営為を放棄してしまったら、人はどんどん孤独になってゆく。なぜなら、言葉にしなくても分かってもらえるはず、通じることができるはず、というエスパーのような能力を他者に期待すればするほど、それはあきらかに、裏切られる確率をあげることになるわけで。伝える努力もせず、期待だけ高くして、勝手に裏切られて、さらに自閉していく。この悪循環を繰り返し、いま社会の会話の質がどんどん劣化している気がする。

要件だけを伝える無味乾燥な事務会話、暗黙のルールに則って行われる社交辞令会話、自宅や赤提灯で緊張感をすべて解いて自分の感情をたれながす日記会話ーー。生産的で知的な会話の現場は、いずこ。自分の思考に責任を持ち、それをふんばって能動的に言語化する。そしてその言葉を発信する。これには努力と、ちょっとした勇気が必要。だけどこの行為を「めんどうくさい」と放棄してしまった日には、なにを楽しみに生きていくのだろう。

(April 1, 2009)

Posted by iwaki : 00:14 | Comments (0)


愛と不在とゴドー

愛は不在と深い仲にある。愛おしい相手が遠くにあるとき、愛はますます深度を増す。だがどれほどその深度が増しても、ぶつける相手がいない愛は、未完了な消耗を招き、その消耗が不安へ、不安が怖れへとつながっていく。そして不幸な場合、実物の愛する相手がようやく目の前にあらわれたとき、その相手を真正面から受け止められなくなってしまう。これは不安の自家薬籠中というやつで、第三者からみれば、目もあてられないだろうが当人は必死なのだ。

「ゴドーを待ちながら」というアイルランドの劇作家サミュエル・ベケットによる傑作芝居がある。これは名も知れぬ二人の男が、来るとも分からぬゴドー氏からの連絡を、ただただ2時間、待ちつづけるという芝居。私がこの作品を最初に知ったのは、もう10年も前のことになる。そのときは二人の待つ男を描くことの、なにがそんなに劇的なのか、なんて退屈な芝居なんだと生あくびを噛み殺したものだった。だが気づけば女三十路への歳月は一瞬にして流れ去り、私もそれなりに人生は前進ばかりじゃないという機微が解せるようになってきた。そしてそんな今になってようやく、この芝居の底意が自分なりにつかめるようになった。

待つ行為は、相手がいてはじめて成り立つもの。相手が必ずいつか現れる。そうした期待のもとに待つ行為は、辛さのなかにも希望がある。その希望が、不在の日常を照らしだす太陽となる。だがベケットはここで、その待つ相手が果たしているのかいないのか、来るのか来ないのかもわからぬ無限地獄に二人の男を突き落とす。

忘れさることも、歩きさることも、捨てさることも、彼らには選択することができない。ただ、待つ。ただ、待つ。こうなると日常のすべてが羅針盤を失っていく。待つ相手が自分の魂に不可欠な存在であればあるほど、羅針盤は強烈な磁力に狂わされ、今立つ足場さえも不確かなものにしてしまう。いったい、いま私はどこに生きているのだろう。泣きじゃくりたいような不安に襲われる。その不安に蓋をするために、ディディとゴゴは落葉のように掃き捨てられる冗語的な会話で時をうめていく。

日々の習練と忍耐が、なにごとを成すにも必要だ。「待つこと」とて同じ。習練と忍耐が成功への鍵となる。けれどこれらの地道な努力も歩むべき道筋が定まって、はじめて実を結ぶもの。方向感覚を失った努力は、いかなる果実もみのらすことなく、時を虚しく浪費させるばかり。浪費はいつしか倦怠へとつながり、そして魂が徐々にしなびていく。「待つ」という行為の震えるほどの残酷さ。その行為がどれだけ人の心を痛めつけ、消耗させ、無に貶めていくか。その経緯を真正面から描ききったベケットという作家に、いまの私は荘厳な末恐ろしさを覚える。

(March 23, 2009)

Posted by iwaki : 23:50 | Comments (0)


男子弱体化と男性不妊症

「最近、不妊症治療が増えているのよ」

デンマークで友人の女性が鼻息を荒くする。そのときはなんとなく聞き流した。けれどその後、情報収集するにつけ、いま「男性不妊症」という言葉が北欧でしきりに取り沙汰されている事実を知った。その理由は簡単に言えば、精子の劣化。これは人類が安定志向な一夫一婦制を長くつづけてきた結果、競争相手を押しのけてまで卵子をものに、という闘争の必要がなくなり、いまどきの言葉でいえば、精子さえも草食系になりつつあるのだという。つまりターゲットである卵子になんとしても辿りつく、元気でへこたれない精子君が減ってきているのだ。ものの話によると、ここ50年でデンマーク男性の精子はなんと半減。理由としては「一夫一婦制理論」以外に「環境ホルモン説」も唱えられているが、いまだはっきりした原因はつきとめられていない。

さらに先日NHKのドキュメンタリーで、男性を男性たらしめている、Y染色体がいま人類から消えはじめているという説を知った。ある専門家はY染色体が「数百万年以内に消滅する」と、末恐ろしい推測まで口に。つまり、この世から男がいなくなるわけだが。そのとき人類は、数年前にイギリスのチェスター動物園にてコモドオオトカゲがとつぜん単為生殖をなしとげたように、ある日、処女懐胎できるようになるのか。

さて、ここからは完全に私の仮説というより妄想。最近スウェーデン人やデンマーク人のカップルを何十組も取材して、フィールドワーク的に感じとった知をもとに論を進める。取材を通じて第一に感じたのは、彼らの多くが「異性として惹かれ合っているというより、同性同士の友人のように仲が良い」ということ。現に取材対象者の多くは、中学校時代からの友達、隣近所の幼なじみ、という可愛らしいカップル。お兄ちゃんと妹のような安全感のなかでぬくぬくしている。それはそれでシジュウカラのつがいのようで愛らしく好感が持てるのだけど、同時に、なんとなくその「セックスの匂わなさ」に違和感を覚えたことも確か。異なる性だからこそ、ひとつひとつの理解を肉弾戦で勝ち取っていかねばならない、男女間の魂の摩擦がまったく見えず、そりゃ精子も弱体化するかもと思った次第。

話はさらに飛躍してーー。
異性愛を分析するさいによく引き合いに出される、人間のフェロモンについても言及したい。

フェロモンは、鋤鼻器という五感とは別の感覚器官でレシーヴされると言われるもの。最近、このフェロモンの種類が、人の免疫系システムを支えるタンパク質=「HLA」の型(血液型のように、いろいろ型があるらしい)によって決まるという知識を得た。そして、ざっくりとした言葉でまとめるなら、人間の雌は本能的に強い子孫を残すために、HLA型が異なる雄をフェロモンで嗅ぎ分けて選ぶのだという。つまり自分が持つHLA番号が1・3・5で、彼が持つHLA番号が2・4・6だとしたら。産まれてくる子供は、123456、すべての番号を持つ二倍免疫力の高い子供になる。それを雌は瞬時にフェロモンで嗅ぎ分ける。すごい能力。ただし、ここが重要なポイントなのだけれど、フェロモンを嗅ぎ分けられるかどうかは遺伝的に個人差があるという。そしてフェロモン探知機があまり敏感でなく、結果的にHLA型が似通った男女が子供を作ろうとすると「妊娠しづらい」という一説もある。

となると、兄妹のように似た雰囲気を持つカップルの多い北欧男女は、フェロモンをあまりうまく感知できず、HLA型が似た相手を選んでしまい、それが不妊症につながっているのでは……。なんて乱暴な独自論も展開したくなる。これはもう、あきらかに科学的根拠のない空想妄想セオリー。でも、サバイバル能力に長けた強い子孫を残す必要のない、安穏たる都市部だけで不妊症治療者が増えているのは「なぜか」と考えていくと。あながち、的から大ハズレではないかもとも思えてくる。

(March 20, 2009)

Posted by iwaki : 21:10 | Comments (0)


エローレとエラーレ

触覚が地から間欠泉のように沸きだし、振動が黒雨のように宙から降りそそぐ。人間の五感を美しく暴力的に攪乱する、イタリアの鬼才演出家ロメオ・カステルッチのイメージの洪水に西巣鴨創造舎で溺れた翌日。九段下のイタリア文化会館でおこなわれた、彼のプレスカンファレンスに向かう。昨年のアヴィニヨン・フェスティバルで絶賛された、ダンテの『神曲』三部作を、この秋日本で上演するにあたっての顔見せだという。プレスカンファレンスという、いかにも仕事然とした公の場所に出向くことはいまだ苦手。「授業中は一歩も立ち歩いてはいけません!」と教室の椅子に磔にされていた学生時代を思い出す。なんとかイリーの強烈濃厚なイタリアンエスプレッソを、ちびりちびりと口にしながら、ぼんやり惚けぬようがんばろうと決意をする。だが今日は、そんな子供じみた決意は嬉しくも不要に。一寸の弛みもなく仕立てられた濃紺のトラッドジャケット同様、誠実まじめな受け答えをつづけたカステルッチ氏が、とても考えさせられる発言を放ったからだ。

私が聞き逃してしまったある記者の質問に対して。
彼は知的に選び抜かれた硬質なイタリア語で、こう答えた。
「エローレとエラーレ」
イタリア語は皆目わからない私。けれど、その韻を踏む遊戯的な響きの美しさが耳の奥底に落ちてくる。よく聞けば、この二つの言葉を唱えながら、彼はダンテの天上的な叙事詩を舞台化する、という雄大なプロジェクトに立ち向かっていったのだという。エローレとはエラー、つまり過ちのこと。そしてエラーレとは、彷徨い、放浪すること。

「エローレ(過ち)を犯すことを考慮に入れることで、私ははじめて自由になれた。もし私が過ちを犯すことを怖れ、正しい道を歩もうと思いつづけたら、それはダンテの墓碑を創ることになっただろう。けれどエローレを犯すことをいとわぬことで、私は自由の身となり、自分なりの道をエラーレ(放浪)できるようになった。私は、そのようにして創作に立ち向かっていったのです」

アーティストである彼は、ここで創作に特化して話を進めている。けれどエローレとエラーレを日々繰りかえし、ムダな自己保持や自己顕示のない自由な心で生きるべきは、どんな職業の人間でも同じこと。ひとつのエローレに悪魔的に固執して、二度と生涯道を踏み外すまい、鋪装された安全道路を歩いていくのだ、と岩のように心を固めた日にはーー、そののち自分の無知を自覚させられることはなくなり、結果として、世界の美しく洪大な眺めを放棄することになるだろう。

芸術を創造するにしろ、人生を創造するにしろ、恥をかきたくない馬鹿にされたくない、と大人顔でトライ・アンド・エラーを怖れ始めると、世界は貧相に縮こまっていく。そんなときは大声で童歌のように「エローレ、エラーレ」と叫んでみよう。

(March 14, 2009)

Posted by iwaki : 02:15 | Comments (0)


デンマーク人の会話法

もうずいぶんと前のことになるけれど、凍える雪が毎夜のように降りしきる体感だけは肌身に忘れない、北欧コペンハーゲンで、優美なデンマーク・ロイヤル・バレエ団のダンサーたちと取材を交わしてきた。いま思いかえしてみて、仕事会話以外の部分で文化摩擦として記憶に残るのは、取材ダンサーのひとりが余談として話してくれた「日本人とデンマーク人の会話共通点」。

デンマーク人は子供のころから、他者に対してなるべく礼儀正しくジェントルマンにふるまうよう教育されるのだという。だから自分がどれほど出世しようと、どれほど金持ちになろうと、どれほど才能に恵まれようと、それを1ミリでも鼻にかけようものなら「あいつは嫌なやつだ!」と村八分に悪のレッテルを貼られることに。まあ確かに過剰に自分自慢をするようなやつは、たいがいの世界ではいけ好かないやつだから、この論理は納得がいく。けれどデイニッシュ会話の人間臭くねじくれたところは、ここから先の部分。過剰に自慢することを避けるあまり、しなくてもいいのに、あえて過剰にマイナスに謙遜するというのだ。

「僕は、たいした人間じゃないから」
「私なんてこの程度の人間だから」

そしてこうした発言に対して聞き手は十中八九、
「いやいや、そんなことはないよ。君もなかなかたいしたものだよ」
と、優しい合いの手を入れることを暗に望まれるという。
要は抑圧された自尊心を他者に押し売りすることで、会話を保っているのだ。

だから僕は自分がダンサーとして才能がある、なんて口が避けても言えないんだよね。まあでもここでは言っちゃうけど、とその彼はいたずらっ子のようにくすりと笑った。なんだかこの妙にねじ曲がったストレートじゃない会話法、甘えあいの温情主義から必要以上に言葉の表ではなく裏を汲んであげる手法が、どことなく日本人に似ている気がした。

とまあ、そんな煙のように消えてしまう無駄話はいいとして、来日公演の公式ウェブサイトにインタビューを随時掲載してもらう予定です。こちらのページでは、きちんと仕事としてバレエのことを書いています。なるべく丁寧に記事を書こうと思いますので、お時間があれば是非。

DSCF0425.JPG

DSCF0428.JPG

DSCF0418.JPG

IMG_9168_low_resolution.jpg


デンマーク・ロイヤル・バレエ団来日サイト
http://www.nbs.or.jp/blog/0905_danish/

(March 8, 2009)

Posted by iwaki : 03:00 | Comments (0)


誇張表現と不器用さ

文章を書く仕事をしていて、自分の文章には誇張表現が多いことに気づいた。華美な形容詞をめったやたらに使ったり、浮誇な表現でなんてことないものを凄くみせたり、とてもフェイクな匂いがする。そしてこの誇張表現が、最近は、ふだんの日常会話にも飛び火しはじめている。自分を実際より凄くみせるために、あるいは自分の価値に下駄を履かせるために、本来ならもっと控えめな表現をすべきときに威勢良くなんらかの意見を言い切っている。そんな自分に出会うたびに、ああまたやってしまった、と胸がむかむかして眠れないほど自分の汚い一面をなじりたくなる。この高下駄表現をなくしていかないと、自己査定が他者査定よりも明らかに高く、自分自慢をしつづける醜い中年になってしまう。だから、なるべく厳格に、なるべくシンプルに、なるべくすっぴんに。ブルーノ・タウトが「単純さのなかにこそ豊富がある」と言ったように、自分を飾り立てるのではなく、単純に単純に単純にいきたい。

もうひとつ、最近気づいた、というか再認識したことは自分が平均値以上に不器用な人間だということ。パソコンでホームページを作成するにも、物覚えの悪い幼稚園児のように「あいうえお」の基本がなかなか頭に入らない。あるいはこのごろ始めた自作香水づくりにしても、人が一度のミスで「おっ、これは失敗だな」と思うところを三度実験ミスしないと気づかない。今日もネロリとフランキンセスとミルラを混ぜている段階で、なんだか同じミスを犯していることに漠然と気づいたのだが、それがなんなのか不愉快にも思い出せない。結果、0.5ミリずつしか成長していかない。でもある側面のことに関して、まわりよりも極端に不器用なのは、考えてみたら子供のころからずっとだった気がする。ちくしょう、スマートな女になりたいのに…。それは無理な願いなんだろうか。

(March 4, 2009)

Posted by iwaki : 02:28 | Comments (0)


福岡のオアシス

フランスから帰国して、即座に福岡にびゅんと飛ぶ。そして仕事のあいまに『紺屋2023』というとてもユニークなアート雑居ビルを見学する。ここは地元で老舗醤油屋を経営する地主さんが「自分が持っていても有効利用できない建物だから」とアート関係者に格安でアパートをまるごと預けてしまった、このご時世に希有な場所。有志の若いアーティストが築50年のビル全体をリノベーションし、建築家から、インテリアデザイナーから、写真ギャラリーオーナーから、福岡市全体に無料Wifiを流通させようと試みている斬新なIT企業まで、17件のさまざまなクリエイター集団が入室している。なによりもおもしろいのが短期&長期のレジデンシー施設があること。最近ではベルリンのアーティストが1ヶ月滞在していたのだとか。1泊なんと3000円。誰でも借りることが可能とのことなので、福岡にお立ち寄りのさいにはぜひレンタルしてみては。明らかに下手なホテルよりも広いし、ビジネススーツを脱ぎ捨てた風通しのいい気分になれる。徒歩圏内には、Mac Storeや、アメリカンアパレルや、Adidasショップや、のんびりできるカフェもいっぱい。また一階には、知り合いのソムリエ兼シェフが手がけるというイタリアンバルも近々オープン予定で、広々とした屋上ではお天気の日には日光浴が可能。なんだか福岡に移住したくなる。

DSCF0449.JPG

DSCF0450.JPG

(March 2, 2009)

Posted by iwaki : 01:13 | Comments (0)


フランスのメトロノーム生活

東京に比べると人口が1000分の1しかない、フランスの田舎町から昨日帰国。このブルターニュ地方の町は人口の半分が町内随一の病院に勤めていて、あとの半分は病人ーー、というげんなりなジョークもあながち嘘とは思えないほど精気の失せた灰色の場所で、ほんの二日も滞在していれば町のすべてが見尽くせてしまう。まっとうなカフェが町に一個、まっとうなホテルも町に一個。ほとんどのショップには常時「Fermer(閉店)」の看板がかかり、若者の姿もほとんど見えない。あきらかに過疎化が進んでいることがわかる。こういう場所を目の当たりにすると、まだ東京の経済不況の風など甘っちょろいなと思ってしまう。たまには休日においしいものを食べる、たまには好きなブランドの服を買う。そうした贅沢産業がまだ多くの都市部の日本人には行きとどいている。けれど、このフランスの小町ではラグジュアリー産業と名付くものがほぼない。ただ暮らし、ただ働き、ただ生きる。そんなメトロノームのように単調な生活が町のリズムを決めている。同じカフェに行けば、同じ時刻に、同じ客が座っている。同じ服を同じように、気づけば三日ほど着つづけて暮らしている。少し不潔な男性などは二週間は風呂に入ってないのでは、という酸味がかった異臭を漂わせている。まあフランス人は元来風呂嫌いで、あのルイ十四世ですら入浴は年に一度、という記述もあるぐらいだから。これは節約というより文化に近いことなのかもしれないけれど。とにかく人々があまりに素朴にすっぴんに生きていて、自分がいかに恵まれた贅沢を謳歌しながらも「もっともっと」とスポイルドな日々を過ごしているかに気づかされる。東京の人々は「先が見えないから不安だ」と嘆く。確かにいま東京で先行きを考えると、希望がみえず闇にのまれてしまいそうになる。けれど、もしかすると東京の人々は見えない先を見ようとしすぎて、不安の歯車に拍車を掛けてしまっているのかもしれない。未来なんて先なんてさっぱり見えずとも、ボンジュールとボンソワを穏やかに繰り返し、ただ生きる人々が世界にはいるのだ。
十数時間の長旅後、東京の新宿に降り立つ。あたりを見渡すと、一生かけても見切れないほどの店が軒を並べている。電車に乗れば、音楽を聴く人、ゲームで遊ぶ人、携帯電話を弄ぶ人、と誰もがなにかしかの玩具を手にしている。余剰物の洪水、贅沢の嵐。頭がなんだかくらくらする。

DSCF0438.JPG


(February 28, 2009)

Posted by iwaki : 00:49 | Comments (0)


コペンハーゲンの人口美

冬色の鈍い太陽が落ちると、ちらちらと静夜に雪が舞う零下のコペンハーゲン。
この町を訪れるたびに思うのは、なんて朗らかで絵本のように美しい世界なんだろうということ。チューリップやバラの花を無造作に束売りする素朴なマーケット、芥子色や若草色や空色の布地を窓にはためかす愛らしいインテリアショップ、近くの海辺から遊びにくるカモメたちが暢気に空を旋回する劇場前広場。穏やかで、平らかで、満ちたりた、暮らしむきの良さがうかがえるブルジョワな香りがあたりを覆っている。

けれど、何かがおかしい。何かが窮屈。何かがきれいすぎる感じがする。と、へそ曲がりな私の「違和感レーダー」が今回の旅では作動しはじめる。よし、ここはひとつ観光地といわれる場所を抜け出してみよう。そんな決意を腹にすえ、ホテルのレセプションで地元人の日常移動ツールである自転車を借りる。そして寒風に負けずびゅんびゅん町中を走りまわってみることにする。巨漢揃いのデンマーク人仕様のため、私では足がほとんど地面につかない真っ黒で無粋な自転車にまたがり、いざ出発。たいがいの奇抜でおもしろいアンダーグランド・カルチャーは「裏路地にある」という定則を信じ、なるべく人通りの少ない裏道を散策してみる。

数十分後、信じたくもない、ひとつの事実が頭をもたげてくる。この町には「裏路地の顔」がほとんどないのかもしれないーー。完璧に舗装された表通りは、土曜日のショッピングをゆったり楽しむファミリーで溢れかえっている。だがそこから一本裏に入ると、ショップやカフェがないどころかあたりいちめんなんにもない。いきなりのっぺらぼうで、無表情で、しらけた空間が現れる。しかも15分も自転車で走れば、シティセンターの賑やかさは完全にとだえて、公園で犬ころのように雪遊びに惚ける子供たちの声が響く静かな住宅街に突入する。美しいシティセンター、平和な住宅街、のっぺらぼうな裏通り。快楽や強慾や絶望が身にまとわりつき、こすってもこすっても垢のようにとれない、負の人間臭さがどこにもない。デンマーク人のみょうに折目正しいポライトな会話術もあいまって、純白のペカペカな美しさが世界の果てまで続くように思える。

夕刻。ちくしょう、全然、闇の顔を見せやがらない、腹の底を割らない町だぜ、と心のなかで毒つきながら、あきらめてホテルに帰ることに。ぼんやりと頭を空っぽにしてコペンハーゲン中央駅を背に、どこかもわからぬ裏通りをぬけていく。と、突然、ポルノ、ゲイ、セックスといったネオンが目に飛び込んでくる。またクミンやらナンプラーやらカレーやらの異国の香辛料が鼻をついてくる。さきほどまでの傲慢なほど輝かしい白人文化とはうってかわって、黄土色の肌の人々がやるせなく疲れた表情でたたずんでいる。あきらかにデンマーク人が見せたがらないデンマークの顔がここにはある。人間臭い負の感情がここにはある。ああ、ようやくなんらかの町の本音に辿りつけたぞ。そんな安堵感が心に浮かぶと同時に、こうした人々は純白の市内中心部から暗に「排斥されている」という残酷な事実も理解されてくる。今日の私は純白世界のド真ん中にある王立劇場での取材仕事を終えてきたばかり。だが、顔かたちは周りの移民社会に溶け込んでいる。なんだか複雑な気持ちになる。

王立劇場やティボリ公園やアンデルセンの待つ市庁舎広場のまわりでは、そこらのなにげないカフェに入っても金髪の美男美女が働いている。ちょっとした洗脳のように、まるで美しいものしかコペンハーゲンにはないように思えてくる。けれど、光や美や豊かさだけの世界なんでどこにもない。幸福の匂いだけで埋め尽くされた国なんてありえない。ただこの町では、おそろしいほど強引に、闇や穢れや不幸といった負の要素が、目に見えぬところに押しこめられている。そして完璧に制御された人工美が、観光客の写真におさまる表通りで勝ち誇っている。

(February 22, 2009)

Posted by iwaki : 17:19 | Comments (0)


心の手綱

旅にでるときはなるべく身軽に行きたい。それは持ち物もそうだし、心も。日本で自分が抱えている、価値観や、雑念や、リミッターを、なるべさっぱり取り払って、埃や垢のつかない襟を正した清潔な心で旅に出たい。日本ではこうしているから、毎日の食事はこうだから、こんな場所は自分のテリトリーじゃないから。そんな心持ちで自分をガードしていると、せっかく出逢えるかもしれない「驚き」をみすみす逃してしまう気がする。心が揺れるとき、ぶれるとき。確かにその瞬間は、自分の足場を見失うかのようなちいちゃな不安感が浮き出てくる。けれど旅の記憶は感情の揺れ幅に比例して、豊かにふくらんでいくように思う。もちろんそれでいて、芯はしっかり。感情が揺れても軸から倒れないよう、根を深く張っておきたい。今日からまた一人旅。行き先は、零下のコペンハーゲンとフランスの田舎町。心の手綱を解き放って、なるべく異国のノイズを敏感に感受したい。

(February 19, 2009)

Posted by iwaki : 11:13 | Comments (0)


車内アナウンスと自由意志

いつごろから電車内はこうも喧しくなったのだろう。子供のころはガタンゴトンと体に響く線路音が遊び疲れの眠気をいざなうほど、もっとずっと静かな空間だった。小田急線の各駅停車など暖かな昼下がりに乗ろうものなら、そのまま泉鏡花の午睡世界に連れて行かれてしまいそうな、夢ともうつつともとれぬ至福のまどろみを味わえた。なのに今はどうだろう。あきらかに都内の人口が大量増加しすぎていることを差っ引いても、あの電車内での増長な「お願いアナウンス」は、あまりに無粋で煩わしすぎる。携帯電話はお切りください、ヘッドホンの音量は低めにしてください、かばんは前に抱えてください。あなたのアナウンスがいちばん耳障りだよ車掌さん、とは言わないまでも、そう心のなかで小さくボヤきたくなるほど、いろいろなマナー情報をご丁寧に訓示してくる。

最近、これらのマナー警報で愕然としたのが、成田空港行きのリムジンバス。携帯電話の使用を控えてほしい、というアナウンスが英語で入るのだが。直訳するとこれがとても奇妙。

「お客様にお願いがあります。
車内での携帯電話のご利用はお控えください。
なぜなら、それは近所の人を不快にします」

うん、確かにそのとおりなんだけれど。ねぇ、最後の一文は必要?
たいがいのマナー警報は、お願い、の時点でとどまる。そのお願いを客が聞き入れなかったときの、被害、に関しての詳細は伝えられない。要は聞く人間はいい大人なのだから、それぐらい自分の頭で判断しろよという話だ。けれど上記のアナウンスは、あきらかに最後の一文で、お願いの段階を飛びこえて、被害の説明にまでぐぐいと踏みこんでいる。
こうなるともう、手取り足取りの幼稚園児への指導と変わらない。

オランダでは、麻薬も売春も安楽死もすべて「自由意志」で選択される。
法律でがんじがらめにして「絶対にダメ」と規制するのではなく、とりあえず選択肢はオープンにしておいて、あとは大人であるあなたたちの自己判断でどうぞ、と。個々人に尺度を委ねきる。そんな放任主義なことでは麻薬中毒患者が爆発的に増えるだろ、と思われるかもしれないが。じつは法律で頑として麻薬の使用を禁じるフランスなどより、オランダのほうが患者数は少ない。こんな自立心の発達した国で、先の携帯電話のアナウンスを流したら「分かってるよ、子供じゃないんだから」と一笑に付されてしまいそうだ。

このまま行くと日本人は、いま以上に、ルールがないと動けない国民になる。そして盲目的にルールに従うことは、自分の欲求を抑制することとなり、生きることへのパワーを低くする。ヴォルテールは「真の欲求のないところに、真の喜びはない」と言っていた。車内のアナウンス程度のことで何もヴォルテールまで引き合いにださなくてもさ、と思われるかもしれないが。なにごとも、小さく些細なことほど大切なのだ。大胆に自己規制されれば、刃向かいようもある。けれど白蟻被害のように些細なところから、徐々に自己を虚勢されていくと、気づいたときには中身はがらんどうかもしれない。

(February 13, 2009)

Posted by iwaki : 23:23 | Comments (0)


福岡で女論

二月のはじめは、福岡。初乗り290円という驚愕の昭和金額なタクシーに乗りこみ、中洲の屋台で、生まれてはじめて日本を訪れたという英国人中年女性と歓談する。彼女の主観話によると今イギリスでは、ミドルクラス以下の若い男たちが、欧州の「女強男弱化」現象に反し、妙にマッチョ化しているのだという。そしてそれに追随するかたちで女子たちは必要以上に過剰露出なドレスに身をつつみ、きゃっきゃとマッチョな男に狩られることに喜びを感じているのだという。70年代にフェミニズム旋風のまっただなかに身を置いて、女性の権利のために必死に戦ったという彼女は「女があんな服装をして男性に媚びるなんて、私たちはなんのために戦ってきたのよ!」と憤っていたけれど。最近の私は、彼女が語るようなひとむかしまえのフェミニズムにはかなり懐疑的。男女同権は素晴らしいと思う。けれど女が男と1ミリの誤差もなく肩をならべ、色気のかけらもない戦闘服を着こみ、私たちは男と同等のことがなんだってできるのよ、と必要以上に牙を剥くのはなんだかむしろ不自然な気が。とくにフランスに行くと感じるのだけれど、女性たちはやたらめったら突っぱらかっていて、男にノンノンと口答えをし、相手を服従させることで、自分のちっぽけなプライドに高下駄を履かせているような気がする。でも男という生き物は、女にほほえまれ育まれ認められ、はじめて自律できる弱きもの。四六時中ノンと言われ、私のいうことを聞きなさいよ、とあごで使われた日にはーー、その男の雄としての大らかな魅力がひらかないように思う。先月取材した賢女ジュリエット・ビノシュがくしくも語っていたように「女が男を許容すること」は「女の弱さではなく強さ」の象徴なのだ。
ただ話を前出の現代イギリス社会学に戻すなら、だからといって女性が自分の「性」を商品化して、露出過多な服装で、男にそれを売ろうとするのは安っぽい娼婦の行動と変わらない。娼婦になるのも、戦士になるのも、どちらもとっても極端すぎる。それに男からの反動で行動が取られているという意味で、どちらも女として自由じゃない。ただもし生き方としてどちらかを選べと言われたなら、私個人は、相手を受け止め、会話に耳を貸し、色気を磨きつづける娼婦の賢さのほうに、より女性ならではの知があるように思える。女は女、男は男。それが楽しくて一緒にいるんだから。やっぱり性は無化すべきじゃない。


DSCF0409.JPG

(February 5, 2009)

Posted by iwaki : 00:31 | Comments (0)


信頼度数

「いま、最も信頼できる人は誰ですか」

世論調査で、この問いを
既婚者と未婚者の双方にたずねた。

未婚者の回答は、母親と父親がともに3割強。
パートナーと答えた人は、男女ともになんと1割未満。

これに対し既婚者の回答は、
両親と答えた人間は1割未満で、
パートナーと答えた人が8割強。

このデータを読んだとき、素朴な疑問がわいた。
1割未満という低い信頼度数が
8割強という高い信頼度数に変わる、
その瞬間はいったい、いつだ。

結婚したら優遇者が大切な人になる。
確かにそれはそうなのだろう。
だからといって「はい、今日から夫婦です」と入籍したら
とうとつに、無条件に、考えなしに、義務的に、
親よりもパートナーを信頼するのか。
もちろん、そんなことはありえない。
絶対にそこには、端境期というものがあるはず。

気になったのでまわりの既婚者数人にたずねてみた。
返ってきた答に共通していたキーワードは「物理的時間量」。
つまり親といる時間量よりも、
パートナーといる時間量がうわまったときに
「親 vs パートナーの信頼関係」が逆転する。単純だ。

しかし本当に人間の「信頼」は、そんなに単純なものなのか。
一緒に過ごす時間がどれだけ長いかで決まるのか。

個人的な考えでは、
何十年一緒にいても、どうにも信頼が築けず溝ばかり深まる人もいる。
たった1週間の間柄でも、この人は信頼できると心を開ける相手もいる。
つまり20年来の友人への信頼を、1週間のつきあいの他人が、
うわまわることもある。
そこには相対的な時間量とは関係のない、絶対的な尺度がある。
残酷な考えかもしれないけれど、私は素直にそう思う。
とにかく「信頼」は、そんな単純なものじゃない。

(January 27, 2009)

Posted by iwaki : 01:02 | Comments (0)


官能的なローマの蓮

世界に紗幕がかかったような煙雨。ローマのチャンピーノ空港で、天候不良のため数時間、空港ロビーで待たされたことがある。運悪くパソコンのバッテリーが切れる。降りそそぐ多言語が気になって、集中して本を読む気もおきない。そこでしばらくぼんやりと、まわりの人間観察をすることに。

肉厚な手で携帯電話をつかみ、今にもカンタータを歌いはじめそうな大声で仕事相手に遅延事情を説明するでぶっちょのビジネスマン。チョコラータをゆったり口に含みながら「いつ飛ぶのかねぇ」となんだか暢気に談笑する老夫婦。ニコチンが切れそうなのよ、煙草を吸わせてよ、どうなってるのよと紅色に染めた髪を振り乱しながら係員にキツツキのように文句をいう熟年女性。外国での人間観察は、見慣れないぶんおもしろい。飽きることなく、次、次、次、と人々に目を走らせていく。ふと、自分の右前方10メートルほど先に、今まさにフェリーニの映画から飛び出てきたような「官能的」としか形容しようのない男女を目撃する。年齢はおそらく共に四十手前。特別な美男美女というわけではない。が、なんだか向こうから闇夜の香気が漂ってきそうな、不思議なヴェールが彼らを覆っている。身体の曲線美がよく映える漆黒のスーツに身を包んだ女性。意志のある細い指で、書物のページを淡々とめくっている。なにか一文が気になったのか、めくるリズムがあるとき止まる。紅で整えられた口角をあげて、男性の耳もとにささやきかける。一瞬、本を覗きこむ男性。そして、声を発することなく目だけで女性に愛をかえす。

こんなに官能的な男女に出逢うことはめったにない。特に女性は、露出が高くダイレクトに色っぽいお姉さんはよく目にするけれど。官能的、というセンシュアルな形容詞が適切な女性にはあまり出くわさない。

ちなみに女性が性交のさなかに火照った身体から放つ自然臭のことをフランス語で「オドゥール・ヴォルプタチス」と言う。そして、これはどれほど過激にセクシーな服装で異性を誘惑するよりも、いやがうえにも、男性の官能を燃えたたせるという。空港で目撃したセンシュアルな女性が、どんなパルファンをつけていたかは、至近距離まで近づかなかったので分からないけれど。私の想像のなかではこの女性がうっすらと、オドゥール・ヴォルプタチスの残り香を、知的な装いの下に漂わせているように思えた。

そういえばインドのカーマ・スートラでは……最初に考えついたやつは女性にこっぴどく怒られただろうが、愛液の匂いで、女性美を四段階にわけたと聞いたことがある。最高の女は、蓮の香りーー。

まあ蓮の香りがするかは別として、確かに官能的な女性たちは、顔かたち以上に、なにか不思議な美しさを匂いとしてまとっている気がする。それは別にその人の香りを嗅ぐと即セックスを連想する、という直接的なものではない。確かにそれは性の匂いではあるのだけれど、どちらかというとより婉曲表現。料理にしのばせたひとつまみのクミンのように、知らずのうちに人をその味で虜にする。と、そんなむだに色っぽいことを、ローマの空港でひとり妄想する。待つこと数時間、空を覆っていたオドゥールのような濃霧は晴れて、機体は空に飛びたった。

(January 25, 2009)

Posted by iwaki : 01:33 | Comments (0)


海外旅行の3Kと体験知

二十代の海外旅行者数がこのところグングン減っているという。これはもちろん今の経済動向と無縁なことではないだろうが、それ以上に、インターネットで済まして「行くのが億劫になっちゃう男女」が多いらしい。ただこれはある旅行会社の広報担当者からの伝聞情報。果たして本当のところはどうなんだ? と、実地に話を聞いてみることにする。さっそく二十歳を迎えたばかりの男の子をつかまえ雑談してみる。なんで海外旅行が好きじゃないの? すると、とんでもなく単純な答えが返ってくる。

「金がかかる、危険、(外国人が)怖い」

まるで<海外旅行の3K>とでも命名したくなるような、明解なる答だ。

最初の金がかかる、これは分かる。確かに家にいるよりも海外旅行は遙かに金はかかる。そして二番目の危険というのも、とても安全な日本からみれば、たいがいの外国地域は危険の部類に入る。まあ日本人の危険閾値は低すぎるから、もう少しタフになれよと説教もたれたくなるが。そこはグッと我慢する。だけど、さすがに物申したくなるのが三つ目。外国人が怖い。いや、もう鎖国時代じゃないんだから。とって食われるとでも思っているのだろうか。ちなみによくよく話を聞くと、彼は、外国すべてを総括してただ漠然と「怖い」と思いこんでいる節があり。外国で外国人に外国語で話しかけられると、思考のスコトーマ状態に陥るらしい。ちなみに彼の海外旅行経験は、人生合計2回である。

で、結論としては、金を無駄にかけ、危険にびくつき、外国人に緊張しぃしぃ、旅行するぐらいなら。日本でゆっくり茶を飲みながらインターネットで情報を得るということになるらしい。まあ筋は通っている。

確かにインターネットは便利だ。私もとてつもなくお世話になっている。広辞苑やブリタニカ百科辞典を調べるよりも先に、ついネットのWikipediaをYouTubeを見てしまう。けれど、いつも思うのはそこに書いてあることの信憑性。歴史から科学から日々の社会的ニュースに至るまで、これは本当にそういう話なの? と、どうしても記述の裏を知りたくなる。「自分の目で見るまでは信じない」じゃないけれど。どれほど多くのデータを使って丁寧に説明されていても、主観はつねに介在しているもの。ならば身を以て体験して、自分の主観、で話の筋を構築していく。そうすることで初めて自分なりに「わかった」と言える気がするのだ。

答を知ることと、答を見つけていくこと。これは完全に別の「知」だ。
話を前述の海外旅行の3Kに戻すと、確かにインターネットでも海外情報の多くの答を知ることはできるけれど、それは実地にフィールドワーク的に体験して「わかった」といえる知とはまったく別物な気がする。

頭脳知の「Knowledge」と、体験知の「Savvy」。
ともにバランスよく必要なものではあるけれど、このままいくと日本人のSavvy力は、衰えていってしまうかもしれない。

(January 19, 2009)

Posted by iwaki : 01:13 | Comments (0)


アートの真価実験

冬晴れの清々しさのなか大粒の雹がにわかに降る、という不気味な天候変異に見舞われた成人の日。えいやと重い腰をあげ都内某美術館を訪れる。傑作もあれば駄作もあり。正直、ピンキリのキリのほうは「美術館に飾ってある」というフレーミングがなければ、屑かごにポイッと捨てられてしまうのでは、誰もアートとして認識しないのでは、という眉唾な代物もあった。でもそんな作品の前でも鑑賞者はふむふむ感心している。こうした光景を目のあたりすると、いったい芸術の価値ってなんなんだろうと漠然と疑問がわいてくる。人はアートの何を見て、いったいふむふむ頷くのか。いったい何を根拠に美しさを評価するのか。いったい何を感じて心を震わせるのか。

この流れで今日ここで話したいのはワシントン・ポスト紙に掲載された記事。いろいろなサイトに情報が出まわっているので、既に聞き及んでいるかたも多いかもしれないが。この米国有力紙はジョシュア・ベルという今や飛ぶ鳥を落とす勢いの世界的バイオリニストの協力を得て、ある子供のイタズラのような実験に出る。実験ミッション=「芸術はコンテクスト抜きでも人に理解されるのか」。要は美術館に飾ってある、名のある芸術家である、批評家が新聞で誉めている、という外的要因をすべて取り払ったところでも、芸術の真価は同じように人に伝わるのか。という、そんな実験だ。

ある朝、ジョシュア・ベルは、くたくたジーンズにベースボールキャップという、いわばそこらのぱっとしないストリートフィドラーと変わらぬ装いで、ワシントンDCの地下鉄駅構内に立つ。時刻はラッシュアワー。官公庁が近いため、ブランドスーツに身を包んだ、エリートサラリーマンが足早に改札をくぐりぬけていく。改札手前のある一角で、おもむろに、何億という市場価値をもつストラディヴァリウスを取りだすベル。ほんの数秒の気まずいチューニングののち、一曲目、渾身のバッハのシャコンヌを駅構内に響かせる。果たしてどれだけの人が、あきらかに尋常レベルを越えた彼の演奏に歩を止めるのか。結果はーー、惨憺たるもの。43分の演奏中、たった7人が立ち止まり、27人が小銭を投げ入れ、あとの1070人は彼を黙殺し無表情に改札を通りぬけていった。

この結果を知るといったいどれだけの人が、事前情報ゼロ、知識ゼロ、外的要因ゼロの、フラットな環境のなかでも芸術そのものの美しさを「感じる」ことができるのだろう、と頭を悩ませてしまう。多くはまわりの意見に右にならえして、人がいいと言うものを考えなしに「いい」と思いこんでいるだけではないのか。あるいは学習した芸術史の文脈になんらかのかたちで則すかたちで「知識的にいってこれはいい」と数学の計算式を解くかのごとく論理的判断を下しているだけではないのか。ダンスや演劇を見まくる仕事をしている私でも、そうした「コンテクスト情報」に頼っていないと言いきる自信はまったくない。

アートと鑑賞者が素っ裸の状態でがちんこで向きあう。そこで頼れるのは、アーティストの力と鑑賞者の力のみ。その完全フェアファイトな闘場でも、真価を伝えることができるアートがどれだけあるだろう。あるいはその真価を受信することができる鑑賞者がどれだけいるだろう。あまりペシミストすぎる予想はしたくないけれど。正直いって共に数はそう多くない気がする。となると巷間をにぎわす芸術の真価って、いったいなんなんだろう?

The Washington Post http://www.washingtonpost.com/

(January 13, 2009)

Posted by iwaki : 00:57 | Comments (0)


落語社会学

立川談春さんの落語会に足をはこんだ。めったに落語は聴きに行かないのだが、今回はご本人に取材した関係で、即日完売だという独演会に、幸運にもご招待いただいた。銀座のブロッサムホールは二階まで鈴なりの満席。客層も世間一般の寄席のイメージとは異なる、老若男女いりまじった構成。ミュージカルやバレエなどの公演に比べるとむしろ客のバランスがとれている。客電があえて落とされた会場で落語に興ずるという体験は初めてだが、それだけ観客も集中して闇のなか噺家に耳を傾けていた。

談春さんは咽頭ポリープの術後だとは思えない覇気にみちた口跡。口先よりも想いが前につんのめるような衝動的なしゃべりが印象的。まるで「ここにいる客全員を、今晩、俺のものにしてさらって帰ってやる」と腹の底で吠えているような骨っ節で、のほほんとしたイメージの落語とは相反する、怒りにも似たプラズマ波動を終始放射している。おのずとこちらも理屈というより、節まわしや勢いでぐいぐい引き込まれていく。

しかしここで書きたいのは、失礼ながら談春さんの芸とはまったく関係のない話。あえて端的に語るなら、落語とは非常に日本的なものを扱う芸能なのだなと改めて感じたということ。何をいまさらと思われるかもしれないが。これは別に八五郎や殿様や長屋の大屋さんといった、一昔前の登場人物が描かれるから云々という表層的事象について言いたいわけではない。ただここで描かれる精神がゆるぎなく"現代"日本的なのだ。

当日は『妾馬』という世間からある種ドロップアウトした我が道を行く主人公が、殿様の世継ぎを産んだ器量良しの妹に会いにてんやわんやの登城を果たすという噺が披露された。だがこの噺のスジがどうにもこうにも、最後まで私には納得がいかない。なぜなら「結婚しない、嫁ももらわない、俺はそれでいいんだ」と清々しくゴーイング・マイウェイに生きるように見える主人公の男が、いきなり終盤になってコロッと「俺はこんなだから親孝行のひとつもできないんだ」と世間的な価値観に寝返って自分を否定的にかえりみるのだ。この噺のなかで唯一、世間よりも自分の価値観を強く信じて自由に生きるように思える主人公だったのに。最後の最後で、ものすごく平凡な価値観の、ものすごく平凡にいいことを言って終わる。で、これに客は感動の涙を流す。けれど私には正直、ちょっぴり残念な結末に思えた。至極バイアスのかかった乱暴なまとめ方をするなら、とても自分の想いに純粋な個人主義的な生き方が、世間一般に善しとされる最大公約数的な生き方に呑み込まれ「めでたしめでたし」と終わったように思えたのだ。

ここから論を飛躍逸脱させると、なぜ現代日本で落語が流行っているかが自分なりに見えてくる。いまは経済破綻だ、不況地獄だ、首切りだ、といろいろ足場が危うい世。すると人はおのずと「安定」に走る。こんな時代だから仕事があるだけでもいい、という言葉を昨年から何度耳にしたかわからないが、なんて保守的な自己肯定だろう、とそのたびに私は時代の影響を思わずにはいられなかった。いずれにしろ、人心の針はいま安定の方角にぐいと向いている。すると、良くも悪くも同調性の高い日本人はより互いに同調して生きるようになる。世間的にアベレージな道を行くことで、平均値な幸せだけはなんとか死守しようと努める。そしてその結果、ちっちゃな幸せとちっちゃな不幸せを、つつがなく、平凡に、温かな眼でつむぐ落語の世界に魅了されていく。どうだろう。まあ落語にもよりアウトローな演目はあるのだろうし。私は社会学者ではないのでこれは完全に勝手な憶測にすぎない。けれど今日幸せな笑いに満ちた会場に二時間身を置いてみて、肌身で、今の時代が落語的なる生き方を求めているように思えた。

(January 10, 2009)

Posted by iwaki : 00:05 | Comments (0)


幸せアレルギー

「地球上でいちばん大切な人を、自分以外に探すことができたの」

三十九歳のアンジーは、軽やかにこう口にした。
イタリア、スペイン、アメリカ、シンガポール、ニッポン。
この世にあるのかもわからない<理想の愛>を見つけるために、彼女は世界中を旅してきた。陽気な彼女のかたわらにはいつもふわりと男性が寄りそってくる。けれど彼女の心には、ぽっかりと大きな穴。ローズ・ド・ニュイ(夜の薔薇)の香水に溺れたイタリア人との甘美な愛も、バルで夜な夜な歓談に酔いしれたスパニアードとの陽気な愛も、東西の哲学議論にあけくれたシンガポール人との刺激的な知性愛も、どれもこれも、季節が二度巡るころには終わりを告げていた。彼女がいつも欲したのは、特大の無償の愛。求めて求めて求めて、世界の街を旅しつづけた。

けれどある冬、地元に帰郷し、彼女は不可知な愛に出逢う。「ファックスロールよりも長い理想の男性リスト」には八割方チェックがつかない相手なのに、なぜか、心がはなれない。ある意見を言えば、彼は違う見解をかえす。以前ならそれにいちいち腹を立てていた。けれどいまは視点が二つあることが逆に喜びを倍加させる。独りでいると会話が濁らないけれど、二人でいると会話が止まらない。そこでアンジーは一昨年の大晦日の晩、ガレージで車のエンジンを止めるとともに、理想の男性リストを破り捨てる。そして彼の胸に飛び込む。気づけば初夏の緑が輝くころには、しゃちほこばった条件リストの存在などきれいさっぱり忘れていた。ああ、私は本当に彼を愛しているんだ。間歇泉が吹き出すように、エネルギーが心奥から解放される。以来、彼女の毎日は、発見と驚きと喜びの連続。彼女は言う。

「ようやく私は気づいたの。愛は二人で作りだすものだって」

けど天の邪鬼な私は「そんな愛のクリシェには騙されないぞ」と、すぐさまこれに呼応しない。「もしそれが本当なら、あなたは今すごくハッピーね」と偏屈な疑問を投げ返す。

すると彼女はうぶな少女のような笑顔でうなずき、一拍おいて、現代女性ならではの愛の混乱に充ちた言葉を加えてくる。「でもハッピーすぎて怖いのよ」。なんたる贅沢。心のなかの小鬼がつぶやく。だが、どうやら彼女は嘘なくハッピーを恐れているらしい。だからいまの彼との生活が万事うまくまわりはじめてから、幸せになるほど不安に駆られ、喜びが多いほど心配に襲われ、結果、四肢の皮膚が日々荒れどおしだという。ほらね。そう言って空色のセーターの袖をまくると、熟しきった苺のような湿疹がそこらじゅうに浮き出ている。

「私は幸せアレルギーなの」。アンジーは妙なことを言う。

彼女が実際のところなんのアレルギーかはわからない。でも彼女自身は自分の体が、断固、幸せに拒絶反応を示していると信じている。いったいこの世の男女の愛は、どれだけ複雑になればすむのだろう。

男がいる女がいる。
互いが互いのことを大切に思う。
ただ好き、見ていたい、理解したい、助けたい。
その気持ちを臆面もなくさらけだし、相互に素のままの相手をいちど受けいれ、より豊かな愛を育む営為に向きあっていけば、関係性はふくらんでいくのではないか。私はそんな素朴な卵のような愛が、この世からまだ絶滅していないと祈りたい。

私は幸せアレルギー。
愛の現代病をアンジーから告白された夜。私は自宅に帰り、枕に頭をうずめ「いったい愛ってなんなのさ」と、ぼやきながら疲れた眠りをむさぼった。

(January 9, 2009)

Posted by iwaki : 23:10 | Comments (0)


昼/夜

昼/夜/昼/夜、とずっとひとりで仕事をしている。ほぼ、しゃべらない。
頭のなかで、思考だけがぐるぐるぐるぐる回転し気が急いていく。
この思考の坂を気分のおもむくままに転がっていくと、たいがい良い場所に着地しない。
それは昨年一年の実体験で立証済み。なので、とりあえずゴロリ、
と不吉な音がして負の岩が転がりはじめそうになったら、いったん深呼吸。
そしてプラクティカルな実務に集中する。
アエラの記事を書かなければ、
今後の海外出張の予定をたてなければ、
新連載の企画ミーティングの準備をしなければ、
会いたい人に会うために食事のセッティングをしなければ。
そしてないものねだりをあまりせず、今の自分ができることに集中する。
すると、自分はこんな歩幅でしか歩けない人間なんだからしょうがないかー、という
すこーんと青空に突き抜けるような、巨大なししおどしのような、バカな快音が心に響く。
24hフルパワーで稼働する大都市東京の外部刺激に惑わされず、
穏やかに自分を静観して日々を過ごそう。

(January 8, 2009)

Posted by iwaki : 01:10 | Comments (0)


2009年のはじめに

新年です。あけましておめでとうございます。
昨年は皆さんにとってどのような一年だったでしょうか。

私個人としては、とても変化に富んだ充実した一年でした。
こんなに人間らしく欲望と衝動に従って生きた一年も
今までなかったのではないかと思います。
それぐらい必死な春夏秋冬でした。

人生に変化を求めるとき、
ミスなく最短の登頂ルートを進める人もいるのかもしれません。
けれど要領があまりよくない私は、右にぶれ、左にぶれ、また右にぶれ、
一つの正しい選択を下すために三つはバカな選択をして進んできました。
そのぶん、いろいろ痛い目にも遭いました。ぶさいくな恥もかきました。
でもすべては自己責任で選びとった決断だったと胸を張って言いきれます。
まさにがんがん四方の壁に体当たりして、
痣だらけになりながら学ぶ一年だった感じです。

そのかいあって昨年一年で、
人として少なからず成長できたように思います。
とはいえ、まだ私は本当に信じられないぐらい未熟者なので。
これからも自分の生き方に責任を持てる決断を増やしていきたいです。

いちばんの収穫は、こうありたい、という自分に少し近づけたこと。
そして昨年に負けず劣らず今年も楽しみたい、と怖いながらも希望を持てること。
半年後の自分がどうなっているか分からない。そんな一年がまた幕を開けます。

ノーリスク、ノーライフ。

今年もスリリングなリスクを恐れずに背負いながら、
人生を切り拓いていければと思います。

(January 1, 2009)

Posted by iwaki : 12:13 | Comments (0)


年の瀬の家族

年の瀬。普段は個人単位で生活が成りたつ大都市東京でも、この時期ばかりは外を歩くと、家族・夫婦・カップル単位で行動する人々が視野に飛びこむ。そして私はそうした人たちを目にするたびに、心の奥底から、いったいどうやって……という疑問におそわれる。

「いったいどうやってこの人たちは、一緒にいつづけているのだろう」
「いったいどうやって自分自身でいながら他者と生活を共にしているのだろう」
「いったいどうやって互いの愛を保ちつづけているのだろう」

そんな野暮な疑問とともに、のんびり街を闊歩する彼らの深層心理が知りたくなる。そんなおり、ある記事のためにネット調査をつづけていたら、おもしろいデータにたどりついた。内閣府が毎年実施する「国民生活選好度調査」。この調査が近年<個人の自由>について集計をとったところーー「秩序を保つためには個人の自由を多少制限するのをやむをえない」と回答した人が87.9%、そして「家族のために自分が犠牲になってもやむをえない」と答えた人が71.2%いた。

この回答から何が読みとれるか。
まず、個よりも和を尊ぶ日本人の美意識が端的にあらわれていること。また個人単位主義よりも家族単位主義がまだおおかたの人のなかでは根強いということ。そしてこうした調和意識は、一長一短あるにしろ、まちがいなく日本の安全性とインフラを促しているということ。あえて論を飛躍させるなら、ひとりひとりの人間が少しずつ「犠牲」を払うことで、家族の和と国家の和が保たれているというわけだ。

もちろん「和」が保たれるのは素晴らしい。けれどそれと同時に「犠牲」というあまりにも強烈な単語を耳にしてしまうと、その心理の奥の隠約の波乱を、懐疑的に読み取りたくなってしまう。実は世間的な道徳規範で本心をこぎれいにラッピングしているだけじゃないのか。実は犠牲が義務だと思ってしぶしぶ行っている人が多いんじゃないのか。いったいどれだけの人が納得づくで気持ちよく犠牲を払っているのだろうか。

「本当はこうして欲しいけど、しょうがない」
「実際はこうしたいけど、あきらめよう」
そしてもし仮に、その三拍後に「自分は犠牲を払ってるんだから、感謝して欲しい」
というわけのわからぬ傲慢さが顔を覗かせるのだとしたら、
この犠牲はあまり幸福な感情回路を導いていない。

理想論かもしれないけれど、私は、本当に愛する人のためなら何をしても「犠牲」とは思わないでいられると思う。どんなに傍目には自己犠牲的に見える行為であっても、時間や資本を無意味に浪費しているように見えても、本人は笑顔で能動的にその行動にまっすぐに向かうことができるはず。というかもし家族やパートナーを真摯に愛していながら、その人のために自分が「犠牲になるのもやむをえない」と思ったとしたら、そんな哀しいことはない。だからもしどうしてもこの文脈で「犠牲」という言葉を用いりたいのなら、人は納得づくで積極的に「ハッピーな犠牲者」になるべきだと思う。と、また勝手に口調が熱くなってしまったけれど。そんなことを大晦日にひとり思う。来年もこの身勝手ブログを、よろしくお願いします。

(December 31, 2008)

Posted by iwaki : 13:27 | Comments (0)


無作法と無思慮

 最近、気になる単語がある。"polite"という英単語だ。これは直訳するなら「礼儀正しい」「愛想がいい」「態度が丁重」といった意味。標準的な日本人の感覚からすると誉め言葉に取られるだろう。けど実は国によっては「He is polite」という形容は逆に、上っ面だけ調子がよくて腹の底が知れない嫌なやつ、というマイナスな意味になる。いったいポライトは良いことか悪いことか。このところ、人のポライト具合が普通以上に気にかかる。

 さて、季節は師走の忘年会シーズン。私もいくつかの恩義を感じる会に出席した。かなり久々に不特定多数の人間が集まる場に顔を出したこともあって、雑駁な会話のノイズにいろいろと驚かされた。なかでも改めて愕然としたのは、標準値・最大公約数・アベレージな会話の場をかっさらう豪腕な恐ろしさ。誰が何を取り決めているわけでもないのに、なんだかその場には「暗黙の会話法典」のようなものが定められていて。その宴の場で話の俎上にあげていいのは、主に仕事、次に病と食、少しがんばって家族の話という規約になっている。で、その法典を犯して不当に突っ込んだ会話をしようものなら、面倒くさい異端児め火刑に処すぞ、みたいな白眼視にさらされることになる。

 もちろん私もそれなりに大人になったので、さほど火の粉を無駄に振りまく幼稚な蛮行を犯すことはなくなった。けれどたまに気を抜くと、ほんの些細な会話のfaux pas(ミスステップ)を踏んでしまうことがある。先日実際にあった小事故は、中年男性に趣味の話をふったとき。「まあ寝てるぐらいかなー」という半笑いの答がかえってきて、それを完全にジョークだとふんだ私は軽く笑いあいづちを返しつづく答を待っていた。だがそれ以上の返答が彼の口から発せられることはなく、数秒の息の止まるような沈黙後、場は冷ややかな雰囲気に包まれた。こうなると私は完全にimpolite=無作法な輩である。

 もちろん私も郷にいれば郷に従えで、あえて無作法な会話を試みようとは思わない。けれどこの「ポライト会話術」には、実は大きな欠点がある。恐らくこの会話術を何の疑いもなく至上命令として身につけ、それ以上高等な会話法を身につけようと努力しないと、のちのち恐ろしい事態を招くことになると思うのだ。つまりーーいざ真剣な会話を真剣な席で迫られたときに、無作法ではないが思いっきり無思慮な答、を返してしまうことになると思う。これはたとえばテレビ番組などで貧乏舌な芸能人が、何を食べても「おいしいおいしい」を連呼するのと同じことで。確かにおいしいと語るのは無作法なことではないけれど、魂を賭して創られた芸術的キュイジーヌに対しての賛辞としては、工業用バキューム機で料理を丸呑みするようなもので、粗暴で無思慮すぎる言葉であるように思う。
 
 社交場での「へぇー」「いいね」「おもしろい」。こうしたポライトな相づちは確かに会話の潤滑油にはなる。けれど時と場合によっては、相手を唖然とさせるほどの無思慮さを露呈することに。そして今の私には、無作法さよりも無思慮さがとても恐ろしく思える。

(December 26, 2008)

Posted by iwaki : 00:41 | Comments (0)


Festival d'Automne 2

フェスティバル・ドートンヌ関連の連続ブログを書こう書こう書こう、と意気込んでいたら旅の疲れから風邪をひき。寝込んでいるあいだに、熱にうなされるままに、私の好奇心の矢はあちらこちらに散らばりつづけ。気づけば、まったくドートンヌとは違うことについて書きたくなってしまった。ので、とりあえず今日は思考のお掃除ということで、ドートンヌ関連のことを備忘録程度に書きとどめておく。

それなりにきちんと観たものとしては、
(1)ポンピドゥーで上演されたRégine Chopinot の『Cornucopiae』
(2) La Ferme du Buissonで披露されたBruno Beltrão の『H3』

(1)ショピノはゴルチェなどとの衣装コラボでも有名なフランス人振付家。私が観た作品も、あえて性差や個別差をなくしてみせる宇宙服のようなコスチュームが凝っていて、その衣服をまとったダンサー10人ほどが有機的にゆっくりとフォーメーションを変えつづける、という最初30分ほどの視覚的インプレッションはそれなりに整えられた美しさをたたえていたのだが。残念ながらその第一印象からの視覚的・思考的・身体的な広がりがあまりなく、全体を通して「雑駁な思考の切片をあつめて一本の舞台を作りました」という感じでアートとしての強度は低かった。

(2)ベルタオは現在二十代後半の若いブラジル人コレオグラファー。ヒップホップの動きをコンテンポラリーダンスに適応させたことで、いまどこのフェスティバルでも若手筆頭株の売れっ子だ。評判どおり感心したのはヒップホップダンサーの風来坊な身体をガラス細工のようなディテールまで抑制してみせた職人的手腕や、エゴを剥きだしにするヒップホップのアチチュードを薄衣で覆って個人力よりも集団力でみせるコレオグラフを作り上げたこと。ただこれらの美点は裏を返せば、ダンサーのプリミティブに躍動的な身体美を去勢し、個々の体が生みだす情報量を漂白洗浄してむりに人工的な型を押しつけたともいえる。なので美点も五分なら欠点も五分。まだ若いので将来的に化けてくれることを期待したい。


Régine Chopinot/Cornucopiae http://www.cornucopiae.net/

Bruno Beltrão/Grupo de Rua de Niterói  http://www.grupoderua.com/


(December 23, 2008)

Posted by iwaki : 01:07 | Comments (0)


Festival d'Automne 1

今月はパリにて取材がてらFestival d'Automne(フェスティバル・ドートン
ヌ)関連のステージやエキシビションを悠々自適に見てまわった。フランス
で37年間つづく老舗フェスティバルということで、結構、他にはないユニ
ークな創造物が観られるのではという期待もあったのだが。結果的には私
が目にしたものに関しては総じてクオリティは高いものの、強烈な衝撃波
を食らう、というほどのものは少なかった。


Ryoji Ikeda / Installations 「V≠L」@ Le Laboratoire

  アーティスト×科学者の垣根を越えたコラボを主目的に昨年開場した、パリのギャラリー「ル・ラボラトワール」。ここで日本人コンポーザーの池田亮司とハーバード大学の数学理論家ベネディクト・グロスによるインスタレーションが披露されていた。数字を究極美と捉えることから始まり終わる、あまりにミニマルなこのインスタレーション。穏やかな闇に覆われた暗室的空間に厳粛に入室すると、鑑賞者のひざ丈に、4mはあると思われる2枚の巨大なホワイトボードが寝かされている。興味津々にそのボードに近づくと、係員に虫眼鏡を手渡され、0.8mmのミクロ文字で印字されている、無数のデジタル数字を覗き見るよう指示される。説明によると、一枚目のボードには世界で何番目かに大きい700万2300桁の素数が刻まれ( A Prime Number, (2008) )、もう一枚にはコンピューターアルゴリズムでランダムに産出された700万桁のディジットが載るらしい(A Natural Number, (2008) )。素数は数学者にとっては宝石のように貴重なもので、ランダムな数字は無意味なもの。けれども数学的知識の皆目ないこちらにとってはまったく同じ視覚的要素しか伝わってこない。緻密で、シンプルで、エレガントで、不可解、という意味では実に池田亮司らしい作品なのだろうが。コアな池田ファンでもないし、数学オタクでもないこちらとしては、基本的には板に数字が印字されているだけなので「だからなにが美しいの?」と物申したくもなる。ラボラトワール=研究室という名の空間で見せる「アートと科学の境界線に挑戦する」作品としてはふさわしいのかも知れないけれど。個人的には象牙の塔で考案・思考・創作され、こちらが知識武装しなければ伝わらないアートはあまり好きではない。"闇"のなかに寝かされた数字を解読する上記二作品とは対極的に、隣室には、まばゆい"光"の回廊 Spectra III (2008)が展示されていた。

CF021456.jpg


Le Laboratoire
4, rue du Bouloi, 75001 Paris
http://www.lelaboratoire.org


(December 18, 2008)

Posted by iwaki : 00:59 | Comments (0)


アイソレーションと脳劣化

この仕事に従事していると、どこにいても基本的に独り。同僚や同族というものがいないため、海外取材に行っても「ウェルカム」と迎え入れてくれる人もいなければ、日本に帰ってきて「ただいま」というべき人もいない。だから外国のホテルにいようが、日本のアパートメントにいようが、いつも同じように空気が乱れぬ沈黙状態。言語や環境は違えど、さほど意識が変容しない。いうなれば人生のすべてが「仮住い」のような現実感の薄さに襲われる。このどこか地に足のつかぬ浮遊感は、束縛がなく生活の垢がつかない、という意味では非常に心地が良いものであり。誰とも深くきりむすばない根無し草という意味では不安なものでもある。まあ個人的に「生活臭」というものを身にまとうことをあまり好まないので。どこかに根をおろし、結婚、子供、ディズニーランド、受験、年賀状、スーパーの安売り、といったお手軽な日常に染まるよりは自分の性分にあっているのかもしれない。どこかで自分の精神が、手慰みの社交よりも、孤独を選んでいるところがあるようにも思う。

ただ最近ふと疑問に思ったことが。あまりにも独りで居続けると、脳の回転速度が落ちていく気がするのだ。ある種の人間は生物学的に放っておくと、孤独に向かう習性があるらしいが。その本能に甘えてずっと独りで居続けると、脳がどんどん同じルーティーンの思考回路しか使用せず萎縮していく感覚がーー実感としていまの私にはある。

そんな疑問を漠然と抱いていたら、まさにこの謎を科学的に説き明かしてくれるドキュメンタリー番組をみつけた。今年初旬にBBC TWOで放映された『HORIZON』というテレビ番組。ここでは6人のボランティア視聴者が、まるまる2日間48時間のあいだ、視覚・聴覚・体感覚のすべてを遮断された完全密室に監禁されることになる。まさに作家ブライアン・キーナンがベイルートで体験したのと同じ"アイソレーション状態"を強要されるわけだが。この実験結果からは、予想を遙かに超える驚きの事実が明らかになった。まず多くの人が二日目以降に、幻視や幻聴を体験する。また暗室から解放された人のほとんどが、記憶体系のが異常劣化を実感する。ある人は監禁から解き放たれた直後に「Fではじまる単語を答えてください」と言われ、一単語も思いつくことができなかった。ちなみに概して女性よりも男性のほうが、監禁の事後症状を端的にあらわに。やっぱり女のほうが環境的順応性が高いらしい。

さてこの番組結果から導きだされる推論とは、人の脳はなんらかの刺激にさらされていないと「即座に劣化する」ということ。つまり使用されない脳は、錆びついた自転車のように、回転速度が遅くなるということだ。かのアリストテレスはこうした科学的根拠が立証されるはるか以前に「人間は社会的な生き物である」と語ったが。これぞけだし至言。人は人としての知的水準を保つために、社会的環境に触れつづけて生きることが物理的に必要なのだ。

もちろん私はこの年齢で、脳の劣化などという恐ろしい症状に襲われたくはない。だから独りで居続けるという仕事形態を変えることはできないけれど、なるべく日常的に未知なる人に会い未知なる会話を開拓できるよう心掛けたい。刺激係数の高い日常を送るほど、脳の知能指数はあがるのだ。

(December 12, 2008)

Posted by iwaki : 10:56 | Comments (0)


光のアルペジオ

初台のICCで開催されている『ライト・[イン] サイト』に足をはこんだ。
光と視覚をテーマにするこの展示会は、ただぼんやり、その場に並べられている物体を眺め鑑賞するという足場が安全なアート展とは異なり、観る者の身体性にじかに打撃を与えてくるという意味でとてもスリリングなエキジビションだった。なかでもエヴェリーナ・ドムニチ&ドミートリー・ゲルファンドによる『カメラ・ルシーダ:三次元音響観察室』には、言葉も出ないほどの感動を覚えた。

特殊科学媒質が含まれた球体の水槽に、さまざまな周波数の音波を流すことによって、さっと刷毛ではいたような"筋状のルミネサンス"が水槽内に可視化されるという本作。観察者はまず、みずからの目を闇に慣らすため、暗幕でしきられた密室に作品と共にとじこめられることになる。東京の日常生活では絶対に出逢わない、完全なる闇に目をさらすこと3分。「それでは中央の水槽をご覧ください」という係員の指示にしたがって、見えない目を盲者のようにこらし漆黒の闇をじっとみつめていると、刹那の沈黙後ーー、うわぁと思わず涙声が漏れてしまうほどの圧巻美が眼前にあらわれた。浮かんでは沈み、生まれては消える、水槽のなかで奔放に泳ぐ細やかな光の生態たち。跳ねて、揺れて、旋回して、舞って。ふっと息を吹きかけるだけで儚く消えてしまいそうな、これ以上なく繊細な光の羽根が、目の前で秘やかに戯れている。それはまるで望遠鏡で眺める宇宙の散光星雲を裸眼で見つめるような体験でもあり、爽快に舞い上がるモーツァルトのアルペジオを光に変換して可視化するような体験でもあり。とにかくあまりの異空間体験に、日本の、東京の、初台に、自分は立っているんだという現実感が一瞬にして壊されてしまった。

こうしたテクノロジーを使うアートの場合、最先端技術をただ最先端技術として提示して、それですごぶって終わってしまう残念な作品が少なくない。あるいはそうした技術だけを見せる段階からは脱したとしても、「物質Aと物質Bを併せたら物質Cができて面白いんじゃない?」という科学式が完成品から透けて見えてしまうコンセプチュアルすぎる作品が多い。けれどこのドムニチ&ゲルファンドによる作品のように、真にストロングで美しいアートが奇跡的に創造されると、どれほどのリサーチや技術や計算式がその過程でなされていようと、ひとたびそれが完成の陽の目を見たとたん、難解なロジックはこっぱみじんに吹き飛んで、その存在自体が一篇の絶対純度の詩になってしまう。しかもその詩は他者の人生を変えてしまうほどの"体感詩"。これを一度読んだ人は誰しも、世界に対する自分の考えかた、あるいは日常の常態をガラリと変えられてしまう。

ほんの数分の奇跡的な『カメラ・ルシーダ』の体感は、まさしく、私の常態を変えた。
なにか自分の五感が、未開の感覚にとつじょ目覚めてしまった妙なむず痒さを覚え。なにか自分が、この地球上とは異なる特殊組成の空気を吸いはじめてしまった未知の経験を味わいーー。強烈に揺れる思念と、震える体感が、展示室を抜け出したあとも私に残響のようにまとわりついていた。


ICC『ライト・[イン]サイト』
http://www.ntticc.or.jp/Exhibition/2008/Light_InSight/index_j.html


(December 8, 2008)

Posted by iwaki : 01:38 | Comments (0)


台風の目

無残な雨に降られつづけて一週間。ようやく取材旅行が終わった。
最終日の夕刻、タクシーの後部座席に疲れた体をあずけていると、アラブ系の運転手が「アー、ルガルド、ラバ!(ほら、あそこを見て!)」と、いきなり奇怪な声をあげる。火事か事件か犯罪かと思い彼が指さすほうを見あげると、トロカデロ広場の向こうに、先刻まで雲霧に溺れていた太陽が、ちらりと顔を覗かせている。ほんの一刻、白銀色の冬の陽射しがパリを透明に照らしだす。運転手が思わず声をあげるのも納得なほど、一週間ぶりに見る太陽は美しい。バカみたいに重い戦闘服をまとっていた自分の心が、瞬時にやわらいでいくのがわかる。

日本であれ、ヨーロッパであれ、どこであれ。取材をしつづけていると、いけないとは分かっていても、知らぬ間に心が戦闘態勢に染まっていく。なるべくニュートラルに柔和に、普段と変わらぬ自分で取材対象者に会いに行くよう試みてはいるものの、気づくとなにか余計な戦闘服を自分が着込んでいたりする。いけない。ちなみにどこに行っても思うことは、たいがい取材対象者本人はとても「普通」だということ。そしてむしろ、彼らをとりまくマネージャーやアシスタントやプレスといった関係者が、普通の人を普通じゃなくあえてまつりあげているということ。

今回の旅で、特にそれを感じたのが女優ジュリエット・ビノシュのアシスタントのローラン君。まだ20代半ばだと思わしき彼は、この仕事について1年ほどしかたたないのだが、まるで歩くコンピューターのごとく、1分1秒も無駄にすることなく、弾丸スピードの英語を駆使して、てきぱきと仕事をこなしていく。バジェットはいくらだ、取材時間は何分必要だ、ビノシュのこの本とこの絵とこの映画は見たか。そんなに矢継早に質問しなくてもさ、と逆に笑けてきてしまうほど息つく間もなく質問攻めにしてくる。彼自身、自分の若さをなめられないよう、あえてそうした「ザ・プロフェッショナルな態度」を過剰に装っている事情があるとはいえ。その事情を差っ引いても、彼の態度は高圧的にとられかねない。そして実際、この態度に威圧されてビノシュに会うまえに萎縮してしまう人たちもいるのだろう。

けれど実際に大女優に会うと、彼女自身はやっぱり、びっくりするほど普通の人。いや、これじゃ言葉があまりに足りない。あえて言語化するなら普通じゃない芯の強さを持つからこそ、逆に、誰の前でも普通でいられるしなやかさな人だった。優雅な飼い猫を膝のうえにのせ、純絹のように滑らかな声音でこちらの質問に丁寧に答えてくる。

台風の目はいつだって、静かで孤独で穏やかだ。おそらく人間もこれと同じで、凛々しく孤独に闘う人間のまわりには無風状態の静けさが漂う。ただ彼/彼女が一歩移動するたびに、まわりが過剰に「台風情報」を騒ぎたてるのだ。その過剰報道に煽られていては、その人、そのもの、真実の姿は見えてこない。そうならないためにも、私自身も強く地に足をつけ生きていく必要がある。

(December 6, 2008)

Posted by iwaki : 01:18 | Comments (0)


ピュターン!

パリにきて一日目。ああ、そうだフランスはこういう国だった、と改めて認識させられる"事件"に出くわした。とあるダンス劇場、夜8時。招待窓口でチケットを受け取り、いそいそと客席に足を運ぶ。と、なぜか私と同じ席番のチケットをもつマダムが既に着座していた。

「あら、まったく同じ席番ね」「なぜかしら」「変ね」

会話終了。おそらく日本なら相手を慮って「劇場係の人を呼んで、調べてもらったほうがいいですよね」「そうですね」という流れになることだろう。だがそんな他人まかせなことはフランスではおこらない。すべては個人の問題なので、その場での、個々の言い分の強さが状況に判決をくだすことになるのだ。そこで普段は弱気な私も、そうだここは東京じゃないんだぞ、と心を強く持ち「じゃあ、こっちの席に座ります。たぶん、大丈夫ですよね」と冷静を装い隣席に座った。マダムも「そうね、それがいいわね」とこちらの了見に納得する。

だが数分後、事態はさらに変な方向に。私が座りこんだ席の、さらに隣の空席のチケットを持つ20代女子がやってきて、私を目撃するや一息に次のようにまくしたててきた。

「なぜ、あなたはここに座っているの」
「ここの二席には私がボーイフレンドと一緒に座る予定なの」「どいてよ」

ーーーええ確かに、私はあなたが言うように正当な席には座ってございません。けれどいきなり私を目にしたとたん「どいてよ」とまで言いきれる、その迷いのないぶしつけさは、人間としていかがなものか。飢えをしのぐためなら他者の人肉まで貪りかねない、この横暴&傲慢な利己主義さには、あまりのことに唖然とさせられてしまった。

ただどうやら彼女の傍若無人さに唖然としたのはナイーヴなアジア人の私だけではなかったらしく、予想外なことに、さきほどのマダムが弁護を買って出てくれた。「あなたちょっと落ち着きなさい、彼氏とは1時間後に会えるからいいでしょう、この女性はここに座る権利があるのよ」。私もとりあえず、なるべく冷静に、ダブルブッキングされた席番事情の説明をこころみる。だが当然ながらその女の子は私の正当理論に1ミリも耳を傾けることなく「彼氏と座るの、彼氏と座るの、信じられない、ピュターン(フランス語のスラング)!」と劇場中に響くかのごとき大声で咆哮する。しかも当の彼氏は、そんな半ば狂乱状態にある彼女を放ったらかしにして、そそくさと空いている補助席に座ってこちらを振り返りもしない。ああ、もう。なんて身勝手なの、みなさん。

そんなやりとりが数分つづくなか、客電は無情にもずんと消えた。肉食獣のようにわめいていた彼女も闇のなかでとうとう堪忍する。草食動物系のメンタリティを持つ私は、なんとなく居心地の悪い思いを抱えたまま、光を放つステージに目を向ける。

誰もが自分の意見を持つ。それは確かに大切なことだ。周囲に「うんうん」と頷いてばかりで、多くのことを日和見主義にすましてしまう日本の風土に疑問を持つこともある。けれどは個人主義もいきすぎると、転じて、こうした醜い利己主義に陥る。いやこれはマチュアな自己主張でもなんでもなく、おもちゃが欲しいと泣いてぐずる子供のワガママと同じだ。

日々の生活のなかでたいがいの人は、肉しか食わん、野菜しか食わん、とは言い張らずに栄養バランスのとれた健康な食事をたしなむ。これと同じことで肉食獣的な個人主義も、草食動物的な集団主義も、いきすぎると機能不全をきたした宗教に近づいていく。そんなことを、零下の寒さが肌を射るパリの夜にふと考えてしまった。心が震えるぜ。ピュターン。

(November 30, 2008)

Posted by iwaki : 21:06 | Comments (0)


パリ・アゲイン

明日からまた仕事でパリに向かいます。
出版業界繁忙期のさなかに日本を離れるので、
ほうぼうの編集者の方にはいろいろご迷惑をおかけします。

ところでパリでも「ホリデーシーズン」のイルミネーションが、シャンゼリゼでライトアップされたそうです。でもおそらく、日本のほうが街中にイルミネーションがあるような気がします。しかも宗教が日本ではタブーでないから、堂々とクリスマスのみを全面に押し出している。なんだか妙な感じがします。妙といえば、このあいだ26歳女子の知人があるとても奇妙なことを理由に私に抗議をしてきました。真剣な眼差しでため息をもらした彼女は「今年はパーティーに3つしか呼ばれていないの」「数年前まではもっと呼ばれていたのに」と私に向かって嘆きを吐露してきたのです。これは……つまり女子にとってパーティーに呼ばれないという事実は、老化尺度のひとつになるということなのでしょうか。ちょっと興味深い現象です。

パリは雨ばかりのようですが、寒さに負けずに、普通に仕事をこなしてこようと思います。と、ここまで書いて、なぜか自分のことを報告するときだけはブログが「ですます」調になる癖に気づきました。パリからは、もう少しきちんとした内実のある「である」調のブログを発信できればと思います。

(November 28, 2008)

Posted by iwaki : 23:09 | Comments (0)


シャーデンフロイデ

ドイツ人の知人に面白い単語を教えてもらった。
シャーデンフロイデ。
逐語訳すればこれは「人の不幸を喜ぶ」という意味。
末恐ろしい単語だが、こうした負の感情が人間の内に存在することを素直に認め、
しかもその感情に、ひとつの別個のボキャブラリーを与えたドイツ人の正直さに、
私はある種の敬意を表したい。

我々の言語である日本語には、これにぴったりあてはまる単語がない。
だが、シャーデンフロイデは間違いなく日常のそこここに存在する。
とくにこの衆人環視の村社会においてルールに則して生きる人々は、
より「自由にオープンに、生きる人」が目の前に表れたとたん、
その人間の不幸をどこかで願う傾向があるように思う。

僕は私はこれほど単調な日々に必死に堪え忍んでいる。
にも関わらず、なぜおまえはそれほど自由で楽しそうなのか?
自由に生きることと背中あわせの苦を知るよしもない人間は、
そうして勝手に相手を憎みはじめる。あるいは、自分よりも劣る
「無邪気なもの」とみなし攻撃しはじめる。

しかもこの憎しみや攻撃が、影で隠れて行われたりするからタチが悪い。
むしろ「あ、それシャーデンフロイデじゃん」と口に出して、
笑っちゃえるような世の中がくれば清々しくて気持ちがいいのに。
あてはまる単語が存在しないことによって、
ないことにされている感情があるとしたら、
それはシャーデンフロイデという単語があること、よりもずっと怖ろしい。

(November 19, 2008)

Posted by iwaki : 20:10 | Comments (0)


スタンダールと日本人の幸福

読売新聞に<日本人の幸福感>についての統計調査が載っていた。
驚くべきことに、自分を幸せだと感じている人は88%もいる。
たださらに驚くべきは、その「幸福とはなんだ」という問いに対しての答えだ。
「何も悪いことが起こらないこと」ーーなんと69%にも及ぶ日本人の幸福感がこれ。
つまるところ、平穏無事・無病息災・現状維持、な生き方を多くの人は望んでいるわけだ。
確かにつつがなく生きることを望む人を、誰も責めることはできない。
けれど人生は一度こっきりなのに、本当にこんなつましい消極的な生き方で、
死ぬとき「満足だ」と微笑めるのか。

新聞読者を対象にしてアンケートを行っていることを考えると、
おそらく回答者の多くはネットよりも活字に親しむ中年以上の世代。
だから、無我夢中になって衝動を発火点に目標を追いつづけることや、
絶えざる変化や進化を求め夢中になり新しい何かに挑戦しつづけることを、
幸福だと答える人があまりいないことも仕方がないのかもしれない。
統計によれば上記のような言動、つまり「一つの目的に向かって
我を忘れて取り組むこと」を幸福だと捉える人はわずか3%しかいない。

確かにリスクを伴わない生き方は、安定という名のやすらかさを産む。
ただ世を捨てた仏僧でもない限り人生に絶対的な安定などまずないし、
ある種の生き方を好む人には、安定、はそく次の日から倦怠に変わっていく。
だからそれを心得ている人間は、あえてリスクのある選択肢をみずから選ぶ。
別の言い方をするなら、怖い、と思う方向性にこそ自分の闘場があることを知っている。

これに関しては先日、シュツットガルトでインタビューを行ったとき
ダンサーのアンナ・オサチェンコが名言を吐いていた。
「No Risk No Life」
リスクがないところに、人生はない。
心底、これには共感する。

ちなみに私個人は昔からスタンダールの以下の言葉を好んできた。
「魂はすべての単調なものに、完全な幸福にさえ飽きる」
人生のある時点で、平穏無事な幸せを望むことも悪くはないと思う。
でもその同じ場所に半恒久的にしがみ続けようとしても、時は過ぎゆき環境は変わる。
だから人は「何も悪いことが起こらない」という不自然な現状維持を望むのではなく、
自然の流れに則って、気負わず変化しつづけていくべきなのだ。
そしてその絶えざる地殻変動を奔放に愉しむプロセスにこそ
自分だけの幸福が宿っているのだと、私は信じたい。

(November 15, 2008)

Posted by iwaki : 00:09 | Comments (0)


個人主義礼讃のなぜ

最近、たてつづけに外国人と結婚している日本人女性に話を聞いた。
彼女たちが口を揃えて語るのは欧州の個人主義社会のすばらしさ。
私のものは私のもの、あなたのものはあなたのもの。
だから意見が合わなくても当たりまえ。
そんなマチュアな社会が私にはあってるの。
彼女たちは日本という過去を吹っ切るかのように清々しくそう言い切る。

ある女性が我が子をつれて日本にやってきたときのエピソードがふるっていた。
息子と一緒に久々に日本の電車に乗り込む。
と、隣で息子と同年代の少年が泣きわめいている。
社会迷惑だ。日本人は本当に躾がなってない。彼女は不快感を覚える。
ふと目をあげると、その号泣少年の母親が、彼女をぎっと睨んでいる。
なぜ、こちらを睨む? 数分後、どうやらその少年は、
我が子の持つお菓子を分けて欲しいがゆえにぐずっていることが判明する。

「もちろんでも、そんなのあげないですよ。シェアする必要なんて全然ないですから。
ヨーロッパの子はそんなことで泣かない。そんなの社会人失格ですよ。
そんなことには絶対にならない。それが躾でしょ」

彼女は鼻息を荒くして一息でこう言い切った。
あまりに歯切れのいい啖呵に背筋に震えを覚えた。
と同時に、確かに正論を言っているのだけど、漠然とした怖さも覚えた。
どこか彼女が無条件に個人主義を礼讃しすぎているように思えたからだ。

私も基本的に個が自律して生きる社会には賛成だ。
でもそれと同時に、他者に歩み寄る、他者を慮る、日本的な思慮深さにも愛着を持つ。
確かに電車のなかで泣きわめくがきんちょにお菓子を分ける必要はまったくない。
でも、その場の空気にまったく無関心に鈍感にいられるメンタリティというのは、
それはそれでどうなのか。何か日本人の持つ繊細な心情的機微を失っている気がする。

駅で行儀良く整列して待つ、狭い道路ですれ違うときは肩を斜めにする、
自分ひとりが席に座れたときは友達の鞄を膝にのせてあげる。
確かにこういう配慮が自然とできる日本人は少なくなっている。
それでも概してヨーロッパの人たちよりは他者を思いやる心が残っていると思う。
おそらくあちらは自然とこういった配慮ができない人が多いから、
ある種の紳士教育として、女性をもてなすマナーを学習したりするのだろう。

他者への配慮ができるか否か。
自然にできる人(10%)>自然にできないから学習する人(60%)>学習しない人(30%)
このパーセンテージはなんの統計学的根拠もない、私の直感だ。
ただ日本とヨーロッパでは、一番目と二番目の割合が少し変動する気がする。

いずれにしろ欧州と日本のどちらがいい悪いではなく、
双方のいいところを取り入れてみたらどうなのか。
個人主義礼讃の彼女にそう伝えてみたら、
「私はあなたの意見には賛成できないわね」
と、ばっさり言い捨てられた。
そこで対話は、哀しく終わった。

(November 10, 2008)

Posted by iwaki : 00:11 | Comments (0)


アノスミアと感情

アノスミアという嗅覚異常の病気があることを知った。朝いつもどおり目覚める。と、その世界にはこうばしいバタートーストの匂いも、朝陽を浴びるバラの花の香りも、隣りで眠る異性の甘く汗ばんだ匂い香もない。これだけでもかなりの悲劇なのに、多くの人はこうして嗅覚を失うと同時に、計り知れない量の感情表現を失うという。科学的根拠としては、嗅覚をなくすと、脳の感情を司る部位である海馬と小脳扁桃が刺激されなくなるから。怒り、怖れ、歓び、哀しみ、性的興奮といった原始的な感情から衰えていくという。

逆の観点から言えば、嗅覚に鋭敏な人間は、感情表現にも繊細なアンテナを持つ人間だと言える。様々な香気を察知しつづけることで、日々、彩り豊かに感情脳を鍛えることになるからだ。「香水であれ、食事であれ、ワインであれ、香りを愉しむことは人間性を豊かにする」とある科学者は語る。

またある科学実験によると、異性と親密なパートナーシップを築けない人間の89%は、なんらかの嗅覚異常者であるという。どうやら香りに敏感であるか否かは、異性に対して敏感な気遣いができるか否かの、判断基準にもなるらしい。確かに高くてドぎついブランド香水を水浴びのようにつけている男は、おそらく、恋愛の機微にも下品で大雑把だろうし。無味無臭で香りのエロティシズムにまったく関心を示さぬ男は、どことなく、異性としての危うい魅力に欠ける気がする。単なる匂いの話じゃんと軽視するなかれ。それだけで、人間の"感情品位"のようなものが暴かれてしまうのだから。興味深い。

(October 7, 2008)

Posted by iwaki : 23:29 | Comments (0)


個人的な啓示

目から鱗とはこういうことを言うのかもしれない。
心から尊敬する人生の先輩と話しをして、
人生の余剰価値ではなく、核心をずばっと指摘された。
もちろん以前から気づいていたことではあったのだけど、
改めて指摘されたことにより言語化できるほど考えがまとまった。
なので、今日はとても個人的な啓示をここに綴ろうと思う。

まっすぐに生きるというのは、責任を引き受けることだ。
それまでの自分の人生に対する、あるいはこれからの人生の決断に対する、重大な責任を。
でもこの責任を引き受けて生きることは、年を取るにつれ、だんだん難しくなる。
なぜなら、何かを選択して決断するというのはまっすぐに自分に向き合うことだから。
たいがいの人は、自分に向き合う恐ろしさから逃げて、自由を放棄して
だらだらのっぺり生きることを選ぶ。

でもそうすると日々の行動のすべてが徐々に、ごまかし、の積み重ねになっていく。
自分の人生を引き受けるよりも、見ないで目をつぶって生きるほうが、ラクになっていくから。どんどん「分別」という名の逃げ口上を語ることだけが達者になっていく。

でも、実は逃げても逃げても問題解決にはまったくならない。
見ないで生きようとしても、問題の根は死ぬまでずっとそこにあるから。
逃げても不安で、逃げなくても不安で、負のデフレスパイラルにはまっていく。

だからもしまだ幸運にも自分が、
一度も人生を変節しないで生きられているのだとしたら、
どんなに震えあがるほど怖かろうが、
深呼吸とともに覚悟を決めて、
真正面から、
その責任をひきうけて生きるべきだと思う。

言うはやすし、行うは難し。
あとは自分がどうなりたいか。
そして人とどう生きたいか。

でも大切なことをいくつも、
もっと大切だと判断した他のことのために犠牲にできることは、
人間として美しい光を放つ力になると思う。

その先輩は最後に「悩みなさい」と言って去っていった。
最高のアドバイスだ。

(November 3, 2008)

Posted by iwaki : 01:06 | Comments (0)


ちっちゃく大胆な告白者

おねぇさん!

秋空にせいいっぱい溌剌とひびく声で
どんぐり頭の少年に路上で呼び止められた。
おねえちゃん、でなく、おねえさん。
そこに芥子の粒ほどの色気が見え隠れ。

左手には列車模型
右手には百円チョコ
右目には青痣。

下唇をぎゅっと噛んだかと思うと、
ハイッと威勢よく左手を突きだし、
うわっ、しまったと、
あわて顔で次に右手を突きだし、
あげる、
というコトバがもごもご出ないまま、
仰向けにさしだした私の手のひらに
チョコレートをちょこんとのっけ
一瞬、
ドキリとするほど寂しい青痣の目。
そして子ネズミのように走り去っていった。

こんなちっちゃくも大胆な告白者に出逢ったのは初めて。
なんだかこちらがドギマギした。
まいったな。

(November 2, 2008)

Posted by iwaki : 00:02 | Comments (0)


結婚ミッション

日本とスウェーデン、ふたつの異なる国籍のほぼ同年代の女性に話を聞いた。テーマはパートナーシップ。このブログで以前書いたように「幸せな結婚」というものにモヤモヤとした疑問を感じはじめた私は、ある種のミッションとして、いま世界中の女性の結婚/パートナーシップ観を調べはじめているのだ。最初のターゲットはスウェーデン。この国は同棲する恋人同士が「サンボ」という法律用語で認められ、結婚カップルとほぼ同等の、完全なる市民権を得ているかなり恋愛リベラルな国家。話を聞いた女性も「サンボ」ではなく「サルボ」=離れて暮らすパートナーがいる関係を続行中で「互いに数年キャリアに専念して、将来的にはダブルインカム状態で一緒に暮らす約束をしているの」と笑顔で語ってくれた。確かに収入源がふたつあれば、おのずと可処分所得は増える。しかもそうして得られた経済力を、ただ老後のために貯蓄するのではなく、バカンスやサマーハウスなど「二人で分かちあう歓びを増やすために」使っていきたいと言う。これは退職後の福祉が完全保証されている国に生きるからこそ出てくる、あくせくしない余裕のある発想だ。ちなみに彼女は「一緒に暮らす」と述べただけで、いちども「結婚する」という言葉を使わなかった。

転じて、現在、彼氏/彼女の関係に3年間あるという日本人女性にも話を聞いた。彼女は丸の内で働くとても優秀なOLで、収入も安定している。緩やかな笑顔で「仕事は楽しい」と語ってくれた。にも関わらず、その木綿のようにふんわりとした笑顔からは想像もつかないことをパートナーに対して行っている。なんと彼の子供欲しさゆえに、秘密でコンドームに穴をあけてセックスをしているのだ。「なぜそんなことをするの?」「年齢的にそろそろ結婚しないとダメだから」。なんか、おかしい……。私は複雑な想いに駆られた。

日本では大半の人間がパートナーシップの最終形態を「結婚」というかたちで捉えている。無論、その概念を責めるつもりはもうとうない。国に保証された男女の生き方が他にないのだから、これは今の段階ではある程度、個人レベルでは受け入れるしかないことだと思う。けれど、今後はどうだろう。いつまでも頑固一徹に、たったひとつのパートナーシップの形態を、ご大層に守りつづけていく必要があるのだろうか。またその形態にむりくり自分の生き方を押し込めて、アベレージな「幸せ」を手にしなければと焦るのもどうなのか。
制度が自分の幸せを決めるのか、それとも自分が自分の幸せの主導権を握るのか。
個々人がもっと素直にこうした問いを自分に投げかければ、日本のパートナーシップのかたちもおのずと変わっていくと思う。もちろん、スウェーデンのように国家がその制度を認めて様々なかたちで後押ししなければ広く普及することは難しいけれど。まずは個人レベルの「なんかおかしい」の芽を大切に。少しずつ豊かな樹木に成長するよう努力していくべきだと思う。

(October 30, 2008)

Posted by iwaki : 00:15 | Comments (0)


レユニオン島とスルツェイ島

レユニオンという聞き慣れない名の、フランス領の島で暮らす青年に会った。
彼の職業は冒険家。そんな肩書きの職業があることにまず驚く。
大航海時代のコロンブスやバスコ・ダ・ガマ、
あるいは南極点に到達したロアール・アムンセンや
月面着陸を果たしたユーリ・ガガーリン。
彼らと同じようなことを成し遂げるのが夢なんだ、と青年はほほえむ。

そんな彼に、近年まれにみる美しい洞窟がラオスで発見されたと聞いた。
早速ネットで情報を探してみると、息をのむほど美しい荘厳なる風景写真に出逢う。
人類未到の闇の王国で、気が遠くなるほどの年月をかけ造形された石灰石のカーテン。
バーチャルの写真でもこれほど美しいのだから、
実物はどれほど凄絶な美をたたえているのか想像にかたくない。

レユニオン出身の若き冒険家の数年後の目標地は、スルツェイ島。
現在、国家的な経済破綻の危機にあるアイスランドのはずれの、無人島のひとつだという。
この小さな島はつい数十年前に海底火山の爆発により出現したらしく、
いまだ一部のサイエンティストしか入島を許可されていないという。
おそらくこの島にも、想像も及ばぬほど圧巻の自然物が造形されているのだろう。
各国の有名な観光地めぐりや、美術館めぐりもいいけれど、
できることならこうした世界の最果ての自然美を目の当たりにしたい。


04-pollack-laos-461sp101608.jpg

(October 24, 2008)

Posted by iwaki : 00:41 | Comments (0)


無意味さの意味

東京は<意味>に満ちすぎている。
帰国二日目にして早くも意味の雪崩に呑みこまれそうだ。渋谷のスクランブル交差点をぼんやり頭上から眺めてみる。誰も彼もが目的をもって、ある一点にむけ猛進している。なにをそんなに急ぐのか。一秒でも早く向こう岸に辿り着かないと、親戚の誰かがぽっくり死ぬとでもいうのか。それほどまっすぐ決死の表情でゴールに向かって突撃していく彼らからは、ぱらぱらと、なにか人生の大切な切片が風にたなびき皮膚表面から落ちていくように思える。

ヨーロッパのとある都市で、一日徹してギャラリーを見てまわった。意味はない。ただアートを意味もなく見まくろうと決めたのだ。はしごの三軒目あたりから、足が棒になるのと反比例して、頭が爽快に澄んでくる。そしてたいして意味もないものをたいそうに見ている客人たちが、なんだか珍奇に思えてくる。さらに五軒目あたりから、意味もないことのおかしさが、逆に圧倒的に素晴らしく感じられてくる。ある人間が五年なり十年なりの命をそそいで生み出した迫真の造形物、それはレバレッジやプロダクティビティといった観点からみればまったくもってゼロ価値だ。そして本当にどこからどう見ても、価値のない屑もある。でもなかにはその意味がないものが、ちんけな意味など背負わないからこそ、全身全霊、聡明で美しい作品がある。そうした無意味さの結晶物をまのあたりにしたとき、私はなぜだか痛いほどの感動を覚えた。

都会人の営みのほとんどは、意味で凝り固められている。仕事の業績アップ、保険料の支払い、子供の進学問題、検定の取得。こうして文字に書き起こしているだけで、意味意味意味に息苦しくなるほどだ。たまに外国で熟年の団体客などに会うと、彼らは異国の地に来ても、デジカメと一緒に意味を肩にかけ旅をしているのがわかる。意味を捨てさることは、舗装された道をはずれることであり、とても勇気がいるのだ。

だが一瞬でもその意味の鎧を脱ぎされる瞬間に出会えると、世界は、別の世界になる。職業、学歴、キャリア、給与明細。そうした世の中のご大層な意味では計量できない何かで、人間は実際のところ、生きる糧を得ているのだということに気づく。それは人とつながれる二ミリの瞬間であり、小さくも何かを創造しようとする勇気であり、自らに問いつづける日々の成長であり、人を愛し愛されたいという永遠の欲望。別に世界一、人を愛する才能をもって生まれたからといって、誰よりも有名になったり金持ちになったりするわけではない。(あるいは、なるかもしれないけれど…。)だが愛や創造はたいてい無償のことだからこそ、そこで純粋な人間の生き様、一個人の真正な生き様が浮かびあがるのだと思う。そしてーー、ここで話がもとに戻るのだが、だからこそ私はギャラリーにおいて無償の美しい造形物に感動したのかもしれない。

本当のところどうなのかは、まったくもってわからない。だからこの解答はとりあえず保留。でもいまの私には、世間で無意味であるとされるものにこそ、意味があるように思えてならない。

(October 21, 2008)

Posted by iwaki : 00:28 | Comments (0)


シュツットガルトの思索

シュツットガルトの夜は、耳が痛いほど静かだ。凍える風にたなびく葉擦れの音が、さらさらと、かろうじで窓外から伝わるが、あとは、山頂に立つ教会が1時間ごとに適確なピッチで時の経過を告げるだけ。おそらく、ゴーンゴーンと厳格に時を歌うこの鐘の音がなければ、私はこの街に完全にひとりぼっちに取り残されたと思うだろう。

こうした静けさは、必然的に人を思索へと向かわす。
地元の人々も「だからヘーゲルのような偉大な哲学者が生まれたのさ」と自慢げに語る。
これはあながち、おおげさな話ではないかもしれない。
東京のように10分歩くだけで、20種類の音楽と、50種類の広告看板と、100種類の店に出会うような刺激が外部にあると、あっちへこっちへと好奇心のアンテナが飛んでいき、退屈はしないが思索がまとまらない。だが逆にシュツットガルトのように、外環境が七十歳の老人のようにぐっすり静かだと、人はおのずと内へ内へと自分の思考を掘り下げていく。

だから三日間の滞在のあいだ、旅のともにと持ってきた私のスパイラルノートにも、信じられないほど多くの思考の切片が書きつけられた。しかも、街じたいが鷹揚とゆるやかな雰囲気をたずさえているため、じっくり焦らず徹底的にひとつの思考につきあうことができる。妙な体験だが、この街に数日間隔離されていたら、ぐんぐん考えがまとまっていき、夜中に、悟りの境地に辿り着けるんではないかと思えるほどの「思考のナチュラルハイ状態」に陥った。

一変して、今日、東京に降り立つ。
私の地元の下北沢はさほど煩い場所ではないが、それでも、シュツットガルトから到着するとあまりの騒がしさに耳をふさぎたくなる。スウェーデンの学校では生徒が勉強に集中できるようにと、校内の騒音レベルを30デシベル以下に抑える規律があるというが、はたして昼間の東京の騒音数値はいくつぐらいなのか。おそらく、学習や思索に適した環境ではないだろう。

最近よく、東京で忙しく仕事に明け暮れる知人に「とりあえず目の前のことをこなすだけで精一杯」「大切な何かをつかんだと思っても、日常のなかですぐに忘れてしまう」といった悩みを打ちあけられる。そして、日々の小事にかまけているうちに、時だけがどんどん過ぎ去り、気づけば何も解決しないまま年末を迎えているのだ。そんな悩みの袋小路に陥っている人はいちど、思いきって東京をたちきり、無音状態にひたれる田舎に自分を隔離するといい。科学的にどれほど立証された効用があるかはわからないけれど、体感として、自分の乱雑な思考が清らかに整理されていくのがわかるはずだ。

(October 18, 2008) 

Posted by iwaki : 19:03 | Comments (0)


パリの月と孤独

パリの夜、満月。
セーヌにかかる橋から、エッフェル塔を背にして空を見やると、そこに雲ひとつ陰らぬ優雅な月が浮かんでいた。気にとめず歩き去ろうと思ったのだが、あまりに見事にふっくらと美しいので、その場からどうしても動けない。ベンチに座りぼんやりと眺め惚けてしまった。なぜか私は子供時代から、月が無性に好きだ。太陽はみずから発光するけれど、月は相手方の太陽の熱を許容することで光を放つ。だから月にはいつでも、端然と光り輝く面と、その裏の闇の面がある。しかもその境目がおぼろにとけあい、ほんわり一体となっている。このなんとも不完全で人間的な感じが、私にはとても魅力的に思える。
マーク・トウェインも著書のなかで、次のように言っている。
「Every one is a moon, and has a dark side which he never shows to anybody.
(人は皆、月だ。誰もが誰にも見せない闇の部分を抱えている)」。

大概の人は、月が輝いているときしか目を向けない。逢魔がどき、闇が立ちこめはじめる頃、ぼんやりと緋色の空の向こうに、透けるように浮かぶ月に目をやる人はあまりいない。たとえ輝いていないときでも、月は同じようにそこにある、というのに。

人も、これと同じだと思う。輝いているときは、誰もが目を向けその美しさを賞賛する。あるいはその美しさを、逆恨みして嫉妬する。けれどその光の裏には必ず、計り知れない闇や痛みや孤独がある。他者はその裏面には、想像力をおよばそうともしない。あるいは、および得ないのかもしれない。せつない。また人は、夕暮れどきの透明セロファンの月のように、誰にも目を向けられずとも、ひっそりと空に浮かんでいる他者の営為には視線をそそがない。その無為の努力があってはじめて、月は、数時間後に輝けるのに。

私はこうした、月のけなげさが愛おしくてしかたがない。月のように生きる人は真に美しいと思う。痛みや孤独を底に抱えながらも、必死に、笑って生きている人を見ると心が破裂しそうになる。逆に太陽のように360度、ただあっけらかんと発光しているだけの人には、それができることじたいは素晴らしいとは思うけれど、さほど魅力を感じない。
私は、弱くて強い人間が好きだ。

そんな想いにぼんやり漂いながら、パリの夜はふけていった。と、少しかっこつけてポエジーにひたろうと思っていたら、目が飛んでる酔っぱらいのラトヴィア人にからまれた。月のような人間は好きだけれど「Lunatic(狂ったよう)」な人には、できれば構われたくない。

(October 15, 2008)

Posted by iwaki : 08:31 | Comments (0)


London-Paris-Stuttgart

ロンドンに来ています、、というブログを書こうと思っていたら、すでに3日ほどがすぎて、パリ経由でシュツットガルトに到着しました。ロンドンに到着した夜には、現地にいるイタリア人の友人カップルと食事をしてきました。彼らは温暖な気候で知られるナポリ出身なのですが「ロンドンは天気が悪すぎるし、物価が高いし、仕事をしすぎるから、もういられない」とぼやいていました。そして年末にはナポリに撤退するそうです。ロンドンは本当に物価が高い。しかも「働けど働けど貧乏人は金持ちになれないシステム」がある。つまり労働者階級が完全に、一部、資産家階級にコントロールされているのです。本当にグローバリゼーションが声高に叫ばれて以降、この状況はひどくなる一方。日本にも最近、進出して店の前に行列ができている「H&M」の洋服タグなどをロンドンの店舗で見ると、MADE IN ALBANIAなんていう表示が多くなされている。グローバリゼーションの名のもとに、資本家たちがユーロにいまだ加入していない後進国に進出し、格安の労働賃金で現地の人々を働かせ高い利潤を得ているわけです。ちなみにナポリの友人たちによると、ナポリには「カモッラ」という独自のマフィア組織があって、彼らはいちるの希望を求めてイタリアに流れてきたアルバニア移民の子たちを下っ端として雇い、犯罪組織の末端ツールとして利用したりするそうです。日本のヤクザが愛の欠けた暴走族の子供たちを「俺についてこい」と言って引き抜いていくのと同じ構図ですね。怖い。

ナポリの友人たちはボヤいていますが、今ロンドンを含む、ヨーロッパの天気はどこもとても快適で美しい。楽しく働こうと思います。

(October 14, 2008)

Posted by iwaki : 20:51 | Comments (0)


結婚と色気

町中でばったりと、数年来、会っていなかった知人の男性に会った。
彼は私が中学生の頃から知っている伊達男で、今どき少ない、
鋭利な原色の激しさのある色気が私は以前から好きだった。
けど久々に会った彼は、なんだか、丸くこじんまりとしてしまっている。
聞くところによると、結婚して子供が生まれたらしく。
それが残念ながら、あまり幸せではないらしい。
「こういうあなたになって欲しい」という妻の欲求を暗に感じる。
そうすると「その窮屈なビジョン」に自分がぐんぐん押し込められていく。
「でもそういうリミッターを設けないと幸せにはなれないからね」。
そう言って彼は肩をすくめ、ははは、と小さく笑った。

なんだか少し寂しかった。
魅力的な自分をこんなふうに小さな柵におさめてしまうのなら、
大きなお世話だが結婚なんかしなきゃいいのにと思った。
おそらく男という生き物は、自由を養分にして雄としての色気を開花させる。
挑戦して、絶望して、破壊して、変貌して、飛躍して。
自由に飛びまわることで雄としての香気をふくらましていく。
だから、その養分をリミッターで押さえ込んでしまっては、
結果的には男女ともに不幸だ。

もちろんすべての結婚がこんな自縛状態を強いるものだとは言わない。
ありのままの互いの姿をすっぱりと認めさらけ出したうえで、
男女ともにより美しい姿に成長していける結婚もある。
ただ知人とのふいの再会で、ここ数ヶ月もやもやと考えていた、
括弧つきの「幸せな結婚」というものに対して
ちょっとした結論が出た気がした。

そんな考えをたずさえて、蜷川幸雄演出による『から騒ぎ』を観に行く。
文豪シェイクスピアは何を考えていたのか、時代背景的に仕方がなかったのか、
自筆の喜劇はほとんどすべて、めでたしめでたしの結婚で終わらせる。
本作も例外ではなく、勘違いなカップルも、信頼感のないカップルも、
みな最終的にほわほわと手を取りあい婚礼の舞を踊る。
それを観て、高校生〜おばちゃんまでの女性が陽気に拍手している。
まあ単純に娯楽芝居として楽しめばいいのだろうけど、
タイミング的にどうしても私は、そこで描かれている男女の姿に
素直に笑顔を向けることができなかった。


(October 8, 2008)

Posted by iwaki : 23:25 | Comments (0)


RENTのインタビュー

今日ミュージカル『RENT』のキャストメンバーに取材をしてきました。
私が取材を担当したのは、エンジェル役の辛源さん、田中ロウマさん、
ミミ役のジェニファー・ペリさん、ロジャー役のKさん、Rhoheiさんの
計5人だったのですが。ちょっとこのブログで簡単に書くには
どうかと思えるほど濃いライフストーリーが聞けて、とても興味深かった。
HIV、ドラッグ、DV、同性愛、死、、、
『レント』で描かれるこういった世界観を
彼らは他人事としてではなく、リアルに実感して生きてきた人たちばかりで、
その波瀾万丈な人生譚に耳を傾けていたら、
作品に対する期待度がうなぎのぼりになってきた。

パンフレットは文字数が少ないの、あまり詳細には書けないですけど。
興味があるかたは、是非、読んでみてください。立ち読みでもいいんで。
彼らの、全力投球の生き様にすがすがしさを感じるはずです。

(October 3, 2008)

Posted by iwaki : 18:24 | Comments (0)


会話の優位感覚

私の毎日における日常風景のひとつです。
ある舞台を観終えたあと「どうだった?」と、知人同士で感想を求め合うことがあります。
そこで人々は、日本人らしくやや遠慮がちに感想を言いあうのですが。
これが、いつも一言二言のポツポツとした単語交換で終わってしまう。
別にそれぞれ意見がないわけではないのです。
ある人は照明や美術も含めた全体構成のことを言い、ある人は芝居全体を端的にひとつのキャッチフレーズで言い表し、ある人はなんとなく「こんな印象を受けた」と漠然とした言葉を返す。で、お互いに「なるほどね」とそれなりに相づちは返すのですが、
そこから会話がようとして進まない。なぜ、会話が進まないのか?

まずひとつ言えるは、そもそも大概の人間は
相手の意見なんてそんなに真剣に聞く耳を持っていないということ。
でもこれを言ってしまうと元も子もないので、
この基本条件はなんとかクリアできてる人間同士が集まっていると仮定して、
次の段階で言えるのは「会話の優位感覚系が違う」から対話に齟齬が生じるということ。

視覚系、聴覚系、言語感覚系、触覚系。
人には4つの優位感覚があります。
そして人はそれぞれ、これらの内どれかひとつの感覚に、
無意識的に寄りかかるかたちで世の中の物事を認識しています。

たとえばさっきの芝居の例で言うなら、
全体構成に目が行った人は視覚系、
端的に一語で感想を言い表そうとした人は言語感覚系、
なんとなくの受けた印象を語ろうとした人は触覚系です。
つまり皆それぞれ、自分の現実認識の仕方を元に素直に感想を語っているわけですが、
相手の優位感覚を認識したうえで会話をすることができていないため、
おのおの「ん? なんかおかしいぞ。うまく伝わってないぞ」と察知し、
早々に会話を引き上げてしまうのです。

視覚系の人は、全体図を把握してから徐々に細部に入り込んでいく、
という大枠のイメージをつかんだうえでの会話をしたがる傾向にあります。
言語感覚系の人は、自分なりに状況を咀嚼したキーワードで全体を捉えたがります。
前者は絵で、後者は言葉で、状況を理解する優位感覚傾向がるため、
その違いを認識していないとコミュニケーションに断絶が生じるわけです。

自分と異なる優位感覚系を意識して会話をするのはとても難しい。
だけど人は文字通り「世界を違ったかたち」で捉えているわけで、
自分と同じように人は世界を見ているに違いないと思い込むのは、
とても危険な罠なわけです。
まあ、こんな偉そうなことを言ってますけど。
これは私への戒めでもあります。
なんせ最近まで、こんなことみじんも意識せずに
無防備にコミュニケーションを交わしていましたから。

(October 2, 2008)

Posted by iwaki : 00:08 | Comments (0)


スウェーデンと日本

今日、ある雑誌の取材調査のためにスウェーデン人の男性に会ってきました。
彼は宇宙物理学者の卵で、なかなか私のまわりにはいないタイプ。
学者さんらしくとても物静かな語り口の人でした。
話自体は物理学について、というより
スウェーデン人のワークライフバランスについて聞いてきたのですが。
いまスウェーデンは右翼政権が政治の実権を握っていて、
かなり保守化傾向が強まっているそう。
女性の社会進出に対してもそれほど協力的でなく
デイケアの予算を削減したりしているそうです。
ちなみにこの物理学者の卵さんも「早く結婚したい」と言ってました。

そういえば日本でもいまは、大学を卒業する女性が
就職しない傾向が一部で強まってきているそうです。
就職しないで何をするかというと、花嫁修業をするらしい。
そして専業主婦におさまることが彼女たちの目標らしい。
これだけ不安定な世の中になってくると、
自力で稼がないで安定的な収入を得て、
幸せに暮らしたいと願う人間が増えてくるのわからなくもないけど。
いったい彼女たちは具体的にどんな結婚生活を思い描いているのだろう。
ちょっと最近、日本の若い女の子たちの話も聞いてみたいなと思います。

(September 24, 2008)

Posted by iwaki : 23:29 | Comments (0)


スコトーマ

視覚に「盲点」があることはよく知られています。
人の網膜は光を感じる特殊な細胞で覆われているのですが、わずか1.5mmだけ、この細胞のない部分がある。というのもその1点に血管と視神経の束が集中し、そこから脳へと指令が送られているため、構造上、このチューブと網膜との結節点が、盲点となってしまっているわけです。で、この盲点を、専門用語では「スコトーマ」と言います。

転じて、心理学ではこの「スコトーマ」という用語を別の意味で使います。ものすごくくだけた言い方をすれば「何をしたらいいのか見えない、見えない、と言い続けることによって本当に可能性が見えなくなっちゃう状態」。これが心理学的なスコトーマです。

簡単な例をあげるなら、よく外国に行くと無条件にパニックになる人たちがいます。
そんな人たちに現地で「スーパーに行ってコーヒーを買ってきてよ」というと、あらかた「ムリだよ」という答が帰ってくる。日本も外国もスーパーのシステムはほぼ同じです。コーヒーのパッケージだって、文字が読めなくてもデザインで分かります。支払いもキャッシャーに表示される数字を見れば、言葉が聞き取れなくても大丈夫です。でも私の知人で現に外国のスーパーに行って、コーヒーを探すことができずに、「やっぱりムリだった」と言って帰ってきた人間がいました。彼はこのとき、心理的なスコトーマ状態に陥っていたわけです。

こんなに極端な例でなくても、人は気づかずにスコトーマに陥っています。
「自分なりに考えた企画を上司に提出してみよう」「趣味でギターを習い始めてみよう」「自分の生活習慣をほんの少し変えてみよう」。そんなことでも大概の人は「よしやってみよう」と思う以前に「僕には、私には、ムリ」という答を自分のなかで生み出します。そして人間の脳は、その指令に従って本当にその可能性を「見えないように」してしまうのです。怖い。

ではこのスコトーマを取り払うためにはどうすればいいのか。ひとつ方法としてあるのは、絶対にいつもの自分ではムリだと思える「でっかい目標」を掲げることです。そしてその目標達成に向けて、少しずつ着実に行動する。そうすると人間の脳は、その小さな行動に快感を覚えていくようになり、気づいたときには「絶対にムリ」と思っていた壁を、突き抜けていたりするのです。

考えてみれば私も23歳のとき「物を書いて暮らしていく」と人に言ったら「絶対にムリだ」と言われました。常識的に考えれば確かにムリだったのかもしれません。でも私のなかには「ムリだ」という考えがまったく浮かんで来なかった。成功するイメージ、止められないエネルギーしか沸いてこなかった。そして、いま私は人にムリだと言われた生活を、まあそれなりに、成し遂げています。そして、さらにその先に向かおうと「やってやろうじゃないか」という気持ちで、甘えた自分を鼓舞しています。まあ、たまに自分に負けるけど。「できないかも」という不安は誰もが少なからず持つものです。だけどとりあえず「スコトーマ」という概念を理解しておくと、自分の限界なんて自分が勝手に決めてるだけじゃん、ということがわかって勇気が沸いてくる気がします。

(September 20, 2008)

Posted by iwaki : 19:03 | Comments (7)


カウチ・サーフィン

私は今日までまったく知らなかったのですが、
いまは若者の旅先での宿泊選択肢に「カウチ・サーフィン」というものがあるそうです。
これは文字通り、旅先で人の家のカウチに泊めてもらうというシステム。
Counch Surfingという非営利組織が運営するサイトに登録しさえすれば、
誰でも気軽にこのシステムを利用できます。

もちろん、どこの誰とも分からない人間の家に泊まるなんて、
「危険じゃないのか」という考えは誰もが最初に持つ疑問。
けどこのカウチ・サーフィンではなかなかうまいセキュリティシステムが作動していて。
あぶない人間は自動的に排除されるようになっている。

1 プロフィールシステム
  ゲストを迎えるためにはかなり詳細なプロフィールを記入する必要がある。
  しかもその当人であることを証明するためにサイトから自宅に確認の郵便物が届く。
2 メールシステム
  以前そのホストの家に泊まった人間に直接メールして質問できる。
3 保証書システム
  すでに3人の人間から保証書を得ている
  「直接顔見知りのメンバー」に認められることで、
  保証書つきのメンバーに格上げされる。

こうしてカウチサーフィンは今では世界70万人が利用するシステムにまで成長している。
しかもこのカウチサーフィンからは、ただ寝床を提供してもらえる以上の、
文化交流的な楽しみが得られる。サイトにも以下のようなことが書かれています。

「世界中にタダの宿泊所を設けるのが目的ではなく、
家と心を開き、異文化交流から生まれる、
幅広い知識の共有を助けることが私たちの目的。
旅のスタイルだけでなく、
人の世界とのつながり方を変えたい」

興味がある人、そして旅人を泊められるサイズのカウチが
家にある人は、以下のサイトを参考にしてみて下さい。

Couch Surfing http://www.couchsurfing.com/

(September 16, 2008)

Posted by iwaki : 23:16 | Comments (0)


座禅

昨日、今日、と朝6時に起きて広尾の香林院という
臨済宗のお寺で座禅を組んできました。
畳のうえでじっと座ること1時間。
たったそれだけのことが、いったいどれだけのもんなんだ、
と最初はかなり懐疑的でしたが、実際にやってみたらびっくり。
ただ心を静めて姿勢良く座るということが、
これほど心身共に難儀なことだとは思いもしませんでした。
来てる人たちも全然スピリチュアルな匂いのする人たちではなく、
出勤前の若いサラリーマンやOLさんが多い。
外国人の方が初心者に座禅の型を教えているのにもびっくりした。
とにかく「癒し」というより「克己」という
言葉がしっくりくる1時間でした。

そこのお坊さんの話を聞いたらやっぱり座禅は「癒し」ではないそう。
「瞑想では目を閉じるから別世界に逃げ込むことができる。
だからいっときの癒しを得られる。でも座禅では絶対に目を閉じない。
現実を見なきゃ意味がない。現実を見なさい」と。

あと「座禅と同じで、日常でも基本は我慢」という言葉が胸に刺さった。
私はこのところ、かなり依存的で甘ったれた人間になっていたから、
この言葉を聞いたときに目から鱗が落ちるというか。
思わずあははーと笑ってしまいました。

呼吸すること、朝日を浴びること、食事をすること、鼻歌を歌うこと。
自分にとらわれずに、まわりの人と生きること。
座禅でじっと我慢をしていると、
そのあとで行う行動のすべてに小さな喜びが感じられる。
さて、今日もきちっと丁寧な原稿を書き上げよう。

(September 12, 2008)

Posted by iwaki : 09:57 | Comments (0)


レセプター

レセプターという単語は元来、生化学の用語です。簡単にいうならこれは外界からの刺激を受け取り、情報として利用することができるよう変換するための細胞のこと。人はこのレセプターを通して、外部から多くの情報を体で受け取っているわけです。

さて私は最近、いろいろコミュニケーション方面の勉強をしているのですが。学んだところによると、レセプターというのはコミュニケーションの世界では「話をきちんと聞くための受信機」として定義されているようです。

簡単にたとえるなら、どんなにこちらが自分の話Aをしたいと思っていても、相手にその話Aにまつわるレセプターがなければ、必然的に相手は会話を聞き流すことになる。興味がない=レセプターがないから、話を受け取れないわけです。

そこで対話術では話が通じない相手にむりくり話を通じさせるために「レセプターを開く」という技術を使うそうです。ざっくり簡単に言えばこの技術は、相手の興味を引くようなキーワードをあえてちりばめて話をしながら、自然とこちらの話したい内容に持っていくとい対話テク。

たとえば取材である人と国際政治の話をしたいと思ったとする。でもいきなりこちらが興味のある国際政治の話をふっても大概の人は聞きやしない。そうではなく、その人の活動範囲、興味範囲にまつわるかたちで、自然と国際政治の話につなげていけば、大概の人は会話を拡げていく。

ただ、そう上手くいかない場合も多々あって。こっちがどんなに新しいレセプターを開こう開こうと努力しても、気づくと自分の興味のあるテリトリーの話にまいもどってる人たちが大勢いる。今週末には「対話の練習だ!」と思って4人ほどの人にこの「レセプターを開く技術」を試してみたのですが、何人かの人は、どんなに相手の好奇心をそそるかたちでこちらの話にしぜーんとシフトチェンジしていこうとしても、相手の好奇心をそそるキーワードを宙に放った時点で、そこからまったく異なる自分の身の上話を繰り広げていくのです。しかも、かなり無意識に&無防備に。

ということで、話が通じない人間に話を通じさせるのは、なかなか一朝一夕にはいかないなぁと。そんなことを漠然と思った、週末でした。

(September 9, 2008)

Posted by iwaki : 01:13 | Comments (0)


7月取材のブログ

今日は単なる報告ブログです。
先日、ドイツで取材をしてきたバレエダンサーたちの記事が
NBSのブログに掲載されはじめています。
今のところ「眠れる森の美女」のレポートと
芸術監督リード・アンダーソンの取材記事だけですが、
今後、ジェイソン・レイリー、アリシア・アマトリアン、
フリーデマン・フォーゲルの記事が随時更新されていく予定です。

昔、消防士になりたかったというジェイソン、
若い頃から情熱的な恋には事欠かなかったから
タチヤーナはとても演じやすいというアリシア、
そしてバレエ団唯一の地元っ子ダンサー・フリーデマン。
3人3様でなかなか取材もおもしろかったです。

ちなみにシュツットガルトの町は、
メルセデス・ベンツの本社があることで有名です。
周りを見渡せば走っている車も8割方ベンツ。
別に地元では日本のような高級車のイメージはないそうです。

あとこの町ではいたるところで地元の人たちが、
どんぶりのようなでかい器に乗ったパフェを食べていました。
あれはシュツットガルト名物なんでしょうか。
どうでもいいことですが、町のことを思い出すたびに
あのばけ物サイズのパフェが脳裏をよぎります。

シュツットガルト・バレエ 連載ブログ
 http://www.nbs.or.jp/blog/0811_stuttgart/2008/08/1.html

(August 31, 2008)

Posted by iwaki : 18:13 | Comments (0)


男の性欲と行動力

最近、私の友人の上司(男)が70歳にして新しく子供を持ちました。その人は元海外有名アパレル会社の豪腕社長さんで、今でも、年齢からは考えられないほど若々しく好奇心に溢れアクティブな人。友人はよく本気とも冗談ともつかぬ口調で「男の行動力と好奇心って、絶対に性欲と比例関係にある気がする」なんてぼやいています。ちなみに、私もこの意見にはかなり賛成。なにせ「英雄、色を好む」という、ことわざがあるぐらいですから。普段の行動が精力的な人は、性生活も精力的なはずなのです。

そう思っていろいろな書物を読んでいたら、面白い科学データにぶちあたりました。米国の精神科医クロニンジャーさんが唱えるパーソナリティ理論によると、人間は4つの個性ーー(1)好奇心の赴くままに探索する「新奇性追求」型 (2)危険を避けて行動する「損害回避」型 (3)報酬を得ようとする「報酬依存」型 (4)安定志向に暮らす「持続性」型に、わけられるそう。しかもその4つのタイプは人間が先天的に持つ「脳内物質の量を規定する遺伝子」と深く関わっているらしいのです。

結論から先に言うと、新奇性追求のタイプはこの特別な「遺伝子」の働きによって脳内のドーパミン量が多くなるらしい。このファクトを知ったときには、まあ驚きました。だってドーパミンといえば脳内麻薬とか脳内モルヒネと言われる神経伝達物質で、性衝動を促進することでもあまりにも有名。つまり、新しいことに目を輝かせガシガシ挑戦しつづけるアクティブな男性が、セックスにもガシガシ活動的なのは、脳内のドーパミン量によって同時にひきおこされていた自然現象だったわけです。

ただ、だからといってこれから人工的にドーパミンを吸収すれば、生活パターンが一気にアクティブに変わるのか、というとそんなに物事は簡単じゃないらしく。他の遺伝的なことや、後天的に培った生活習慣や思考法など、いろいろな要素も絡んでもいるらしい。詳しいことはわからないですけどね。でも、なんだかちょっとすっきり。「男の行動力と性欲の関係は、どうなってんだ?」という自分のなかにあったぼんやりとした疑問への解が、少し得られた気がしました。ーーという今日は、というか今日も、私の本職とはまったく関係のない科学と性のブログでした。

(August 26, 2008)

Posted by iwaki : 01:22 | Comments (0)


死刑問題

外国人の知人に「なぜ日本にはまだ死刑制度があるのか」と今日唐突に質問をされました。それに対して私は、明解な答を与えることができなかった。悔しかったので、少し死刑について調べてみました。

まず日本では06年に4人、07年に3人が死刑執行を下されています。先進国で死刑が増加傾向にあるのは日本だけだそうで。驚くべきことに、数年前の世論調査だと8割の人間が「死刑に賛成」。しかも00年代に入ってから「被害者遺族の感情を考慮すべき」という心情重視の考え方が世論で増えているそうで。これを聞いて、来年、裁判員制度が導入されたらどうなるんだろう…、とちょっと怖くなってしまいました。間違いなく、死刑が増えそうな気がする。

ちなみに世界の死刑執行回数第1位は、ダントツで、いま北京オリンピックで盛り上がっている中国。全体の97%を占めています。しかもYou tubeやLive Leakなどでいろいろ調べていたら、ろくに裁判もせずに無実の人間をどしどし「死刑キャンペーン月間」などの名のもとに公開銃殺刑に処していたりするようで。まったくの冤罪で殺された家族が打ち震える映像などを見ていると、この国の中央政府の横暴ぶりが痛いほど伝わってきます。第2位はイランで、ここはイスラーム法にのとって不倫や同性愛で死刑を下されることが多いらしい。私がいちばん憤りを感じたのは、16歳の少女が、51歳の男性にレイプされて、なぜか少女のほうが「不道徳である」という理由で死刑になったという事件。男性のほうは鞭打ちのみで釈放。イスラム諸国の女性進出は徐々に進んできているとは言え、まだまだ、彼女たちは男性にいいように扱われているのです。

さて我々の国ニッポンでは、残酷に2人殺せば、あるいは普通に4人殺せば、ほぼ「死刑」の判決が下されるようになっている。どんなことがあっても人を殺めてはいけない、と法律で定めているのに。なぜその同じ法律の下で、人を殺めているのか。詳しい死刑存置論者の意見は私にはわからないので、ここで軽率な結論は言えなですが、論理的には何か矛盾があるような気がします。いずれにしろ、最終的にどういう意見を持つのであれ、こういった問題に今まで無自覚に生きてきた自分に腹が立ちました。今度、知人に尋ねられたら、きちんとそれなりの説明ができるようになっていればと思います。本当に私は知らないことが多すぎる。いろいろ学ばねば。

(August 23, 2008)

Posted by iwaki : 00:41 | Comments (0)


恋する女の理性

マリー・アントワネットフェルゼン伯にしろ、ポカホンタスとジョン・スミスにしろ、メアリー・スチュワートとボスウェル伯にしろ、なぜか「身分違いの」命がけの恋に奔走する女たちの物語の多くは悲劇で終わる。ここにあげた女たちは恋に落ちるや途端に、身分も、家柄も、立場も顧みずに、感情の赴くまま、愛する男たちに身をなげうってしまおうとする。それははたから見ると、信じられないほど理性に欠けた愚かな行為に見える。にも関わらず、恋に溺れる女たちはそれに気づかない。恋は盲目状態なのである。最近の科学的な発表によると、恋煩いの状態は、強迫神経症障害の患者の状態に酷似しているのだという。どちらも、血液中のセロトニンレベルが激減するらしい。要は、人は恋に落ちているときは、精神病に限りなく近づいているわけで。そりゃ、理性的な判断も下せなくなってしまうはず。で、運命の悲恋とあいなるわけだ。

でも今日、歌舞伎座で観た野田秀樹脚本による『愛陀姫』では、中村勘三郎演じるところの濃姫が、激しい恋と嫉妬に燃えながらも、可能な限り理性的な判断をくだしつづけていた。彼女は唯一、劇中で、みずからの判断でみずからの行動を律している人間だともいえる。他の人間は占いを信じたり、運命に流されたり、するばかりでまったく自分の意志で行動をとっていない。濃姫の恋敵である愛陀姫もしかりで、ラストの場面を除いては本当に行動が受動的で観ていてちょっと苛立つところがあった。

で、濃姫。彼女は恋する女でありながら、自分の理性で行動を推し進める。そして愛する人を手に入れようとけなげに最善を尽くす。にも関わらず、最終的にはその自分の理性によってみずからの恋を滅ぼしてしまう。せつない。なんだかこんな物語を観ると、女の恋心と理性は、両立しないものなのか……とぼやいてみたくもなる。ちなみに少し劇評的なことを書くと、最後の濃姫の独白の場面でマーラーを流すのはいかがなものか。演目が『アイーダ』なのにマーラーはどうなんだ、っていうこと以前に、せっかくの力強いセリフの劇効果を薄めていた気がした。


(August 19, 2008)

Posted by iwaki : 00:27 | Comments (0)


ルグリと自己決断

先週マニュエル・ルグリさんにはじめて取材しました。
パリ・オペラ座のトップエトワールと言われる人は、いったいどんな人なのか。
考えを巡らせ、少し肩をこわばらせ、緊張しながら取材場所を訪れました。
でも実際に「ボンジュール」と会ってみたら、これが肩すかしなほど普通の人だった。
もちろん、これはいい意味で「普通の人」ということ。
変に偉ぶったり、頭の良さをひけらかしたり、もちろん人を上下で見たりしない。
一言でいって、とても気持ちがいい人でした。

一年中、取材をしていて思うのは、本気で何かを極める人ほど偉ぶらないということです。
考えてみたら、本気で何かを極めたいなら偉ぶってる暇なんでないのです。
それに彼らから一様に感じられるのは「ただ好きなことを全力でやって楽しんでいる」
という、どん欲で底つきない百万馬力のポジティブ・パワー。
自分自身で決断して選んでやっていることだからこそ、
努力が楽しみに、苦労がやりがいに、失敗が糧に変わるのです。
また自分は勝手に好きでやっているだけだという客観性もあるから、
変に人の生き方をジャッジして非難したりもしません。

ここで私が言いたいのは「好きなことを職業にすべきだ」ということではありません。
そうではなく私が思うのは「人は人生の道を自分で決断すべきだ」ということです。
自分がどうしたいかを確認することなく、なんとなく周りに流されて、
なんとなくあやふやにして、毎日を生きていると、
人生のステップを「自分で築き上げている」という実感がもてなくなります。
これはとても居心地が悪い。それに下手をするとその居心地の悪さを、
自分で決断したんじゃないもんね、と人のせいにしたくなる。
でも、人を責めても同情は得られても幸せは得られないのです。

ルグリさんは自分の意志で選んだ道を歩きつづけている人だから、
自分の失敗ステップも成功ステップも同じように語れる誠実な人でした。

インタビューがNBSのウェブサイトに載っています。
小出領子さんとの合同インタビューです。
小出さんもバレエに対する愛に溢れたとても素直な人でした。
もし興味と時間があれば読んでみてください。

http://www.nbs.or.jp/blog/news/contents/2008/08/post-55.html

(Augsut 14, 2008)

Posted by iwaki : 01:04 | Comments (2)


マチュー・ガニオ 最終回

ーー『エトワール・ガラ』では、とてもエモーショナルなパドドウを踊ります。『白鳥の湖』の2幕、『ジゼル』の2幕、そして『ロミオとジュリエット』のマドリガル。
ロミオはいつもバルコニーかベッドルームのシーンしか踊らない。だからこれはまた異なる視点からこの作品を切り取って見せることになる。また違った部分の愛、最初の出逢いの愛を見せられると思う。 このシーンはバルコニーやベッドルームの場面より少し短いけれど、やりようによってはとても深い感情が伝わるんじゃないかと思っている。ただこのパドドゥは最初はステップがほぼないなかで、感情を伝えなければならない。しかもガラ公演ではいきなりその場面の感情をポンと観客に伝えなければいけないから、とても難しいよね。とにかく出番のまえに感情についていろいろ考えて、ロミオとして自問自答したのにち舞台に出られればと思う。でもまあ、確かに簡単なことじゃないよ。ガラ公演で文句なく舞台上にロミオとしている、というのは…。これはチャレンジ。

ーー『ジゼル』と『白鳥』は。
ふたつとも全幕でもガラでも既に踊ったことのある役柄なのだけど、スベトラナと踊るのは今回が初めてだからとても新鮮。彼女とは『マルガルデ』をこのあいだ一緒に踊ったのだけど、それは素晴らしい体験だった。僕がパートーナーとの感情のエクスチェンジについてインタビューの最初に話したのは覚えてる? 彼女とはその感情のやりとりがものすごく上手くいくんだ。彼女があまりにも多くを僕に与えてくれるから、僕も彼女にもっと与えたくなる、そして彼女がさらに大きな感情をかえしてくれる。『マルガルデ』で起こったこうしたケミストリーが、『白鳥』や『ジゼル』でも起こるといいなと思う。

ーーブベニチェクの作品については。
明後日からリハーサルをはじめるところ。これが彼の作品への初挑戦です。数ヶ月前に作品のビデオをバンジャマンに見せられて「もしやりたいなら、僕に言って」と言われたんだけど。とても素晴らしい作品だったから「是非、僕にやらして」と即座に頼んだ。僕は日本に来るときはいつもオペラ座とは違うことをするのにいいチャンスなんです。オペラ座ではいつもわりとクラシカルな役柄を踊ることが多いから。だからこういったコンテンポラリーな作品にもたまには挑戦したい。あとは日本で王子様として見られてるところが多いだろうから…、それは別に嫌なことじゃないんだけど、普段もそういう目でスター扱いされると嫌だから。こういう男っぽい役がひとつぐらいないとね。僕も普通の男だっていうところを、日本のお客さんにたまには見せないと(笑)。

(August 10, 2008)

Posted by iwaki : 21:29 | Comments (0)


もうひとつのオリンピック

昨日、北京五輪がはじまりました。
と同時に、女優活動家ミア・ファローがウェブ上にて
もうひとつの「ダルフール・オリンピック」の放送を開始しました。

皆さんご存知のように、
現在でもスーダンの西部地方ダルフールでは紛争が続いています。
一説によると現在に至るまで30万人が死亡し250万人が避難民となっている。
欧米ではこれはもう「民族浄化」の域に達する大虐殺だと言われています。

ダルフール紛争の基本構図を少し説明すると、
これはスーダンの中央政府が、高位な職業に、
アフリカ系よりもアラブ系の人間を極端に優遇することに
アフリカ系国民が怒りを覚え反乱を起こしたことが始まりです。
これに対し中央政府は即座に反撃。反乱を鎮圧するため、
ジャンジャウィード(馬に乗った男の意味)と名乗る民兵を放ちました。
そしてこのジャンジャウィードたちが、ダルフール一帯から
黒人系アフリカ人を浄化しようと、
男を殺し女を強姦し村を焼き払っているのです。

さて、これとオリンピックがどう関係するかというと。
中国はスーダンの石油のほぼ2/3を買い占め、
その代わりにダルフールで使われている武器の大部分を供給しているのです。
つまり、中国と虐殺を繰り返しているスーダン中央政府は利益関係にある。
これに対してミア・ファローをはじめとする活動家は怒りを示し、
五輪開会前から中国政府に
即座にスーダンへの対応を改めるように要求したのです。

しかし中国政府はそれを聞き入れず、
人権活動家やユニセフなどから非難囂々の嵐を受け、
スピルバーグが良心の呵責から開幕セレモニーの演出を辞退するなか、
昨日、はなばなしく、開幕したのです。

オリンピックの競技者たちが悪いとは言いませんが、
とにかく北京オリンピックの裏には抑圧された
さまざまな政治事情があります。
にも関わらず日本選手団は開会式の入場に際し、
無邪気にも中国国旗と日本国旗を両手に持ち
楽しそうに振っていました。
あれを世界の人は、どんな目で見るのでしょうか。

The Darfur Olympics http://www.darfurolympics.org

(August 9, 2008)

Posted by iwaki : 11:34 | Comments (0)


マチュー・ガニオ4

ーー自分が30歳になったときに「この作品を踊っていたい」という展望はありますか。
まったくわからない。なぜなら、多分30になったときには僕は今とはまったく違う視点を持っているだろうから。もっと大きく世界を捉えられるようになっているんじゃないかな。といのも、5年前の自分といまの自分とではまったく異なる視野で世界を見ているから。今よりもっと若かったときにはなんでもかんでも「やらなくちゃダメ、やらなくちゃダメ」という感じだった。だけど今は「どうやってできるか。どうやって自分の身体にそってうまくできるか」と考える。ただ「やるぞ」とがむしゃらに考えるだけじゃない。

ーー若いときはなんらかの理想像があったわけですね。
まさにそう! で、今になってようやく、その理想の男性には到底なれないということがわかった(笑)。僕は僕にしかなれない。それがわかると、自分の長所もわかるしそこを伸ばせる。欲しいものがあって、それに何年もトライして、できないということがわかったときに「オッケー、ここは僕の得意分野じゃない。他のことをしよう」って思える。

ーーオペラ座のダンサーは皆ユニークですが、そのなかで自分の特性をどう生かすべきか分かってきた?
少しずつね。自分の良さを発見できてきた。だからエトワールという大きな肩書きにも自分なりに対処できるようになってきた。本当に、よかったよ。でも僕はやっぱり僕だから……、今でもやっぱりなんらかのストレスを抱えている。僕にはストレスが必要なんだ。なぜならストレスがないと僕は少し怠け者になる(笑)。ストレスの負荷があるときにはじめて、限界を越えることができるんだ。

(August 7, 2008)

Posted by iwaki : 20:54 | Comments (0)


マチュー・ガニオ3

ーー若いダンサーはコンテンポラリーよりも古典作を多く踊る傾向がある。あなたもそうですが、それはなぜでしょう?
 僕個人の意見を言うなら……まず歴史ある古典作は、代々すぐれたダンサーたちが踊ってきていて、それが自分にもできるかどうか試したいという欲求があるから。しかもそれを上手く踊りこなすことができれば、自分のレベルを観客に示すことができる。それはいい宣伝になるよね(笑)。ただ僕はどちらかというと「より新しい古典」が好き。ラ・バヤデール、ドン・キホーテ、ラ・フィユ・マルガルデなんかがだね。ただ古典作は、毎回毎回新たな解釈を施すのがとても難しい。もちろん新たな解釈を生み出すために努力はすべきなのだけど、1〜2回踊ると、さほど劇的に変わることがなくなってくる。だから歳を重ねると、ダンサーたちは古典作から離れていくのかもしれない。だってこの世界には古典作に固執していてはもったいないほど、いろいろな選択肢があるからね! 特にある一定の振付家の作品は、ある程度のマチュアさを得たときに初めて踊れるものであったりするから。そのフェーズにいつか辿りつくためにも、まずは若いときには古典作を踊りこなして、自分の存在を証明する必要があるんだ。

ーー古典作を踊りこなすことの大変さを言葉にすると?
 アダージオがあってバリエーションがあってコーダがあって……、しかもまわりの人間はみな僕が踊り終えるまで後ろでただ座って待っている。これは古典作ならではの緊張感だね(笑)。しかも2幕なり3幕なりを、完璧なテクニックで踊りこなせる体力をキープしなければならない。だから毎日のクラスに真剣にとりくまなくては、すぐに古典作のレベルは落ちるし、それこそ今よりも歳をとったときに身体が適応できなくなる。でもコンテンポラリーな作品は、これとは少し事情が異なるんだよね。僕の英語力ではどう説明していいかわからないけど。そうだな…、いや、フランス語でも説明できないな(笑)。でもいずれにしろ一番大変なのは、昨日はモダン、今日はクラシック、明日はコンテンポラリーと、身体を対応させていかなくてはならないこと。筋肉の使い方がそれぞれ違うから、これは本当に大変。

ーーでもオペラ座ではそれをしなくてはならない。
そう、でもそれがとても大変であり、面白くもある。なぜならダンスに対して、おのずと広い視野を持つことができるからね。それに新しいことに次々に挑戦できてワクワクするし。でもだからといって、なんでもかんでもやるわけにはいかない。それをやったらすぐに身体を壊すし、いくら若いといっても身体がついていかなくなる。でも今僕はこのカンパニーにいれてとてもハッピーだよ。日々いろいろ学べるし、さまざまな振付家に出会えるからね。

(August 5, 2008)

Posted by iwaki : 21:26 | Comments (0)


マチュー・ガニオ2

ーープティ振り付けの『プルースト』であなたがサン・ルーを踊るのを見ました。プティとの作業はどのように進んでいったのでしょう。
 彼が僕に教えてくれたことは簡単にいって3つ。まずキャラクターの性格づけについて説明してくれ、僕がどういう人間になるべきかについて教えてくれ、僕が何を伝えるべきかについて詳しく語ってくれた。つまり、このムーヴメントを使ってこういうことを観客に伝えるべきなんだとか、パートナーとはこういった関係性であるべきなんだとか、そういったことを教えてくれましたね。

ーーサン・ルーとモレルのデュエットは、二人の男性が鏡像のように踊りながらも、互いに相手のコピーであってはならない。とても難しい振り付けですね。
 そう、そこが難しいところなんだ。自然とサン・ルーらしさが僕の踊りから滲み出てこなければいけないからね。僕の考えではサン・ルーという男は、どこか男性的な勇敢さや強さを持っているキャラクター。だけどそれとは裏腹に、モレルに対しては精神的にとてもフラジャイルな状態にあって。まるで感情的な綱渡りをしているような感じ。そこから落っこちないように、つねに集中していなくてはならないような、ギリギリの精神状態を表さなければならないんだ。

ーーしかも、あのデュエットはとても長いですよね。
 そうだね。しかもその前に自分のバリエーションがあるから、なおさらね。でも僕はどんなに大変でも、大きな役をもらったときのほうが好き(笑)。確かにそうした大役がふりかかってきたその瞬間には、不安やストレスでおかしくなりそうになるけど。どんどん稽古が進んでムーヴメントが身体になじんでくると、観客にうまく伝えたいことが伝えられるようになって面白くなる。でもそれはもちろん、すぐできるようになることじゃない。これはとてもゆっくりと本番の経験を積むことで育まれていくことなんです。ちなみに、これは僕に限っていえることかもしれないけど…、僕は舞台上での「疲労感」から新しい感覚が生まれてくることもあります。というのも、そういう疲労がピークに達しているときは、自分の踊りに対する変な自意識がなくなっているから。いっさい脳でステップを分析しなくなって「ただ踊っている」状態になるから。頭ではなく身体の記憶が、勝手に踊りをかたち作っていくようになる。で、そういう無我の境地のような状態になったときには、素晴らしく美しい小説を読んだあとのような後読感を観客に伝えられることが多いんだ。

ーーサン・ルーの役柄では、モレルとのホモセクシュアルな関係性についても伝えなくてはなりません。
 そうなんだ。つまりサン・ルーはここで女性の役割を演じているとも言える。だから女性のようなロマンチックな愛に対する「純粋さ」や「ナイーヴさ」を表現することが大切。モレルとの関係性においてはすべてが彼にとっては新鮮で純粋な愛なんだ。だけどモレルは逆に、そんなサン・ルーの考えのすべてを掌握していて。しかもモレルは実はそうしたサン・ルーの思考に疲れきっている。辟易している(笑)。だからモレルにとってこれはただの「LUST(肉欲)」。だけどサン・ルーにとっては大文字のLつきの「Love」。巨大な愛なんだ。そこが二人のすれ違いの発端で、そこから二人の感情的衝突が生まれてくるわけだ。

(August 4, 2008)

Posted by iwaki : 00:32 | Comments (0)


マチュー・ガニオ1

このあいだパリに行ってマチュー・ガニオに取材をしてきました。
今週発売の「アエラ」や「シアターガイド」などに記事を書かせてもらったのですが、
なにぶん「エトワール・ガラ」のパブリシティ記事となると、
公演の宣伝になるようなお行儀のいい内容しか執筆できません。
これはつねづね思ってきたことなのですが、ほとんどの取材では、
宣伝記事に採用しないような雑談にこそ
取材相手の人柄が滲み出ていて面白かったりします。
なので、このブログを利用してマチュー君のインタビューを
全文掲載しようと思います。宣伝記事では伝わらない、
彼の本音が少しでも伝わればと思います。

ほぼテープ起こしの状態から手を入れずに掲載するので、
多少、読みづらいところもあるかもしれませんが、
そこらへんは、ご了承くださいませ。

マチュー・ガニオ インタビュー 5/22/2008

ーー今日はなんのリハーサルを終えてきたのですか?
 いまは「椿姫」のリハーサルをしているところです。6月7月のどこかで上演する予定です。これが僕にとって3度目の「椿姫」になりますが、過去2度の「椿姫」もとても楽しい経験でした。確かにアルマンはとても多くのことを要求される難しい役ですけど、要求されることが多いがゆえに、それと同じぐらい多くの感情を観客に届けることができる。そうしたドラマティックなバレエが、いま僕はとても好きなんです。妙な感覚なんですが、物語じたいが僕をうまく踊れるよう助けてくれるんです。しかも毎回、踊るたびに何かが変わる。毎回、何か違う物語が伝えられるんです。ちなみに、そのときそのとき舞台上でおこる感情は準備できないものです。いまのリハーサル段階で「さあ、ここ泣こう!」と準備してもそれはまったく意味がない。本当に泣きたい気持ちになるかどうかは、そのときその場になってみないと分からないんです。だから本番では、リハーサルで準備していたのとはまったく別の方法で感情を観客に物語っているということがあります。

ーーでは本番で、なにか自分も予期していなかったような感情に出くわすこともあるのでしょうか?
 舞台上でパートナーが僕の目を見つめているとき…、とても感情的な目で僕のことを見つめているとき…、その瞬間に「オー、マイ、ガッド!」と叫びたくなるほど巨大な感情にふいに襲われることがあります(笑)。これは、まったく予期できない感情です。でも僕はそうした体験を舞台上で味わうのが本当に好き。特にパートナーと一緒に踊っているときに、僕が彼女に何かを言って、向こうも何かを言い返してきて、その繰り返して徐々に互いに感情が大きくなっていく。そうした感情の構築作業が好き。ただし、感情に溺れすぎてはダメ。なぜなら「椿姫」で言うならば、ジョン・ノイマイヤーはとても美しくてとても難しいリフトを発明する人だから(笑)。そのステップをきちんとこなすためには、感情に溺れすぎている暇はない。逆にいえば、稽古段階でステップはすべてオートマティックに完璧にこなせるぐらい練習を積んでおけば、少しぐらい本番で感情に流されても大丈夫ということになります。

ーー昨年あなたはフォーサイス作品、プティ作品、「椿姫」、「ラ・フィユ・マルガルデ」など様々な演目に挑戦されました。それらの演目のうち、あなたの先シーズンのハイライトは?
 それは難しい質問ですね。というのも僕はすべての作品に何かしらの面白さを見いだせるから。
それにそもそも僕はまだかなり若いので、ほとんどが初役で挑戦ばかりなんです。だから、どんな演目のどんな役でも、つねにエキサイティングな状態でいられる。たとえば古典モノならきちんとフォルムを保ってテクニックも完璧に踊ることに課題を見いだしますし、ローラン・プティとの斬新なバレエ創作なら、偉大な振付家と一緒に仕事をすることに名誉と喜びを覚える。だから、どれがハイライトとは一口に言えない。もちろん、作品によって難しくて大変とか、私生活が大変で集中できないとか(笑)、そういうこともたまにありますけど。ほとんどの場合はバレエは僕に刺激と喜びを与えてくれます。

(August 3, 2008)

Posted by iwaki : 00:14 | Comments (0)


宮本亜門の人生

宮本亜門さんの「人生」をインタビューしてきました。
ざっと話しつづけて1時間半。
ノンストップで語り続けてもらいました。
亜門さんの話は本当に速度があって面白い。
それにひとつひとつのエピソードが、
人を楽しませるための落語の小噺のように練られていて、
こちらも取材だということを忘れて聞き惚れてしまう。

今回の取材でおもしろかったのは、
亜門さんが高校のときに数年間引きこもっていたときの話。
部屋に閉じこもって、何度も何度もすり切れるほど
同じミュージカルのレコードを聴き続ける。
そのたびに、体が震えるような感動が押し寄せてくる。
で、その活火山のような震えによって体が高揚を増していって、
最終的にはあまりの興奮で「吐いた」っていうんですね。
これは別にたとえでもなんでもなく。物理的に吐いたんだそうです。

人間が感動で泣くとか震えるとかは聞いたことがあるけれど、
それを極限まで推し進めていくと「吐く」のかと。
そのことにまず驚いた。で、ここに亜門さんの創作活動の原点をみた。

亜門さんは多分、そのときの身体感覚をまだどこかに残していて、
そうした「人の精神状態を壊してしまうような感動」を
他者と分かち合いたいがために今でも創作活動を続けている。
つまりものすごく強い身体的衝動をエンジンにして、
舞台に愛を注いでいる。そんなふうに思えた。

人と人とは一瞬なら、理解しあえるかもしれない。
そのために僕は舞台を作り続ける。

そう言って話し終えた亜門さんの表情が印象的でした。

(August 1, 2008)

Posted by iwaki : 23:27 | Comments (0)


クイーン・ラニア

「アラブ=イスラム=テロリズム=戦争」
そんなステレオタイプな思い込みを打破するために、
ヨルダン王妃であるクイーン・ラニアがみずからYou Tubeに
チャンネルを立ち上げたことは、皆さん、ご存知でしょうか。

ここで王妃は、中東地域の人々に対する、
十把一絡でおおざっぱな知識、既存メディアにより作られた偏見、
などに対してオープンな質問を視聴者からつのり、
それに対してひとつひとつ丁寧な答を返しています。
編集やフィルタリングのかかっていない、
本物の視聴者の声がここにはあります。

日本に住んでいると、
中東地域で起こっている紛争や、
イスラムに対する差別が、
完全に違う世界の出来事のように思えてきます。
けれどこのチャンネルに寄せられる声に耳を傾けていると、
いかに彼らが理不尽で愚鈍で無知な差別や暴力に
日常的に会っているかということが
すべてではないですが自分なりに理解できます。

MBA取得者であり、シティバンクやアップルで働いた経験もある王妃。
その洗練された美貌と物腰で、世界一写真に撮られることの多い王妃
ともうたわれています。彼女はその美貌と知名度をうまく利用して、
世界中の人々に中東地域の真実を語りかけているのです。

ぜひ皆さんも一度、彼女のHPを覗いてみてください。


You Tube Queen Rania's Channel
http://uk.youtube.com/queenrania


(July 27, 2008)


Posted by iwaki : 21:01 | Comments (0)


Kamikaze sperm

ロンドン滞在中にとても面白い恋愛心理学の本をみつけました。
「LOVE SICK」というタイトルの本で心理学者のフランク・タリス博士が執筆しています。
ここでは、恋愛にまつわるいろいろな事象が、科学的に、文学的なおもしろさを交えながら説かれます。
たとえば結婚にまったく興味のなかったかのダーウィンがいとこのエマに一目惚れするや人が変わったような愛妻家となり子供を10人もうけるまでにいたったエピソードから恋愛の心理作用を分析したり、ギリシャ神話の「パリスの審判」を引用して人間がなぜかくも絶対的な美に強欲かということを探求したり、スタンダールの「恋愛論」から"結晶作用"を用いて、なぜ恋人同士があばたもえくぼ状態に陥りやすいかということを説いています。

まだ読み進めている最中なのですが、特に私の興味をひいたのは「Kamikaze Sperm」という精子の存在です。女性器に放出された精子は俗世間的には24時間で死滅すると思われていますが、現在の研究ではいくつかの精子は、膣内の小さな穴に生息するかたちで最長で1週間生き延びることができるそうです。そしてこの精子のなかには、卵子に向かって競争をする通常のおたまじゃくし型の精子とは別に、他の男性の精子が膣内に万が一進入してきたときに、その突入を自爆テロ的なアタックによって食い止める「カミカゼ精子」という勇敢な精子の存在が認められているそうです。しかもこれは女性が広く不倫を楽しむようになってから、男性が進化の過程で体内で生み出した精子なんだそうで。あえてマッチョな言い方をするなら現代社会で男性がいい女をモノにするためには、オフェンスだけでなくディフェンスも固めなきゃいけない。どちらの能力も強い精子を持ってはじめて女性を手に入れることができるのです。

ただでさえ「性格差」が広がっている、現在の男社会。精子の世界にも強いの弱いのという格差があるなんて知りませんでした。そのうち科学が進んだら、精子のオリンピックなんてものができて、世界一強い精子を選ぶようになるかもしれませんね。

(July 22, 2008)

Posted by iwaki : 01:45 | Comments (0)


シュツットガルト

一昨日からバレエ取材のためシュツットガルトに来ています。

この街の人々はとても穏やかで、歩くスピードもロンドンやアムスに比べるとゆったりとしている。ショッピング街などにあるエレベーターのスピードもとんでもなくゆったりしている。水や緑も豊富で、歩いていると草いきれの香りが鼻をついてきます。また驚くのが電車の乗車システム。乗るのも降りるのも、どこにも改札というものがないのです。しかもほぼすべて無人駅。だから心さえ痛まなければ、無料乗車し放題。とりあえずここ数日間、誰も販売機で切符を買っているところを見たことがないのですが、どういうシステムになっているのでしょうか。

バレエの幕間時間も30分もあって、とてもゆったり。みんな劇場の外に出て、ドイツ人らしくプレッツェルなんかをほおばっています。私もものは試しとトライしてみたのですが、これが予想以上に喉の乾く食べ物で、なるほどこれを食べながら、喉を潤すビールとを飲むとさぞ美味しいのだろうなと合点がいきました。

取材自体に関しては、また後日書きます。
シュツットガルト・バレエ芸術監督のリード・アンダーソンと、プリンシパルダンサーのフリーデマン・フォーゲル、アリシア・アマトリアンにインタビューをしてきました。皆さん、ひとつ質問すると5分ぐらい解答を返してくれる人たちでとても取材が楽だった。

明日には東京に戻ります。
とても暑い日々が続いていると聞くので、覚悟して帰ろうと思います。

DSCF0290.JPG

DSCF0293.JPG

DSCF0279.JPG

DSCF0286.JPG

(July 18, 2008)

Posted by iwaki : 00:42 | Comments (0)


THE DIVER

今日、ロンドンで野田秀樹さんに取材をしてきました。取材内容は、野田さんがSOHO THEATERで上演している「THE DIVER」に関して。野田さんは開口一番、この芝居の観客のリアクションはおもしろいんだよ。俺が遊眠社で芝居をしていた20歳の頃のリアクションにどこか似てるんだよね、と笑いながら語ってきました。要するに、確かに観ているものは面白いのだけれど、どう解釈していいかわからない、という。そんな芝居をロジックで処理しきれないことに対する戸惑いが、観客に見てとれるのだと言いました。ちなみに英国新聞『THE GUARDIAN』の劇評もそんな戸惑いが顕著に現れているものでした。THE DIVERを観たことを決して忘れることはない、けれど、あまりにも内容が多義的で複雑すぎる…、という内容のコメントが載っていました。

私自身、こうして色々な国をまわっていると、イギリスの劇場文化の特異性に自分なりに気づくことがあります。ひとつ言えることは、この国の人々は、なぜか言語というものに全幅の信頼を寄せていて、言語化できないパフォーマンスに対しては明らかに低い評価をくだす癖があるということです。どんなにアブストラクトな身体言語を使うダンス公演でも、それをむりくり言語化して、ストーリー的に説明しようとする。これはかなりイギリス特有の、ある意味、傲慢で荒っぽい対処法です。個人的にはこういう劇評を目にすると、そんなすべて何もかもが言語で処理しきれてしまうのだったら、わざわざ芝居やダンスなんか作ろうと思わないだろと反論したくなります。

野田さんもこうしたイギリスの劇評には違和感を覚えていて「すべて言語化して表現してみせろ、という態度は劇評文化として間違っている」と言っていました。『THE DIVER』は明らかに、言語化できない要素が多分に含まれている芝居です。テーマもふんだんに含まれていて、ひとつの大きな結論に結びつくわけではない。だからこそ、そういった芝居を見慣れていないイギリスからは、いろいろと反発が来ることもあるようです。

これからドイツのシュツットガルトに向かいます。ドイツ人は果たしてどんな文化を持っているのか。いろいろ探検してこようと思います。

(June 15, 2008)

Posted by iwaki : 03:24 | Comments (0)


アムステルダムの窓

アムステルダムの町を数日歩きまわって、いまはロンドンに来ています。ロンドンという大都市に比べると、アムステルダムは人が住むのにちょうどいいサイズの町です。だからかショッピング街も、大きなシステムに制御された商業地区という感じではなく、この町を愛する人たち個々が、店を持ち、売りたい商品を選び、町を手作りで創成しているという印象を受けました。一言でいうなら「ハンドメイドの町」。こういう場所に住む人々は、おそらく自分たちの町を「自分たちが作り上げているんだ」という気概を持ちハッピーに暮らしていけるのだと思います。
ちなみにアムスの人たちは、驚くべきことに、窓にカーテンを引きません。だから夜になると、家のなかが外から丸見えです。でも地元の人の話によると、これはそういうお国柄なんだそうです。向こうもこちらを見る、こちらも向こうを見る。そうやって人と人がコミュニケーションしているのだそうです。また家のなかをいつでも自由に部外者が覗き見れるからか、アムスのインテリアはとても洗練されていました。特にライティングは面白くて、一般人のアパートが町の景観を作りあげるインスタレーションのようになっている。おもしろい。今回はあまり観光ができなかったのですが、今度また来る機会があったら、そのときはアムス特有の夜の大麻の匂いに漂いながら、さらに町の深いところまで探求することができればと思います。

DSCF0239.JPG


(July 14, 2008)

Posted by iwaki : 17:16 | Comments (0)


雨雨雨

イギリスのタンブリッジウェルズという本当に穏やかな田舎町を昨日出発して、今日はオランダのアムステルダムにいます。イギリスで天気があまりよくなかったのでアムスではなんとか晴れないかな、と願っていたのですが、やっぱりここも雨です。しかも2ヶ月前にヨーロッパに来たときよりも、格段に寒い。ジャケットが手放せない。せっかく日本の梅雨を抜け出してきたのに、雨雨雨に見舞われて、ちょっと残念な気持ちです。

ちなみに、この町の人たちは、まあまだ着いたばかりなので詳しいことは分かりませんが、とてもシャイで物静かな印象があります。夜になればまた別の顔が見えてくるのかもしれませんが、昨日まで一緒にいた、まっぴるまから下ねたを連発しつづける、クレイジーなイギリス人とウクライナ人に比べると、格段にジョークの瞬発力が低い。国によって人々の日常会話のトーンといのは、本当に異なるので面白いです。

(July 10, 2008)

Posted by iwaki : 22:42 | Comments (0)


イギリスのインフレ

イギリスに到着しました。この国に来るのは今年1月以来、約半年ぶり。降り立ってまず何より驚くのは来るたびに信じられないほど物価があがっていることです。最近のBBCニュースによると、一般家庭の生活費は今年上半期のみで6.7%も上昇、スーパーでの食品価格は過去1年で7.8%上がったそうです。お米やパスタの値段は店頭で倍近い値段がついています。キオスクで小さな500mlペットボトルの水を買うと約300円もふんだくられ損した気持ちになります。

さらにひどいのは、学費問題。大学進学を希望する生徒は、去年よりも、13%も多くの学費を納めなければ勉学に励めなくなりました。平均的な学費が3000ポンド(約635万円)というのだから、これはもう日本でいうと音大とか医大にせまるバケモノ価格なんじゃないでしょうか。
食費が高騰して、学費が高騰して。要するにこの国では、それなりの物を食って、それなりの知識を得たいのなら「金持ちになれ」という図式があるのかもしれません。

ちなみに、この国は一般人に対する医療制度もあまりよろしくない。私は以前イギリス滞在中に、運悪くインフルエンザにかかったことがあるのですが、そのときに駆け込んだ一般病院でひどすぎる対応をされた苦い思い出があります。あとあとイギリス在住の友人にそのときの怒りをぶつけると「イギリスでまっとうな医療を受けたいなら金持ちにならないと。税金も納めていない外国人に対してイギリスの医者がいい対応をするとは思えない」と一蹴されました。なので日本に帰国してから、地元のお医者さんに、とてもとても丁寧に対応されたときには、心からの感動を覚えました。詳しいことは分かりませんが、日本ではまだ、一般庶民の納税額でそれなりの医療を受ける制度が残っていると思われます。

ロンドンはいま、とても景気がいい。不動産価格も世界の他のどの土地よりも高い。けれど、その景気の恩恵を授かっているのは、おそらくほんの一部の金持ちだけ。一般庶民はむしろそうした人々にコントロールされ、人並みの食事や学費や医療を受けることにも不自由し苛立ちを覚えているのです。どんな職業の、どんな階級の、どんな人間であれ、それなりにまっとうな生を送る権利があるという理屈は、国を動かす地位にあるイギリス人には届かない言葉ないんでしょうか。ちなみに、今年「世界でいちばん幸せな国」に認定されたデンマークでは、バカ高い税金を支払わされるとはいえ(確か25%)、医療も、学費も、すべてタダ。家賃もとてもdecent(まっとう)だそうです。

そういえば以前、英国人ジャーナリストと話をする機会を得たときに、彼は肩をすくめながら、こんなことをボヤいていました。
「イギリスではいったん物事は悪いほうに進んだら、それはもう絶対に逆戻りしない。回りはじめた車輪を、止めることができないんだ」
彼の言葉がもし本当だとしたら、この英国の作為的なインフレは、さらに進行するはずです。

(July 8, 2008)

Posted by iwaki : 06:37 | Comments (0)


また渡欧

来週の頭から、またヨーロッパに取材旅行に行ってきます。
現在『THE DIVER』という公演をロンドンで上演中の野田秀樹さんや、
ドイツのシュツットガルド・バレエのダンサーたち、などに、
現地におもむいて取材をしてくる予定です。

ただ段取りが決められた取材以外にも、
実際にそれぞれの国に足を踏み入れて、
その場で興味を持ったことがあったら、
自分なりにその対象物にアプローチをかけて来ようと思います。

最近よく思うのですが、決められた対象者に会うために
海外に行って記事にするのは、それはそれでもちろん面白い。
でも逆に、現地で偶然出逢った「おもしろ」にそそられて
探究心を深めていって記事としてまとめる、という方法論も
いいんじゃないかと思っているのです。

手綱を手放し、レールを外れ、自由に歩き始める。
そうやって自分で靴をすり減らし歩いて見つけ出した情報のほうが、
決められた予定調和な情報に当たり前に出逢ったときよりも
衝撃度がよっぽど大きい。それに世界も格段に広がります。

なんであれ、新しい人と物と街との出逢いにワクワクしながら
約2週間の旅を過ごして来ようと思います。

(July 4, 2008)

Posted by iwaki : 01:16 | Comments (0)


愛撫の効用

現在発売の『NUMERO』でセックス特集の原稿を書いているのですが、そこで身体心理学者である山口創さんへのインタビューを掲載させてもらっています。山口さんは、触覚・皮膚感覚・愛撫、といったことが科学的に人にどのような影響を及ぼすのかということを真摯に研究なさっている方で、私は『愛撫・人の心に触れる力』という一冊の興味深い著書でその存在を知りました。

私はこの本を読む前からつねづね、人にハグしてもらったり、愛撫してもらったりすることは、健康に良い気がする、という個人的体験からの勝手な持論を掲げていました。子供の頃アメリカに住んでいたときに親しい大人にハグしてもらったときにはなんだか体が温かくなった覚えがあるし、恋人と豊かな愛撫があったうえでセックスを楽しんでいるときには、データ的にみても確実に体を壊す機会が少ない。

どうしてなんだこれはー、とぷすぷす燻る疑問から色々と情報収集していった結果、山口先生の著書に辿り着きました。そしてそこには愛撫をされることによって「免疫力が高まる」というファクトが書かれていたのです。これには「!」という驚きと共に「やっぱりね」という納得が自分のなかで生まれました。

ちなみに山口先生は取材時に、とても面白いエピソードを語ってくれました。雑誌には書けなかったので、ここで紹介します。これはまだ仮説の域を出ない話なのだそうですが「子供時代に親に触れられないと、その飢餓感が怒りとして無意識の領域に抑圧され、その怒りが発疹や湿疹として皮膚に出てくる」そうなのです。なので慢性的な湿疹などに悩まされている成人患者のデータをとってみると「子供時代にちゃんと愛情を持って親に触れられなかった」ということがあるらしい。

日本人は身体の距離感がとても遠い国民ですが、それなりに親しい間柄だったら、握手をしたり、肩を叩き合ったりするぐらいはできるように思います。また夫婦間などだったら、お互いの肩をもんだりするのもいいかもしれません。それだけでも相当、互いの触覚を刺激することになると山口先生は仰っていました。触覚の世界はとにかく、奥が深いのです。面白い。

(June 30, 2008)

Posted by iwaki : 20:23 | Comments (0)


タロット占い

私は占いというものを、ほぼ信じません。けれど、先日タロット占いができるという知人に久々に出くわし、タダだから、という理由でものは試しと占ってもらいました。プロセスとしては占うテーマを決めてからカードを「H」のような形に配して、そこから運勢を読み解いていくのですが、これがまたなんでっていうぐらい見事に心当たりのあることばかりを言われて、ちょっと気持ちが悪くなりました。ちなみにこの知人は私の近況をほとんど知らないので、推測して言葉をつむいでいるだけでは、勘が良すぎるって話になるのです。しかし彼女の話によると占いは「その日」のその人の心を反映するので、また別の日にやったら違う運勢が出るそうです。ものすごく悪いことも言われたので、ぜひ、また別の日に、今度はいいことを言われるためにやってやろうと思います。

その方にネット上でできるタロット占いのサイトを教えてもらいました。
まあ当たるかどうかは別にして、娯楽としてどうぞ。
http://www.facade.com/

(June 28, 2008)

Posted by iwaki : 11:22 | Comments (0)


思考停止と差別


皆さんは「人種差別」ということをどの程度ふだん意識していますか。
私は幼少のころニューヨークに住んでいたとき、かなり理不尽な差別攻撃を受けたことがあります。
何をしたわけでもないにも関わらず、通りがかりのドライバーに「ゴー・バック・トゥー・ヒロシマ。ジャップ!」と言って車の窓から石を投げつけられたのです。これには正直、面食らいました。というより、自分のなかに何か処理できない「困惑」に近い感情がそのときから残っているのです。大人になってからこの事件を再考してみても、なぜそのドライバーがそんな行動に出たのか論理的な解答が出ません。そこから導き出せる答えは今のところただひとつ、人種差別はある種の「思考停止状態」と同じで、さほど大きな理由はいらないということです。

最近はアメリカ大統領選で、初のアフリカ系アメリカ人候補であるバラク・オバマ氏が奮闘しているため、いろいろなところで人種差別問題が再び顕在化してきています。CNN.comでは最近「RACISM IN SPORTS」と題し完全に能力主義でフェアな職種であるべきプロアスリートの世界でも、いまだ人種差別問題が明らかに残る、という意図の特集記事が組まれていました。特にフットボールのセリエAでの差別はいまだにかなり酷いそうで、数年前にはFCメッシーナ所属でコートジボワール出身のMarc Zoro選手が観衆からのあまりにも堪え難い人種差別的なヤジに抗議の意をあらわすため、ボールを抱えたままピッチを去る、という行動に出たことがあったそうです。その果断な行動により、少しはセリエA内でのレイシズム問題が人の口にのぼるようにはなったそうですが、いまだ差別撲滅からは程遠い状態にあるようです。

また数日前のニュースではオーストラリアのアボリジニが政府から理不尽な人種差別扱いを受けたことに怒りをあらわにし、エアーズロックとして有名なウルル(アボリジニの管轄下にある)を観光客に対して今後いっさい閉ざすという声明を発表しました。なんでもアボリジニの子供たちが性的虐待を受けている、という報告が政府にこのところなされていたそうで。それに対して政府は調査もそこそこに「野蛮なアボリジニの大人たちが、自らの子供たちを虐待している」という結果をかなり独断的に下したそうなのです。これは人種差別的な決断以外の何ものでもありません。

さて世界ではこれほど「人種差別」ということが問題になっているにも関わらずす、日本ではさほどこうしたニュースが話題にのぼりません。果たしてそれでいいのだろうか、と自問自答してしまいます。自分が人種差別主義者か否かということに対してあまりにも意識を巡らさずに暮らすことは、前述したニューヨークのドライバーと同じで、なんらかの思考停止状態に陥ってしまう気がします。

そこでちょっと自分の人種差別意識を顕在化すべく、調べてみたところ、ハーバード大学研究所が「IATテスト」というネット上の人種差別度測定テストを行っていました。これはアメリカやイギリスなどでは既にかなりステータスのある調査らしく、自分のなかの無意識的な信念や選好を自覚化させてくれるツールとして、多くの人がテストをみずから受けてみているらしい。私も、ものはためしとネット上でテストをトライしてみたところ「あなたは結果、黒人よりも白人に対してわずかに自動的な選好を示しました」という結論が出ました。これはかなり意外でした。
皆さんももし時間があったらトライしてみてください。日本語でできますし、10分ぐらいで終わります。
自分のこと、あるいは自分の生きる世界のことを再考するうえで、なかなか役に立ちます。
https://implicit.harvard.edu/implicit/japan/index.jsp

(June 24, 2008)

Posted by iwaki : 01:00 | Comments (0)


ダンスとアートとセックス

先月1ヶ月欧州に滞在していたのは、別に仕事のためではないのですが、理由はなんであれせっかくの機会なので、いろいろなカルチャーにそれなりに触れてきました。どんなものを見てきたのか(全部ではないですけど)とりあえずここに一度まとめておこうと思います。

 PHILIPPE DECOUFLE「COEURS CROISES」
 巨匠振付家ドゥクフレの新作です。一言でいえばちょっとキッチュな
 ストリップティーズ。あまり笑えないフレンチユーモアが全編にちり
 ばめられたアートというよりも俗っぽい娯楽作で私はあまり好きじゃ
 なかった。「シャザム!」の頃の冴えていたドゥクフレはいずこへ。

 YELLE&SES INVITES
 これはダンスじゃなくて、フランス人女性のエレクトロポップ音楽。
 なんでもいま現地で大変な人気なんだそうで。私はちょっと会場に
 寄ってみただけなのですが、ティーネージャー女子が狂ったように
 テクトロニック(おしゃれなパラパラみたいなもの)を踊っていた。
 しかも歌詞がすごいのね。「私はあなたのことが見たい。ポルノ映
 画で。ちんこのアクションつきで」って。これが堂々サビですから
 ね。フランス人の女の子たちのセックスへの奔放さがアグレッシブ
 で過剰になってきている、という知人の話は嘘じゃないようです。

 SOPHIE CALLE 「PRENEZ SOIN DE VOUS」
 言わずとしれた自己愛アーティスト、ソフィー・カルの個展。彼女
 が元彼にふられたとき、その別れの手紙の末尾には「PRENEZ SOIN
 DE VOUS (TAKE CARE OF YOURSELF)」と記されていた。そこで
 本当に自分を大切にTAKE CAREすることを心に決めた彼女は、その
 別れの手紙を107人の女性に手渡し分析&表現してもらうという
 暴挙にでる。他人の別れの手紙を題材にとると、人はこんなにフェ
 イクに演じちゃうのか。それが私の個展の第一印象。だから個人的
 にはリアルな痛みというより、フェイクのおかしみと哀しみが際立
 ったエキジビションだった。

 DANIEL LEVEILLE DANSE 「LA PUDEUR DES ICEBERGS」
 カナダのダンスカンパニーです。数人の男女の裸体を、ナレティブ
 な作品としてではなく建築的&造形的に見せるというコンセプトの
 作品。動きじたいに驚きはさほどなく、身体でアーキテクチャーを
 作り上げるというワンアイデアに途中で少し飽きてしまった。

 MUSEUM EROTICA
 デンマークにある性にまつわる美術館。置いてある美術品はさほど
 目新しくはないものの、デンマーク出身の童話作家であるアンデル
 センの性にまつわるエピソードなどがわりと事細かに書かれていて
 面白かった。彼が終世、童貞だったという話は有名ですよね。あと
 面白かったのはヴァチカンに世界一巨大なセックス書庫があるとい
 う話。猥雑情報をキリスト教地域から一切抹殺しよう戦った結果、
 ここに情報が行き着いたそうで。で、誰も一般人はなかには入れな
 いらしい。でも入ってみたい。

 RICHARD SERRA「MONUMENTA 2008」
 モミュメントのような巨大彫刻を作りあげるリチャード・セラの
 個展。微妙に傾いたり、かしいだり、前倒しになったりしている
 数枚の見上げるサイズのスティール板がグラン・パレに一列に配さ
 れていて、そのあいだを観る側が歩き抜ける形で堪能する。客観視
 しているときには分からない、めまいのような異質な身体感覚が、
 作品のあいだを実際に歩き抜けてみることではじめて襲って来て、
 興味深い。こちら側が能動的に働きかければかけるほど、身体と
 頭脳への衝撃度が増す、シンプルで美しく異様に力強い作品。

 あとは以前のブログにも書いていますが、
 山海塾の新作『TOBARI』と
 ヴィム・ヴァンデケイビュスの『SPIEGEL』などを見ました。
 ヴィムさんの作品は図抜けて面白かった。

 以下に情報のリンクを張っておきます。
 PHILIPPE DECOUFLE Companie DCA http://www.cie-dca.com/
 YELLE&SES INVITES http://www.myspace.com/iloveyelle
 SOPHIE CALLE  http://www.bnf.fr/pages/version_anglaise/cultpubl/exposition_825_eng.htm
 DANIEL LEVEILLE DANSE http://www.danielleveilledanse.org/
 MUSEUM EROTICA http://www.monumenta.com/2008/
 SANKAI-JUKU http://www.sankaijuku.com/
 WIM VANDEKEYBUS/Ultima Vez http://www.ultimavez.com
 
 

(June 20,2008)

Posted by iwaki : 01:12 | Comments (0)


カウンセリング

皆さんは普段、人との「対話」にどのていど意識的ですか?
私はインタビュアーという仕事柄、人と話をする機会がとても多いのですが、それにも関わらず、今までかなりのどあい無自覚に「対話」を行ってきていました。なのでここにきて遅ればせながら「対話」の勉強をしはじめているところです。精神対話士の本や、カウンセラーの傾聴の本、心理学の本などをしこたま買ってきては、人とコミュニケートする術に、少しずつ繊細に緻密に自覚的になろうと勉学に励んでいるところです。

さらに、ものは試しとこのあいだ自らカウンセリングを受けてきました。で、これがかなり面白かった。なにが面白かったって、まず普段の生活では考えられないほどエントランスから柔らかな物腰で対応されるんですね。それに、私にカウンセラーが質問するときも言葉のトーンもぬくぬくの湯豆腐のように柔らかい。にもかかわらず、使う言葉じたいはかなり強烈なインパクトのボキャブラリーだったりするのです。要するにセッション後も、私の脳内にあえて言葉が残るようにするためか、かなり強い言葉を選んで、私の言動を肯定しにかかるのです。言われて一番面白かった言葉は「あなたには安全感が足りない」という言葉でした。これには少し笑ってしまいそうになりました。不謹慎ですけどね。
しかしカウンセリングというと、日本ではわりあいネガティブなイメージをもたれがちですが、もっとみんなライトな気持ちで試してみればいいのにと思いました。私も自分の考えをいったん言葉にして相手に投げかけることで、思考が客観化できて、とてもクリアになりました。

ちなみに私自身、いま自分の「対話プロジェクト」の勉強台になってくれる人を募集中です。勉強台って言われても一体何をするの?って感じでしょうけど、もし少しでも興味がある方があったら連絡をください。詳しいことをメールします。

Posted by iwaki : 00:00 | Comments (0)


デザイナーズ・セックストイ

今日は『NUMERO TOKYO』の取材のため、女性のためのセックストイ・ショップを訪れてきました。セックスショップと言うと、人によってはぎょっとして引かれる方もいるかもしれませんが、実はこうしたお店は近年では、さほど後ろめたい匂いのする場所ではなくなってきています。裏路地や寂れた暗がりの匂いのする場所……という偏見は、まだ残るとはいえ、かなりなくなってきていると個人的には思います。
世界的にみてもセックストイ産業はとても洗練化されてきていて、たとえば数年前には、ロンドンのファッション学校セント・マーティンを卒業したシリ・ズィンの最高級デザイナーズ・トイ(写真)が「セリュックス」(ルイ・ヴィトン表参道にある高級会員制クラブ)で展示されたりもしました。またイギリスのセックス・ブティック『MYLA』はトム・ディクソンやマーク・ニューソンなどにセックス・トイをデザインしてもらったりもしています。欧米では今や一部のセックストイは、デザイナーズ・グッズに変貌を遂げつつあるわけです。
ちなみに今日、取材に行ったのはLOVE PIECE CLUBという本郷の東大横にあるお店。店長の北原みのりさんもとても柔らかでユニークな方でした。ちなみに雑談で話してもらった「韓国人女性はあそこが緩まないようにするために、ほとんど帝王切開で子供を産む」という話にはビックリ。性の世界は表立って語られないだけに、とても興味深いのです。今後はこのブログでも、定期的にセックスコラムを書いていこうと思っています。

shirizinn06.jpg


MYLA http://www.myla.com/
LOVE PIECE CLUBhttp://www.lovepiececlub.com/

(June 12, 2008)

Posted by iwaki : 21:20 | Comments (0)


究極の理解

今日はBunkamura Magazine 7月号に掲載される『エトワール・ガラ』の原稿を書き上げたのちに、1歳児の母親となった友人宅に遊びに行ってきました。ちなみに最近、私は個人的にコミュニケーション力にとても興味を持っているのですが、この友人宅に遊びに行って、彼女と息子のあいだで行われている究極のコミュニケーションを見て本当に驚いた。子供がアーと言えば「はい、テレビの時間ね」とすぐに理解し、子供がブーと言えば「ごめんごめん、トマトは手で食べたかったんだね」と相づちを打つ。他者である私にはまったくわからない、子供のすべての行動に対する精査なデータがあって、そのうえに絶対的な母子関係が築かれている。「すごいね、完璧な意思疎通だ」と私が友人に賛辞の言葉を投げると、彼女は「そんなことないよ、生まれてから四六時中一緒にいても、今でも間違えることはある」と答えてきた。そしてそのとおり、赤児の言葉や態度を少しでも間違って捉えたときには赤児はびえーっと泣き出した。
でもいずれにしろこれは書物や研究からは学べない人間本来に備わった(でも多くの人が軽視いしてる)ものすごい能力だと思う。人は人のことが分からない理解できないというけれど、片時も離れず一人のことだけを全力で見続けていると、こんなにも人間同志は理解しあえるらしい。本当に素晴らしい。「まあそのかわり、自分が女でいつづけることは捨てざるをえなかったけどね(笑)」と笑った彼女の顔は、なかなか私には美しく映った。

(June 9, 2008)

Posted by iwaki : 23:23 | Comments (2)


帰国

日本に帰国しました。怒濤の情報量にさらされた1ヶ月で、まだ頭のなかの整理がついていません。でもそんなことはおかまいなしに日々はすぎていくので、とりあえず日常生活に少しずつ慣れていこうと思います。セックス特集に関しても、もう少し頭が落ち着いたら詳細を書こうと思います。ざっくりと言うと、身体心理学者の山口創氏と人類学者のヘレン・フィッシャー氏にそれぞれ電話取材をして、科学的スタンスからセックスにおける愛撫の効用について、セックスと恋愛の相関関係などについて語ってもらいました。とても興味深い取材がとれたので、記事にするのが楽しみです。

(June 6,2008)

Posted by iwaki : 23:25 | Comments (0)


パリ再臨

北欧や東欧の街をいくつか転々として、今はふたたびパリに戻ってきています。20分もあれば街の中心部を歩き抜けてしまえるような場所で暮らしてからパリに帰ってくると、この街は人も車も騒音も多すぎると本当にあきれてしまいます。あとこれは人口密度が少ない場所に行ってみてあらためて思ったことなのですが、ここでは他者に対する意識がとても低い。確かにパリや東京などの大都市で周囲の他者全員に対して意識を配っていたら、とてもじゃないけど脳みそが情報を処理しきれなくて、すぐに音を上げてしまうと思う。だから人を物として見て処理するようになってしまうんでしょうけど、やっぱりこれはちょっと人間として自然体な状態じゃない気がします。東欧のある街などは、あまりにもダルでやることがないことから「人間」そのものがいちばんの好奇心の対象になっていて、カフェのテラスに座って目の前を歩く人たちを見る"アトラクション"が根付いていた。まあその街は世界でもまれにみる美人量産都市で、くる人間くる人間みんなが美人だから成り立つアトラクションだったのかもしれませんがーー。
パリでは昨日、ヴィム・ヴァンデケイビュスの『スピーゲル』という作品を観てきました。体と体がクラッシュするような男臭い攻撃性と、心理的異常行動を表すような繊細なディテール、そしてヴィムさんの向日性をもった遊び心が、破綻なくひとつの作品のなかに盛り込まれていて、観終えたあとスリリングな疾走感から鼓動が高まるのがわかりました。あと音楽もとても完成度が高かった。珍しく観終えたあと「おもしろい!」と心から思うことができる作品でした。
そして今は『NUMERO TOKYO』のセックス特集に向けての取材や執筆を進めています。今まで私はダンスや芝居に特化したジャーナリストとして記事を書いてきたのですが、ここ最近「セックス」という題材に興味を広げて勉強をつづけてきました。その勉強の成果となる記事第一弾が、このNUMEROの仕事です。これに関してはまた後日、詳しく書こうと思います。

(June 1, 2008)

Posted by iwaki : 19:01 | Comments (0)


エトワール・ガラ 取材

パリ・オペラ座のダンサーへの取材が今日、終わりました。
インタビューを受けてくれたのはマリ・アニエス・ジロ、マチュー・ガニオ、そしてバンジャマン・ペッシュの3人。彼らとはガルニエ宮の近くのカフェ・ド・ラ・ペでおちあい、それぞれ約1時間ずつおしゃべりを楽しみました。

マリ・アニエスは舞台上の力強いイメージからすると別人かと思えるほど、シャイで柔らかな印象の女性でした。自分とナタリー・デセイ(!)のために振り付けた新作バレエの話や、『エトワール・ガラ』で特別に世界初演する……かもしれない未発表演目についてなどなど、30分の予定だったところを20分以上も延長していろいろと話してくれました。
マチューもこれまた愛らしいほどシャイな男の子で、私が持参した電子辞書で英単語を生真面目に検索しながら「ごめんね、慣れない英語で」と断りを入れつつ熱心に取材に応えてくれました。個人的にはローラン・プティとの最近の仕事である『プルースト』のサン・ルーの解釈話がとても面白かったです。
最後に話したバンジャマンは前日までスペインで仕事だったそうで、シャルル・ド・ゴール空港に着いたその足で取材場所を訪れてくれました。でもまだ体はスペイン時間のままのようで、カフェでブラディーマリーを頼んでは「スペインでは今頃がカクテルタイムだからねー、飲みながら話すけどいいよね」と陽気な雰囲気で応じてくれました。話自体もスペイン人顔負けの熱さで、彼がアーティスティック・ディレクターとして、どれだけ『エトワール・ガラ』に心血を注いでいるかが分かるパッショネイトな内容の話でした。
しかし個人的にひとつ残念なことが。バレエとはまったく関係ないのですが、彼らフランス人のジョークに私が今ひとつきちんと対応できなかったのです。バンジャマンなんてあまりにも生真面目な顔でジョークなのかジョークじゃないのか分からない線の笑いを会話の随所に落とし込んでくるので、いまひとつ突っ込みどころがつかめないのです。もう少し外国人のジョークに瞬発力を持ってウリャッと突っ込める方法(と語学力)を獲得せねば、と思いました。
彼らのインタビューはとりあえずは『エトワール・ガラ』の公式プログラムに執筆予定。あとはどの雑誌にどの程度、書き分けられるかまだ分かりませんが、詳細が決まり次第このHPでも発表しようと思います。

(May 22, 2008)

Posted by iwaki : 05:11 | Comments (0)


MULTI-CULTURE

東京をたってからちょうど10日が経ちました。
たったの10日だとは思えないほど、肉体的にも精神的にも密度の濃い日々を送っています。生活のテンポ自体は日本にいるときよりもゆったりしていると思うのですが、やるべきことが毎日違うため、一日として同じ日がありません。

会う人々も実に多彩です。
スペイン人の女の子は「今住んでいるフランスでは知人や同僚はいるけれど、フレンドと呼べる人間はいない」と寂しそうに語ってきました。どうやらスペイン人とフランス人の対人距離感はかなり異なるようです。ポルトガル人の男性は「ポルトガルでは20歳前後で結婚するのは当たり前」という驚くべき事実を教えてくれました。ポルトガル人は欧州のなかでもひときわオールドファッションな国民のようです。またイタリア人の女の子は、若い女性の雇用制度がとんでもなくひどいことを教えてくれました。そこでちょっとデータを調べてみたら、確かにイタリアで仕事を持つ女性のパーセンテージは低いようです。デンマーク71%、フランス58%に対し、イタリアは45%。同じくイタリアでベルルスコーニの政治体制はある意味独裁に近い、ということを皮肉なユーモアを交えて話してくれた男性の話もとても興味深かったです。そして、その話から私はイタリアという国がとてもとても不安に思えてきました。
今日はパリにいます。パソコンを開いていたら、隣りの老夫婦が「ここではインターネットがただでできるのですかマドモアゼル」と聞いてきました。「ウィ」と応えると男性のほうが「近所に住んでいるのに知らなかった、明日からパソコンを持ってこなきゃ」と楽しそうに笑います。
こうして今日も異国の地での夜がふけていきます。

明日からはパリ・オペラ座バレエのダンサーたちへの取材がはじまります。
楽しい取材にできればいいな。

(May 18, 2008)

Posted by iwaki : 02:54 | Comments (0)


日本ーイタリア

犬がシロツメクサと無邪気にたわむれ、レモンの鉢植えにぶんぶんとハチが飛びかい、ミントの木が気持ちよさそうに日光浴を楽しんでいるーー。そんなイタリアの田舎町で、今日はゆったりと目覚めました。とても気持ちがいいです。でも根っからの東京人な私は、そんなときにもメールチェックしてしまう。今日も私のMac Bookには地球の裏側からメールがたくさん届く。なんて私はせわしない人間なのだろう。

でもそんななか、とても嬉しいメールがひとつ編集部から届いていました。なんでも私が日経トレンディネットに書いた草なぎ剛さんの『瞼の母』の記事を、とても多くの方が読んでくれているのだとか。本当にありがたいことです。稽古場におじゃまして、ぼんやりと通し稽古を見ていたときに、不覚にも涙を流してしまった私。その感情の根を探っていったら、あのような記事になりました。舞台を実際に見て、いろいろ私が書いたことに対して「違うんじゃないか」といぶかしく思われる方もいるでしょうから。何か別角度の意見があったら、ぜひご指摘下さい。

私も帰国したら実際の舞台に臨んで、またこのブログにでも感想を書こうと思います。

(May 15, 2008)

Posted by iwaki : 20:28 | Comments (0)


9時半日没

パリに到着した日にテアトル・ド・ラ・ヴィルで山海塾の新作を観て、今はフランスのとある田舎町に来ています。ここは本当に小さな町で、15分も歩けばシティセンターの賑わいはほとんど見つくせてしまう。今日は天気が良かったのでカフェに席をもうけて、あれこれと考え事をしたり、仕事をこなしたりしていたのですが、気づけば2時間ほどたっていて「ああいけない、ぼんやりしてしまった」と一瞬焦ってしまった。けど、ふと顔をあげて周りを見渡せばカフェ客の顔ぶれが着座したときとほとんど変わっていない。しかも彼らはいまだ席を立つ気配がみえない。
今フランスは本当に日が長い時期で、夜9時半頃まで日が暮れない。すると彼らの何割かはこうやって日中の多くを、のんびりとカフェで過ごし、会話を楽しんでいたりするのです。
こんな場所にくると逆説的に、東京という街の巨大さと、刺激の多さと、とんでもない速力の忙しさに改めてきづかされます。別にどちらがいいということではないと思うのですが、ただこういう場所に来ると、東京で普通だと思っていた自分の生き方が、いやおうなく異色なものに思えてきてしまう。こんなこと誰もが外国にくると感じる凡百なことなんでしょうけど、やっぱり私もごたぶんにもれず同じようなことを考えてしまった。まあそんななんだかなぁ、という一日でした。

(May 10,2008)

Posted by iwaki : 06:46 | Comments (0)


はじめてづくし

明日から、人生30年ではじめてづくしの旅に出ます。
まず1ヶ月も家をあけることがはじめて。
欧州の小さな町を点々とするのもはじめて。
ちょこっと向こうで取材もするとはいえ、
これだけの期間、仕事を切りはなすのもはじめて。

こんなはじめてづくしの旅に出たときに、
自分ってものがどうなるか、見ものです。
人は知らずのうちに生活のなかで
「こういう時にこう対応するのが正解な自分」と
行動パターンを制御しがちです。でもそうすると、
どんどん人生での驚きや発見が少なくなってくる。
だから今回の旅では、なるべく自己規定せずに、変に大人ぶったりせずに、
未知の世界で未知の体験をいろいろしてこようと思います。
そうすれば自分に対する些細な発見がいっぱいあるはず。

余談ですが、ここ最近、フランス語を習い直しています。
飯田橋の日仏学院に通っているのですが、
ここで習ったフレンチがどれだけ通用するかも勝負です。
取材することになっているマチュー・ガニオに
挨拶ぐらいはフランス語でできればと思っています。

(May 7, 2008)

Posted by iwaki : 20:28 | Comments (0)


あたりまえに感謝

とても個人的なことですが、先週末に自分の人生観が変わるような「事故」に遭いました。それは本当に思いもよらない方向から、思いもよらない大きさで、自分に衝突してきて。まさに事故という言葉がふさわしいような状況でした。正直、30年生きてきてこんな衝撃に遭遇するのは初めて。自分のなかでこうした異常事態に対処する武器がなくてパニックに陥るのではないかと思いましたが、意外に平常心を保っていられた自分にも驚いたりしました。

でもこうしたことに遭遇したときに何よりも驚いたのは、まわりの「あたりまえ」と思っていた日常風景がいとせずして一変したこと。

毎日の通勤風景、毎日の見慣れた商店街、毎日の友人とのくだらない会話。そんなあたりまえなことが、あたりまえではないことに気づき、すべてに寛容な目をもって感謝したくなった。私はほんとに未熟な人間で些細なことにもグチグチと文句をたれたがるほうなのですが、そんなちっちゃな悩みは「まあ、かわいいもんじゃないか」と許せるようになった。

昨日の次には今日があり、今日の次には明日がある。人はあたりまえのようにそう思いがちです。だけど実は今日の延長線上に明日があるとは限らない。日本はとても平和な国なので、1、2、3と整数を刻むように平凡な日々が続いていくと考える人が多いですが、実はそうじゃないということに気づかされた。

何かのニュースで最近、今の20代の5割超が「今を楽しむ」より「将来に備える」というトピックを読んだ覚えがあります。これは裏を返せば、ほとんどの若者は普通に生きれば普通に老いて普通の将来が訪れる、と考えているということです。まあ確かに、今までは私もどこかでそうしたレールに乗っかって思考していた部分があったように思います。だけど今回のような事件にぶつかって人生のレールがぶったぎられたときに「そっか、将来はやって来ないかもしれないんだ」という甘えのないリアリティに気づかされた。で、そうなったら俄然、私の思考法は「今を楽しむ」に傾いていった。だって来るかどうかも分からない将来に備えても意味がないですからね。

ちなみにここで事故事故って言いまくってることは、今となっては、事故未遂っていうか、事故未満っていうか、最終的には大したことにならなかったんで、まあ、よかったんですけど。とにかく私はいろいろ考えたすえ「備えあれば憂いなし」よりも「一寸先は闇」という言葉を心に刻み生きていきたいと思いました。とりあえずこれからの私は「あたりまえ」に感謝しつつエゴイスティックにハッピーをむさぼって生きてやろうと思います。

(May 3, 2008)

Posted by iwaki : 00:52 | Comments (0)


バレエ取材ラッシュ

今週末から5月半ばにかけてバレエダンサーへの取材が続きます。
まずは吉田都さんへのSKYPE電話取材にはじまり、
同じくロイヤルのマリアネラ・ヌニェス&ティアゴ・ソアレス、
Kバレエカンパニーの清水健太さん、宮尾俊太郎さん、
そして5月半ばには『エトワール・ガラ』に出演する
オペラ座のダンサー数名に話を聞きにパリに飛ぶ予定です。

バレエは言うまでもなく絶対的な型が決まっているダンスです。
でも一流と呼ばれるダンサーほど、その型を自分流にリアレンジしている。
ルールを守ったうえで、自分にしかできない身体表現を編み直している。
で、その「自分流儀」の話を聞き出すのがこちらの第一目標になる。

ポライトな挨拶にはじまって、どこまで突っ込んだ話が聞き出せるか。
正直、出逢って30分強で自分流儀を根ほり葉ほり暴くほどつっこんだ質問をするのは
「取材」という形の会話形態でもなければ、かなりデリカシーに欠ける話です。
しかもその限られた情報だけで彼/彼女の思考方法に、ある程度、
こちらで勝手に目鼻立ちをつけて「こういう人です」と記事にしちゃうのだから、
これはある意味、恐ろしい作業だとさえ言える。

もちろん、なるべくバイアスのかからぬ人物像を記事にしようとは思ってますが、
私がインタビューをしている時点で主観は否応なく入りこんできます。
取材記事はそういう主観の上に成り立っているものなんだという事実を考慮して、
読者の皆さんには読んでもらえると嬉しいです。

いずれにしろなるべく真摯に丁寧に、
ひとつひとつの仕事に取り組んでいこうと思います。


(April 24,2008)

Posted by iwaki : 21:14 | Comments (0)


サビタと家族

今日は「サ・ビ・タ」という韓国産ミュージカルの取材に行ってきました。
出演者は駒田一さん、山崎育三郎さん、原田夏希さんの3人。
私はこの作品をこのあいだソウルで見てきたのですが、
現代日本では少し考えられないほど王道に直球に
家族愛を歌い上げる作品で少し驚いて帰ってきました。

韓国に詳しい知人によると「家族愛」は韓国人の十八番ネタなんだそう。
だからこの作品も万人受けして10何年もロングランしてるらしい。
でもだからといって韓国のファミリーが、
みな幸せ家族計画を地でいってるわけじゃない。
むしろ、韓国人の離婚率は今50%に迫る勢いだと聞いたから。
2人に1人が幸せじゃないと思って離婚しちゃうわけだ。

日本よりも圧倒的に「世間体」の概念が強い韓国。
だから誰もが周囲に押されて結婚せねばと急いてしまう。
でもいざ結婚してみたら、あれれ、なんか違うぞと。
で、すっぱり離婚しちゃう。私の主観だとおそらく、
女性から離婚を迫ることが多い気がする。

そんな韓国で作られた幸せ家族ミュージカル。
彼らの理想の家族像がここから見えてくるのです。

(April 20,2008)

Posted by iwaki : 22:01 | Comments (0)


記憶

ここ数日、阿佐ヶ谷スパイダーズの新作公演の取材をしていました。
私が担当したのは奥菜恵さんと伊達暁さんのふたり。
「記憶」という大きなテーマを掲げ、お二人の現在に至る記憶について
具体的なエピソードをいろいろと語ってもらいました。

話を伺っていて面白かったのは、お二人の記憶に対するアプローチの違い。
奥菜さんはどちららかというと「衝動的な感情」を鮮明に覚えていて
伊達さんはどちらかというと「能動的な行動」を記憶化していた。

あととても面白かったのは「自分を作り上げてきた記憶」というテーマで
質問をしたときに二人からさほど「仕事=役者業」の話が出て来なかったこと。
やっぱり人にとっては恋人や恩師や家族や友人との記憶のほうが大事なんですね。

詳細は『失われた時間を求めて』(http://asagayaspiders.net)の
公演パンフに書くのでそちらを読んでみて欲しいのですが、
他者の記憶を2時間もかけて取材することなんてめったにないので、
なかなか面白い体験でした。

周りの人間にも今度やってみようと思います。
誰かボランティアで自分の記憶を取材して欲しい人がいたら是非連絡ください。

(April 17,2008)

Posted by iwaki : 16:22 | Comments (0)


アエラ

今週の月曜日(4/7)に発売になった「AERA」に記事を書かせてもらいました。
タイトルは「バレエ献身愛を貫く女子たち」。
たった1ページの記事ですが、
多くのバレエファンの方たちにメールで取材をしたり、
直接お会いして話を聞かせて頂いたりして、文章を書き上げました。
取材に協力してくださった皆さん、本当にありがとうございました。

しかし取材させて頂いて改めて感じたのは、
皆さんのバレエに対する心からの深い愛です。
私は幸か不幸かバレエダンサーに会って取材することを
趣味ではなく職業にしてしまったために、
気づかぬうちに少しバレエに対する愛を
失ってしまっていたかもしれません。
でもこの取材を通して、バレエを理屈なく愛していた
原点の気持ちを再認識できた気がしました。

記事は一般誌向けに、あえて分かりやすく書きました。
その結果は、賛否両論です。
でもフィードバックはなんにせよ意見としてすべてありがたいです。
このブログにもようやくコメント欄をつけたので、
何か意見があったら是非、書き込んでいってください。

(April.13, 2008)

Posted by iwaki : 00:18 | Comments (0)


手を見る

何かの本で読んだのですが、
人は顔の表情はコントロールできても
手の表情は制御しきれないそうです。
だから顔では朗らかにゆったり笑っていても
手は緊張で汗ばんでいる、なんてことがよくあるらしい。

だから私は取材時に、
取材対象者の手をよく見るようにしています。
そうすると、意外に、いろんなことが読み取れてくる。

今日も4人のかたに取材をしてきたのですが、
いろいろな「手の会話」が読みとれて面白かった。

ざっくばらんなトークとはうらはらに
断固として膝のうえで丁寧に手を重ねそれを崩さない人。
顔ではリラックスしてしゃべっているふうなのに、
両手ではペットボトルを握りつぶさんばかりに持ち続けてる人。
あるいは質問をうーんと考えているときには
いつも左手の結婚指輪を不安げに触り続けている人などなど。
なかなかこうした非言語コミュニケーションから
読み取れる情報は面白い。

何やってんだ取材に集中しやがれ、
と文句を言われるかたもいるかもしれませんが、
こういうことを見るのも私はインタビュアーの仕事の一部だと思っています。
だってインタビューは字義どおりINTER「VIEW」であって
INTER「HEAR」ではないわけですからね。
でも私は、本当にまだまだです。
プロのインタビュアーとして、
もっとちゃんと相手を誠実に見る技術を培いたいと思います。

(April 11,2008)

Posted by iwaki : 17:57 | Comments (0)


コリア

アニョハセヨ。
約1年ぶりに韓国に行ってきました。
主な目的はFESTIVAL BO:Mというコンテンポラリーアート全般を紹介する
公演に足を運ぶこと。KOREA NATIONAL UNIVERSITY OF ARTSのなかで行われた
このフェスティバルは、まだ立ちあげられて間もないものなのですが、
アジア圏のフェスティバルにしては珍しく「真にコンテンポラリー」な
才能が集められていて、去年などはクリスチャン・リッツォ、
ロメオ・カステルッチ、ジェローム・ベルといった
コンテンンポラリー・ダンス界のそうそうたる面子が集結したそうです。
なかなか目敏いプロデューサーさんが場を仕切っていると見ました。

でもそんなアバンギャルドなアートフェスとはうらはらに、
韓国の町並みはまるでチャルメラの流れる20年前の東京のように素朴。
まだ生きる人たちが「正しく身の丈にあった生き方」をしている気がしました。

現在の東京は情報が多いぶん、庶民ひとりにいたるまで、
成功への「イメージ」が無数に与えられています。
でもそれはあくまでも「イメージ=虚像」であって
決して自分が生きるべき、生きなければならない「現実」ではない。
そこを多くの人がはき違えていて、世間一般の考える
「成功のイメージに近づかなければ」という妄想にとりつかれ、
誰も彼もが自分の手でコントロールできないほどの、
身の丈にそぐわぬ巨大なサクセスを追い求める。
これではいつまでたっても、心の健康は得られないように思います。

聞く話によると都市部のエステは、バカンス地のエステよりも
指圧のレベルがきついそうです。日々、強い刺激にさらされ続けている
都会人たちの皮膚感覚は知らないうちに麻痺しているそうで、
より強い刺激を与えなければ快楽を得られなくなるらしい。

で、これを持論で演繹すると、心にも同じことが言えるように思います。
くる日もくる日も強烈な刺激の雨粒に打たれ続けている東京人の「心感覚」は
たぶんかなり麻痺している。逆にソウルにはそれほどの強い刺激がないからこそ、
人の心の感覚が、素直にパワフルに敏感に、新しい刺激にビリビリと反応している。
アートフェスの反応も、他国では見られないほどパワフルでした。

どんなにアバンギャルドで斬新なアートを見せても、
それに反応する心を持っている人がいない限り、それは豚に真珠ってもの。
素晴らしいストレートをピッチャーが投げ続けているのに、
なんで誰も打ち返してくれないんだ!とちょっと寂しくなってしまう。
で、私も含めた東京人の多くは、こうしたストレート球を打ち返せなくなってる気がする。
自分の成功=自分がメジャーリーガーになって成功している像は
入念に思い浮かべられるのに、逆に、目の前を通り過ぎる球に対してはどこか盲目。
これじゃあ、バッターボックスに立つ毎日が敗北感の連続ってもんです。

もっともっと「身の丈にあった」「小さな変化」に目を向けること。
メジャーリーグのオールスター選手になることをいきなり夢見るのではなく、
草野球で1塁に出塁することからまずはじめてみること。
それこそが些細でも幸せな手応えを感じられる日々につながるのではないかと、
韓国での数日間はそんなことを私に思わせてくれました。

(April 4, 2008)

Posted by iwaki : 13:58 | Comments (0)


幸福論

今日、とてもインテリジェントで美しい女性に取材をしました。
とはいえその方は、役者でも演出家でもありません。
私と同業の文筆家です。そして私よりもずっと、あらゆる意味で大人です。
そんな彼女と話の流れ上「幸せとは何か」という地点に辿りつきました。

彼女はそこで
「醜いアヒルの子になることを恐れず、
 お金と権力に束縛されない生き方をすること」
と即答しました。

こういうことを口にする人は大勢います。
けど、彼女の場合はその言葉が他人の借り物ではないことがすぐに分かった。
つまりその実践哲学に則って、彼女自身、目に見えて素敵に歳をとられていた。
そしてだから、まるでホメオスタシスのぶっこわれた人間のように、
このところ「幸せ哲学」について無駄に非論理的に懊悩しつづけ、
完全にメンタリー・アンステイブルな状態になっていた私には、とても響いた。

職業や地位や年齢にまったくもって関係なく、
自分に嘘のない哲学をもって生きる人は美しい。
私はそういう人を、心から尊敬する。

(March 27,2008)

Posted by iwaki : 23:18 | Comments (0)


ありのまま

アルバート・エリスという著名な心理学者が開発したセラピー術に、
理論感情行動療法というものがあります。
その療法でエリスさんは、他者(特に恋人や夫婦)と
良好な関係を構築するための第一条件として
「ありのままの相手を受けいれること」をあげています。
これは言葉で聞く以上に、とても難しいことです。

まずだいたい、ありのままの自分ってものが確かにあるかも定かでないのに、
ありのままの相手なんてものを受け入れることができるのでしょうか。
それにありのままの相手を「見る」だけでも大変なのに。
ありのままの相手を「受け入れろ」っていうのは。
これはもう相当にシビアな眼とタフな覚悟が必要になってくる。

現代日本では20代の独身女性の7割近くに恋人がいないと聞きました。
確かに自分ひとりでも相当に生きづらい今の世の中、
パートナーに対するこうした責任感を背負うのは面倒くさいのかもしれません。
その顕著な例としてある30代の女性がこんな発言を私にしてきたことがあります。

「仕事は投資したぶんだけ確かな見返りがあるけど、
 恋愛はどれだけ投資しても
 何も返ってこないかもしれないから面倒くさい」

確かに恋愛は決して安定株とは言えないしろものです。
先が読めなくて難しくて七面倒くさい。
けれど「面倒くさい」って言って切り捨てたら、
それこそ世の大概のことは前に進まなくなる。
自分の世界がちっちゃく安全に閉じてしまう。

面倒くさいっていうのは、
実はとても個人的な感情に思えて、
社会に悪影響を及ぼす罪なエゴだと思う。
とにかく私自身はこの「面倒くさい」となるべく戦っていきたいと思います。

(March 22, 2008)

Posted by iwaki : 23:37 | Comments (0)


ベイビー・レイヴ

気づけば周りの友人の多くが「コブつき」に。
子供が生まれ育児に追われる日々を送っています。

で、いつも思うのだけど彼女たちの話に耳を傾けていると
ここ東京ではベイビーたちと一緒に遊びに行ける場所がとても少ないらしい。
特に私のまわりにたむろしていたようなカルチャーフリークたち、
学生時代にアートや音楽にのめり込んだ女たちが、
子連れで遊びに行ける場所があまりにもないらしい。

そこで個人的な好奇心から
世界の赤児娯楽産業はどうなってんだ、と調べてみたら。
いやはや、英国近辺のベイビー市場が
とんでもなく面白いことになってました。
特に私の専門である、パフォーミング・アーツ市場で
赤児&子供をメインターゲットにした娯楽産業がむちゃくちゃ加熱してる。

たとえばアイルランドのベルファストでは「BABY RAVE」なる
イベントが毎年開催されているらしい。
これはその名のとおり、赤児とその親をターゲットにしたレイヴイベント。
このあたりの国民のクラビング好きはつとに有名ですが、
子連れでも行ったるぜ!というこの骨太な気概が素晴らしい。
ベイビーと一緒でも胸元ざっくりなセクシー服に身を包んでいくのでしょうか。

またロンドンのOILY CARTというカンパニーも、
どでかいバルーンを膨らましたような仮設テント小屋をって、
「multi-sensory trip(多触覚体験)」なるものを目指した
とてもハイクオリティなライブアート体験を提供しています(写真)。

ナショナル・シアターのトム・モリスを中心としたカンパニーは、
「OOGLY BOOGLY」という名の45分間の即興パフォーマンスを、
ARCHITECTS OF AIR(建築家アラン・パーキンソン率いるアート集団)が
作り上げたとても審美性の高い芸術空間のなかで行っています。

これなら私も子供ができたときに一緒に遊びに行ってみたい。
エッジのきいたプロデューサーさん、
一緒にこういうものを日本に呼びませんか?

PB070102_012A4.jpg

(March 18, 2008)

Posted by iwaki : 21:34 | Comments (0)


I'D DO ANYTHING

だんだんと春が近づいてきてますね。
恋がしたくなる季節です。
仕事をしなくちゃいけないのに、
ぼやぼやと窓から外ばかりを眺めてしまいます。

さて、そんな春の訪れとともにイギリスでは面白い
演劇リアリティTVがスタートしました。
その名も『I'D DO ANYTHING』。
芝居フリークの方ならすぐにお気づきでしょうが、
この題名はミュージカル『オリバー!』の名曲から取られています。

この番組では今年末から英国ドルリー・レーン劇場で上演される
『オリバー!』の開幕に向け、オリバー役とナンシー役を公募。
3人のオリバー少年と、1人のナンシーを、番組内で選んでいきます。

実はこの番組、今年ですでに3シーズン目を迎える人気シリーズ。
06年には『HOW DO YOU SOLVE A PROBLEM LIKE MARIA?』と題し、
パラディアム劇場で上演された『サウンド・オブ・ミュージック』のために
完璧なマリア役=新星コニー・フィッシャーを発掘。
07年には『ANY DREAM WILL DO』の番組名のもと、
現在アデルフィ劇場で上演されている、
『ヨセフと不思議なテクニカラーのドリームコート』の
主役リー・ミードをスターの座に押し上げました。

で、今年は『オリバー!』。
審査員のひとりはあのアンドリュー・ロイド・ウェバー。
この人は本当に作曲家のくせに商売上手ですね。

ただこれ、ひとつネット上で物議をかもしていることが。
実は今回はオリバー役をテレビ投票に関係なく、
ロイド・ウェバー氏が独断で選ばれるそうなのです。

番組を放映するBBC1によるとその理由は、
「9歳から14歳の少年を公の場で裁くのはかわいそうだから」
何万人という観衆にフェアに裁かれるのと、
ロイド・ウェバーひとりに番組内で冷静にジャッジされるのと、
一体どっちがかわいそうでしょうかね。

ちなみにナンシー役は18歳以上の大人が審査に臨むので、
普通にオンライン投票を受けつけるそうです。
詳しいことを知りたい人は、こちらのページをご覧あれ。
放映は日本時間の今日、現地時間の3月15日から。

http://www.bbc.co.uk/oliver/

(March 16,2008)


Posted by iwaki : 18:32 | Comments (0)


JOB AND WORK

ダスティン・ホフマンがとあるインタビューでこんなことを語っていました。

僕はいつもJOBとWORKを区別化するようにしている。
JOBは毎日5時になったら、すぐさま帰りたくなるもののこと。
でもWORKはそれとは違う。WORKはいつまでも辞めたいと思わない。
僕はWORKに従事してるとき、それこそ死を感じないんだ。

最近、多くの人がこのJOBとWORKを混同している気がします。
やりがいがないと仕事じゃない。あるいは仕事じたいを愛したい。
表面的な言葉だけを聞くと、これはとても素晴らしいことに思えますが、
果たして本当にそうなのでしょうか。
JOBの域にWORK的なクリエイティビティを求めたり、
逆にWORKのほうにJOB的な賃金報酬を求めたりしすぎると、
人はだんだんと苦しくなっていくのではないでしょうか。

自分の仕事はJOBなのかWORKなのか。
このインタビュー記事を読んで、
そんな問いかけを自分にも、ふとしてしまいました。
(March 14, 2008)

Posted by iwaki : 21:17 | Comments (0)


ホームページ開設

皆さん、こんにちは。
ようやくホームページを開設することができました。
これからここで、私が日々の仕事や愉楽のなかで感じたことを
気のおもむくままに徒然に書いていければと思います。
本職はおもに、演劇やダンスの記事を執筆することですが、
それ以外にも世の中には興味をそそることがたくさんあります。
フリージャーナリストという職業は
本来は文字どおり「フリー」であるわけで、
なるべく自由にこの刺激的な世の中を泳ぎまわり、
目に止まった情報や、心の網にかかった疑問を、
発信していければと思います。

たとえ取材仕事でなくとも、新しい人と出逢うことは楽しい。
このホームページでも、そんな新たな人との出逢いを望んでいます。
(March 12, 2008)

Posted by iwaki : 15:42 | Comments (0)


Calendar
December 2011
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31


Recent Entries
2011年を振り返る
美女と酒と芸術のクルージュ
東京演劇現在形ウェブサイト
11月5日発売『東京演劇現在形』
批評家・イン・レジデンシー
英語という機械へのチェンジ
五輪開催地域と芸術家村
地獄の週、楽園の週
ロンドナーの経済時間感覚
東京をニュートラルに旅立つ
「ふだん革命」の提言
告知:7月ロンドン移住
仕事十年のふりかえり
変で不思議なシンガポール
鳩山、オザケン、清原
閉塞感をドーナツで打破
大ピンチが生む純粋思考
「孤独都市」の震災被害
日本の日常が恋しい
パリでネット難民
頼り、地道、感情
ものすごい日常ブログ
大地震
東北・太平洋沿岸地震
非旅化した旅の良さ
ふにゃふにゃカミングアウト
公共劇場と三つのコスト(2)
公共劇場と三つのコスト (1)
ちくしょう、な初もの体験談
島根の美景に、酔えない